名前のないその感情に愛を込めて
あの夏を、今でも覚えている――。
風に揺れる葉と踊る木漏れ日。セミの鳴き声につられて迷い込んだ山道。
山間の開けた場所に突如現れた古びた鳥居と、そこに貼られた半分掠れて見えなくなっているお札。
切れかかったしめ縄は垂れさがったままゆらゆらと宙を揺蕩い、辺りを不思議な空気が包み込んでいた。
親から、山に入ると悪い天狗に連れ去られてしまうぞ! と脅されていたことを思い出す。
「ここが、天狗のおうち……?」
吉宮あずさは、その寂れた神社の入り口に立ち、呟いた。
「天狗なんかいないよ」
急に声を掛けられ、ひっ、と小さく声を上げ振り向く。
しかしそこに立っていたのは天狗などではなく、同じくらいの年の、男の子だった。
「……天狗はいないの?」
恐る恐る訊ねると、着物姿の男の子はにっこり笑って、
「天狗はね、もっとずっと、山の上に住んでいるから」
と優しく教えてくれた。
あずさはその男の子の笑顔がとても優しく感じられ、胸を撫で下ろす。
「あなたも天狗じゃないのね。でも、着物なんか着てるから天狗が化けてるのかと思っちゃった」
「僕が? まさか!」
とんでもない、といった風に手をばたつかせる。
「私、吉宮あずさ。あなた誰? この辺の子?」
山の麓には、母方の実家がある。毎年夏にはこの場所に来ていたが、この寂れた神社も、男の子も、あずさの記憶の中には、なかった。
「僕の名前は雪光。……ねぇ、ここが禁足地だって知ってるの?」
「きんそくち?」
初めて聞く言葉に、あずさが首を傾げる。八歳のあずさにとっては、なんだか大人の言葉みたいに聞こえる響きだ。
「ここは人間が足を踏み入れちゃいけない場所だ。早くお帰り」
そんなことを言う雪光だって子供じゃないか、と、あずさは口をへの字に曲げる。
「雪光君だってここにいるじゃない」
腰に手を当て抗議すると、雪光は困った顔で小さく溜息をついた。
「僕はいいんだ。いい、というか、仕方ないんだ。あずさは駄目なんだよ。だから、」
名前を呼び捨てにされ、なんだか急に照れてしまう。母親や祖父にしか呼び捨てなんかされたことがないのだ。こんなに年の近い、しかも男の子に名前呼び。
「なっ、なんで私は駄目で雪光はいいのよっ」
動揺しながらも呼び捨てで返す。しかし、雪光の方は呼び捨てられても全く動じる様子はなく、淡々とした様子で、
「僕は……帰る場所がないから」
と言うのだった。
「え? 迷子なのっ?」
「そういうわけじゃ……いや、もしかしたらそうなのかもしれない」
目を伏せる雪光は、なんだかとても儚く、悲しそうに見えた。
「じゃあさっ」
あずさはひときわ大きな声を上げると、雪光の手を握る。
「私がお友達になってあげる! おうちも、一緒に探してあげるよ!」
あずさとしては、事件を解決する探偵にでもなったかのような気持ちで言ったのだ。しかし雪光はあずさの言葉を聞き、ひどく落ち込んだように顔を曇らせる。
「ごめんね、あずさ。僕はあずさと友達にはなれないし、探してもらっても家は見つからない。だからもう、早く帰って」
くるりと背を向ける。
「な、なんでそんなこと言うのっ?」
せっかくお友達になると宣言したのに、それを否定されたあずさは腹が立つより先に悲しくなってしまった。人には親切にしなさい、誰とでも仲良くしなさい、と言われて育ってきたのだ。
「僕、もう行かなきゃ。あずさ、ここに来たことは大人には内緒だよ?」
背を向けたまま言う雪光に、あずさは、
「また会える? ここに来たらまた、」
友達になることを拒否されたのに、何故か、どうしても突き放すことが出来なかった。
「……いつか、もしかしたら」
小さな声でそう言うと、雪光は鳥居の向こう側へと走って行ってしまった。ザッザッという草を踏む音と、セミの鳴き声。絣の着物が遠ざかってゆく。生ぬるい、風。不確定な指切りのない約束……。
そしてそれきり、その夏も、次の夏も、その次の夏も、あずさと雪光が出会うことはなかったのだ──。
◇◇◇
都会の朝は忙しい。
起き抜けにシャワーを浴び、ヨーグルトを掻っ込むと着替えと化粧。今日のスケジュール確認をし、走るようにマンションを飛び出す。
新学期が始まったばかりのこの季節は、電車の中の学生もいつもより多く感じる。初々しい、制服に着られているかのような小さな子たちが緊張と期待に胸膨らませ、電車に揺られている。あんな時代もあったかな、などと思いを馳せるには、まだ若いあずさではあるが、二十六を迎え、親からの面倒なお願い事も声高になってきている。
『お見合いの話があるの』
いよいよ来たか、という感じだ。
母方の実家は、小さな商社の創業者の家系だ。小さいとはいえ、グループ会社をいくつか持っているので、あずさの母はそれなりにお嬢様である。そして一人娘。にも拘らず、あずさの父は病気で既に他界してしまっている。今はその会社を祖父と、あずさの母で経営しているわけだが、
「私は早く引退したいの。あずさが結婚して、旦那さんになる人が一刻も早く会社に入ってくれれば助かるわ」
という図式だ。
結婚相手に関しては引く手あまたというか、会社がいくつもついてくるとあって、取引先の重役の息子や、会社経営者の次男坊など、候補はいくらでもいるらしい。が、母のお眼鏡にかなう男性がなかなかいないようで、話の数ほど残りはしないという現状だった。しかしここに来てどうやら母が認める相手が見つかってしまったようで、見合いをしろとしつこく言われているのだった。
「おはようございます」
会社の前で声を掛けてきたのは一つ後輩の後藤正真。爽やかで穏やかな人柄は社内でも人気となっており、彼を狙っている女性社員は大勢いると聞いたことがある。しかし、そんな彼にはどうやら心に決めた人がいるようだ。
「おはよう。あ、後藤君、今日の会議の資料だけど、」
「準備は終わってます。あとで少し、チェックしてほしい箇所がありますけど」
「うん、わかった。ありがとう」
あずさは親の反対を押し切って今の会社に入った。母親は自分の会社に入れたがったのだが、親が社長をしている会社になど、どうしても入る気になれなかったのだ。結局は祖父の知り合いの会社に入ったわけだが、それは後で知ったこと。就活は自分で勝手にやっていたので、採用に贔屓や下心はなかったはず。と、信じている。
デスクの上に置かれたお菓子に目を遣る。可愛い付箋には『伊豆のお土産です』と、ハートマーク付きで書かれていた。
「里美ちゃんか」
週末、旅行だと言っていた後輩からのお土産だ。
充実した毎日だった。だから母からのお願いは、なるべく聞きたくはないのだ。今時、家の事情で政略結婚など流行らない。会社の跡取りなど、勤めてくれている社員の中から選べばそれでいいじゃないかとすら思っていた。
「あ、先輩、おはようございます!」
空になったお菓子の箱を持った奥田里美が声をかける。部署内に配り終えたのだろう。
「あ、里美ちゃん、お土産ありがとう」
「いえいえ」
「彼氏と、だっけ?」
「友人ですぅ」
「ふふ、そうでした」
奥田里美は、小さくて可愛らしくて、男性社員からも人気だ。なにを隠そう、後藤正真も里美狙いであることを、あずさは知っている。だが里美自身はあまり男性に興味がないのか、言い寄られてもするりと躱しているきらいがあった。勿体ない話である。
「そういう先輩はどうしました? 例の、お母さんからの、あれ」
先週の昼休み、一緒に昼食をとりながらそんな話を愚痴ってしまったのだ。
「あー、うん。また督促が来てた」
苦笑いで返すと、
「もう、いっそ彼氏を作って駆け落ちとかしちゃえばいいのに」
「なるほど、それもいいかもしれないわね」
駆け落ちなんて、ドラマの中だけの話だろうと思っていたが、確かに、本当に嫌ならそうやってどこかへ行ってしまうというのもアリかもしれない。
しかし……、
あずさにはわかっている。
きっと自分はそんなこと出来やしないのだ。嫌だと言いながらもお見合いをし、嫌だと言いながらも決められた相手と結婚してしまうのだろう。吉宮家に生まれた以上、そうすることが普通で、当たり前で、逃げ出すほど大きな不満や個人的な願いなど持ち合わせていないのだから。
午後の会議を終え席に戻ると、携帯に母からの着信があることに気付く。こんな時間に電話を掛けてくることなどない人だ。あずさは廊下に出て、電話を掛け直した。
「ごめん、会議だったの。なに? どうかした?」
『おじいちゃんが倒れたの!』
「ええっ?」
『今、病院にいるんだけど、これから実家の方に戻るから、あんた先に行って布団敷いておいてくれない?』
「ちょっと、大丈夫なのっ?」
『過労じゃないかって。少しお休みさせるわ』
「わかった。じゃ、午後休にしてもらってそっちに行くね」
祖父ももう八十になった。普段は矍鑠としているが、いつまでも若い頃のようにはいかない。改めて、そのことを突き付けられた気がした。
あずさは上司に事情を説明し、半休を取ると急いで祖父の家へと向かった。
都心からは車で一時間ちょっと。山奥というほどでもないが、自然豊かな場所である。
昔はここから会社に通っていた祖父だが、今はあずさの母と二人、都内のマンションで生活していた。それでも週末は実家で過ごしているので、生活感がない、ということはなかった。
あずさはひとりでマンションを借りている。名実ともに自立したい、と申し出たのは社会人になってすぐのことだった。生活はきついが、悠々自適である。狭いながらも楽しい我が家。手放すのは惜しい。
本宅に着く。
上がり込むと窓を開け、空気の入れ替えをする。祖父の部屋に布団を敷き、ふぅ、と息を吐いた。母から、到着時間は夕方から夜になりそうだと連絡が来ていた。まだ時間がありそうだ。
あずさは庭から外に出ると、サンダルをつっかけ、何の気なしに山の方へと散歩に出た。
そういえば昔、山の中で男の子に出会ったな、などと思い出す。
絣の着物。
ここは禁足地。
懐かしいひと夏の思い出である。
「ん?」
山道を歩きながら辺りを見渡す。見慣れた山道の筈なのに、何故だか道に迷ったかのような感覚に襲われたのだ。
「……あれって、」
視界の先に見えてきたのは、古びた鳥居。そこに貼られた半分掠れて見えなくなっているお札と、切れかかった、ゆらゆらと宙を揺蕩うしめ縄。
「まさか、ここ……」
あの夏以来、何度山に登っても見つけられなかった場所。雪光との再会を果たしたくて、祖父の家に来るたび探した、禁足地。
「夢じゃ……なかったんだ」
何度探しても見つからなかったこの場所を、あの日の出来事を、あずさは夢だったのかもしれないと思った時期もあった。だけどあの時、確かに自分は雪光の手を、握ったのだ。大人になった今、やっとここに来られたことが嬉しくもあり、不思議でもあった。
目の前には鳥居。
その向こうは?
何があるわけでもない。ただ、同じような草木の生えた、山の風景。
あずさは鳥居を潜ると、その先にある少し開けた場所へと進んだ。鳥居があるということは、きっと昔は神社があったに違いないのだ。今ではその片鱗も見て取れなかったが。
「……お前まさかっ?」
横から声を掛けられ、肩をビクつかせる。声のした方に視線を移すと、着物姿の青年があずさを見て驚いている。背も高く、声も違うが、面影は、ある。
「……雪光?」
名を呼ぶと、何故か雪光は額に手を当て、天を仰ぐ。
「なにをしてるんだ、」
呆れたような声でそう言い、溜息をついた。
「なにって……そっちこそ、また会おうって言ってたのに全然出て来てくれなかったじゃない!」
出て来てくれなかった、などと、まるで幽霊扱いだ。しかし、あずさには雪光が普通の人間ではないのだろうな、という漠然とした思いがあった。それは大人になるにつれ、確信へと変わる。懐かしさはあるものの、なんだかあの当時に戻ったような空気感。ずっと会っていなかったとは思えないほど自然に、二人が共に存在しているイメージだった。
「ここへ来ちゃ駄目だって言ったろ? 聞いてなかったのか?」
「聞いてたけどさっ。……ねぇ、元気にしてた?」
笑ってそう言うあずさに、雪光がまた、溜息をつく。
「なにが『元気にしてた?』だ。お前、鳥居を潜ったな?」
昔より親しい距離感で会話をしてくる雪光に、あずさの心が躍る。
「だって、やっとこの場所に辿り着いたんだもん。雪光にも会いたかったし?」
チラ、と上目遣いで見上げれば、伸びた髪を無造作に後ろで束ねた端正な顔立ちの青年が照れたように目を逸らす。
「雪光は? 私のことなんか、忘れちゃってた?」
「……忘れてなんか、ないけど」
「そ。なら、よかった」
なんだか急に照れくさくなり、あずさがくるりと背を向ける。
「それにしても、ここって何? 昔は神社だったのかな、やっぱり」
「……ああ、そうだな。ずっと昔は、ここは神社だったよ」
「ずっと、って、どのくらい?」
「さぁね」
誤魔化すようにそう言う雪光に、あずさが突っ込む。
「なんだ、雪光も知らないんじゃない。で、結局のところ、雪光って幽霊なの? 天狗じゃないんだもんね?」
本当に幽霊だったとしても、きっと怖くはないだろう。そんな軽い気持ちで口にした一言。しかし、言われた雪光はとても驚いた顔をしてあずさを見る。
「お前、どういう神経してるんだ?」
「なによそれ」
「自分の立場が分かってないだろ?」
「は? 立場って?」
大人気ないとは思いつつも、なんだかこの場所で雪光と話していると、子供時代に戻ったかのような自分になる。活発で、自己中心的で、素直で、怖いものなしだったあの頃に。
「ここは禁足地だ。人間が足を踏み入れちゃ駄目な場所だって言ったよな? あの鳥居は、潜ってはいけなかったんだ」
「もう遅い」
おどけてみせる。
「……仕方ないな。瀬織津姫に事情を説明して何とか帰れるようにしてもらわないと」
「せおりつ……姫?」
「禍津日神のことだよ。この地を治めている神だ」
「神様!」
半分好奇心、半分野次馬根性で叫んでしまう。神社という場所は神を祀っているのだというごく当たり前の事実を、改めて再確認するような。
「ってことは何? 雪光って、神様の遣い? 狐か何かなの?」
ワクワクしながら訊ねるも、雪光はそっけなく
「違うよ」
とだけ答えた。
ザザッ、と風が鳴り、それを合図にするかのように雪光があずさの手を握った。
「え?」
「こっちだ」
雪光に手を引かれ、あずさは奥へ、奥へと進んで行った。
神様に会えるのかと思っていたあずさは、切り株に座り頬を膨らませていた。待っていろと言われたまま放置なのだ。
それにしても、と周りを見る。
何の変哲もないただの山の一角。朽ちた神社の跡地。ここが禁足地である理由がよくわからない。そして雪光が何者であるのかも。
未知の領域に踏み込む、という行為は嫌いではなかった。
親に反発し、就職先を自分で決め、家を出たあの時、自分の中にあったのは期待や冒険心だ。今も、それは変わらない。雪光に『帰れるようにお願いしてくる』と言われ、それはつまり、このまま家に帰れないかもしれないことを示唆しているのだな、ということは理解できたが、それを不安に思う気持ちはなかった。
「親の敷いたレールの上を行くくらいなら、いっそわけのわからないこの場所で、っていうのもありかなぁ……なんて」
「ありかなぁ……、じゃない!」
「うわぁ!」
頭上から振ってきた声に驚き、飛び上がる。いつの間にか後ろに立っていた雪光が腕を組んで眉間に皺を寄せていた。
「ほら、帰るぞ」
顎をしゃくってあずさに言った。
「え? もう? 話、付いちゃったの?」
あまりにもあっけない顛末に、がっかりするあずさ。
「は? 何を言ってるんだ! 戻れなくなるかもしれなかったんだぞっ?」
声を荒げる雪光に、あずさは
「それはそれで、よかったかな、って思ってた」
と言ってしまう。
不貞腐れているだけだとわかっていても、不満は不満として心にある。
「なにを言って、」
「だって!」
はぁ、と息を吐き出すと、今の思いを吐露する。
「ここから先の私の人生、もう決まってるし、それって私が選択できないものだし、決められた人生をただ進むだけなんだもんっ。なんだかそういうこと考えてたら帰らなくてもいいかな、って思っちゃったんだもんっ」
駄々っ子のような物言いだ。
こんなのただの八つ当たりで、現実逃避にもほどがある。
「……それでも、それはお前の選んだ道であり、お前の人生だろう?」
悲しそうな顔で雪光が呟いた。
あずさは、言ってはいけないことを言ってしまったのだと察し、
「……ごめんなさい」
と謝る。
雪光にしてみれば、きっとあずさが『生きている』だけで、それは素晴らしいことなのだと思っていたに違いない。定められた道筋とはいえ、《《変えることができる》》のだから。
無言で歩き始めた雪光のあとをついて、大人しく歩く。何か言葉を掛けたいけれど、なにを言っていいのかわからなかった。
すぐに鳥居の前まで辿り着いてしまう。このまま別れるのが嫌で、つい
「また来てもいい?」
と聞いてしまった。
「駄目だ」
「なんでよ」
「だから、」
「鳥居の向こうにはいかない! ここでなら会えるんでしょ?」
禁足地は、鳥居の向こう側。ならば鳥居の前で会う分には問題ないはずだ。
「……なんでお前に会わなきゃならんのだ」
「それはっ、」
明確な理由など、何もなかった。
「それは、私が雪光に会いたいから! もっと仲良くなりたいから! ね? いいでしょ?」
どうしてそこまで固執するのか、その理由は自分でもわからなかったが、もっと彼を知りたい、というのは嘘ではなかった。
「意味が分からない。何を言っているんだお前はっ、」
「ねぇ、なんで『お前』なの? ちゃんと名前で呼んでよっ」
小さい頃より口の悪くなった雪光にそう注意する。と、気まずそうに頭を掻き、
「ごめん、なんか気恥ずかしくて……」
と照れる。
あずさの中で、なにかが「きゅん」と言った。
◇◇◇
「本当、大したことなくてよかった」
祖父が母に連れられ、屋敷に戻った。本当にただの過労だったようで、点滴を数本打ってもらい、帰されたとのことだった。
「気ばかり若くても、年だな」
そう言って苦笑いする祖父に、そんなことないよ、と言えばいいのか、そうだよ、と言えばいいのかわからず、黙る。
「あずさ、今週末。わかってるわよね?」
母、佳子が容赦なく念を押してきた。この状況でNOと言えるほど鋼の心臓は持ち合わせていない。あずさは黙って頷いた。
「それと、今週はおじいちゃんずっとこっちなんだけど、お母さん金曜だけどうしても抜けられない会議があるの。休み、取れる?」
「多分大丈夫。じゃ、木曜の夜にこっちに来るね」
「お願いね」
そんな約束を交わし、夕飯も食べずに自宅に戻る。明日の仕事に差し支えないよう、早めに帰りたかったのだ。
やはり自分の家が一番落ち着く、などと年寄じみたことを考えていると、携帯の着信音が鳴った。見ると、奥田里美、の文字。会社でなにかあったのだろうか、と、慌てて出る。
「もしもし、里美ちゃん? なにかあった?」
『あ、吉宮先輩! あ、えっと、お爺様は、』
「ああ、うん、大丈夫。本当にただの過労だったみたいで、休養を取れば問題ないって」
『それならよかったです! あの、実はプライベートなことなんですけど、ちょっと話を聞いてほしくて……』
「うん、いいわよ。今どこ? 外で会う? それとも、うちに来る?」
『いいんですかっ?』
「私はもう戻ってるから、大丈夫。場所、わかるよね?」
『はい! あと三十分くらいで行けます!』
ということで、急遽里美が自宅に来ることになった。冷蔵庫を漁る。酒のツマミになりそうなものをさっと作り待つことにする。アルコールは多分……里美が買ってくるだろう。
三品目を作り終えたところで玄関のチャイムが鳴る。ドアを開けると、コンビニの袋を掲げ、里美が
「来ちゃいました」
と言った。
早速女子会の開始だ。
里美とはこうして何度か家飲みをしたことがあった。よく出来た子で、可愛くてちやほやされてきただろうに、奢り高ぶるような態度は一切ない、サバサバ系女子である。
「うわ、じゃあいよいよ週末にお見合いなんですかっ?」
実家での話をすると、里美が眉間に皺を寄せ同情的な意見を述べる。
「誰か先輩を攫ってくれる人がいたらいいんですけどねぇ~」
そう言われ、何故か雪光の顔が浮かぶ。
(何考えてるの、私っ)
慌てて妄想をかき消した。
「それはそうと、どうしたの? なに? 誰かに告白でもされた?」
あずさが訊ねると、里美が驚いた顔であずさを見る。
「え? なんでわかったんですかぁぁ?」
ビンゴ、だ。
「なんとなく、ね。里美ちゃん、真面目だから。どうやって断ったら仕事に支障が出ないか、とか考えてるんでしょ?」
「えええっ? そこまでっ?」
「相手は……後藤君か」
「きゃ~! 先輩怖い! 予言者? エスパー? えええっ?」
本気で驚く里美を前に、思わず笑いがこぼれる。
「あはは、やだな、エスパーって何よ。っていうか、後藤君見てたらわかるわよ。いつもラブビーム出してたし」
「ラブ……ビーム、」
里美が繰り返した。全く気付かなかったようだ。
「で、彼はあえなく撃沈するわけか~。いい子だと思うんだけど、なにが駄目?」
訊ねると、里美は缶チューハイをぐっと飲み干し、
「駄目なわけじゃないですよ。ただ、私……、」
「え? 好きな人がいるってこと?」
言われる前に、口にしてしまう。
「やっぱり能力者~!」
里美に指をさされる。
「いや、だって告白されて、相手は別に駄目じゃなくて、でも断ろうとしてて、彼氏はいない……ってことは気になる人がいるっていう一択じゃない?」
笑って答える。
「そっか」
里美が納得したように頷いた。
「相手はどこの誰? うちの会社の人?」
「いえ、それがうちの会社の人ではないんですけどぉ」
歯切れが悪い。
「……関係先?」
「……です」
なるほど。
あずさの勤める会社には、よく関係先の会社の人間が出入りするのだ。社内の男性に限らず異性との接点は多く、実際それで結婚した女子社員もいる。同じ会社ではないから気を遣うこともなく、関係を持ちやすい、ということもあるようだった。
「どのくらい仲良くなったの?」
挨拶程度なのか、ご飯くらいは一緒に行けたのか。
「この前初めて声を掛けました。こんにちは、って」
「遅っ」
「だぁって、すごく人気なんですよ、彼! 他所の部署の子が狙ってたみたいで、声掛けて仲良くなったんだけど、連絡先の交換はしてくれないし食事に誘っても絶対断られるって。もうちゃんとした彼女がいるんじゃないかって噂になってて、だから……」
「なるほど」
世の中、早い者勝ちなのだ。いい物件ほど、早くに埋まっていく。そこまで優良物件なのかどうかは知らないが、里美が惚れるくらいなのだから、きっといい人なのだろう。
「私も協力するから、頑張りなさいよ」
「ほんとですかっ?」
「可愛い後輩のためだもん」
「やった~!」
無邪気に喜ぶ里美は、同性であるあずさから見ても魅力的で、本当に可愛いのだった。
「で、後藤先輩はどうしましょう?」
里美に言われ、
「正直に言えばいいと思う。気になる人がいるので、って」
「わかりました。そうします」
里美にフラれて落ち込む後藤のフォローをすることになるのだな、と思い、少しだけ彼に同情しつつ、ポテトサラダを口に運ぶあずさだった。
◇◇◇
自宅に帰り、数日が経った。
仕事中、ふいに呼び止められる。
「先輩っ!」
「里美ちゃん、どうかした?」
「こっちこっち!」
手を引かれ、エレベーターの方へと誘導される。今、まさにエレベーターの扉が閉まろうという瞬間、里美が小さな声で、
「あの方なんですっ」
と耳打ちをする。
じっと目を凝らすと、エレベーターに乗っていた男性とパチッと目が合ってしまった。すると、その男性がこちらに向けて手を振るのが見えたのだ。
「え? 手、振ったよ、今」
閉まり切った扉を指し、あずさが言う。
「えっ? 本当ですかっ? 先輩お知り合いなんですか?」
「は? 違うけど? 里美ちゃんに振ったんじゃなく?」
「私まだ顔見知り程度で親しいわけじゃないんですけどっ」
「……じゃ、私たちの後ろに誰かいたのかしらね?」
振り返るが、今は誰もいなかった。
「ああ、今日もカッコよかったなぁ~」
うっとり顔で目を閉じる里美を見て、あずさはほっこりした気持ちになるのだった。
恋する乙女は可愛い生き物である。
デスクに戻ると、携帯電話が点滅していた。見ると、母からのメッセージが入っている。
『週末のお見合いはおじいちゃんちで行います』
「え? 家でやるの?」
思わず声が出る。
『あずさは木曜の夜から泊まり込みになるのでしょ? ちゃんと準備しておくように!』
祖父の世話だけのつもりでいたが、見合いがあるというならそれなりの服も持っていかなければならない。少しばかり面倒だが、都内のホテルでやるよりは気楽なのかもしれないと思い直す。
「まったく……」
携帯を置き、仕事に戻る。金曜日に有給を申請した手前、少し多めに雑務をこなしておかなくてはならない。あずさは背筋を伸ばし、パソコンに向かった。
「……あのぅ、吉宮先輩、」
申し訳なさそうに声を掛けてきたのは、後藤正真だ。これは多分、例の話……、
「今日って、夜、お暇ですかぁ?」
しょぼくれた顔を見て思う。なるほど、《《時が来た》》のだ。
「仕方ないなぁ、一軒だけだよ?」
里美にフラれたやけ酒に付き合わなくてはいけないのは面倒だが、これも後輩のため。あずさは目の前の書類に目を落とし、ふぅ、と息を吐いた。
◇◇◇
木曜日、祖父の家に向かう車の中であずさは前日のことを思い出していた。
里美に振られた後藤正真の泣き言、である。
『いい感じだと思ってたんですよ、自分では。他にも奥田さん狙いの社員がいるってことは知ってたし、だからつい、焦っちゃったんですよね。でも、結局のところこういうのって早い者勝ちっていうか、自分を推していかないといつまで経っても見てもらえないじゃないですか。だったらもう、当たって砕けろ! って気になっちゃって……砕けちゃいました』
「ふふっ」
思い出して、笑ってしまう。
別に報告義務があったわけでもないのに、たった一度あずさに『奥田さんのこと気になってるんです』と言った手前、わざわざ結果を教えてくれたのだ。真面目でいい子なのは間違いない。ついでにと言っては何だが、あずさの愚痴まで聞いてくれたのである。
「誰かいい子がいるといいわねぇ、後藤君にも」
そんなことを独りごちる。
夜の田舎道は暗い。あずさは慎重に車を運転しながら屋敷に向かった。
「ただいま」
玄関先で荷物を下ろし中に入ると、テーブルに置手紙がある。そこには祖父の字で
『松田家にいます』
と書かれていた。
「まったく、おじいちゃんてば!」
松田というのは祖父である佐久造の幼馴染の家で、週末、こっちに帰ってきている時はしょっちゅう上がり込んで酒を飲む仲である。療養のためにこっちに来ているというのに、もうすっかり元気になって飲み歩いているというわけだ。松田家にいるということは、きっと帰りは午前様に近い。何のためにここまで来たのやら、である。
ぽっかりと空いた、時間。
あずさは思い立ち、運動靴に履き替えた。
外に出ると、大きな月が見える。これなら、大丈夫だろう。携帯と懐中電灯を手に、山の方へと歩き出す。
足元を照らし、転ばないよう、注意する。月明かりのおかげで、そこまで真っ暗闇、ということもなく進めた。ただ、あの場所に辿り着くとは限らないのだ。
「ううん、多分大丈夫」
確証など何もなかったが、ただ漠然とそう思いながら、進む。
「ほらね」
開けた場所に見えてくる、赤い古びた鳥居。そしてその近くには、雪光が立っているのが見えた。あずさに気付くと、腰に手を当て斜め上から睨みつけてくる。
「なんで来た! って言うんでしょ?」
くすくすと笑いながら近付くあずさ。
「わかってるじゃないか」
不機嫌そうに、雪光。
「では聞きますが、そういう雪光は、何故ここに? 私が来るってわかって、待っててくれたみたいじゃありませんこと?」
下から睨み返すと、雪光が降参、とばかり手を挙げた。
「確かに」
あずさは嬉しくなってズイ、と雪光の隣に並んだ。
「月、見てた?」
「え? あ、まぁ」
「どう思う? 月」
「どうって……綺麗だな、って」
「ふ、ふふふ」
あずさはニヤニヤしながら笑いを堪えきれなくなる。
「なにを笑ってるんだ?」
意味がわからず、雪光が訊ねる。
雪光はきっと知らないだろう。
『月が綺麗ですね』
夏目漱石が言った、有名なアイラブユーの訳である。
「……雪光って、好きな人とかいなかったの?」
さすがに進行形にするのは変かな、と、過去形で話を聞くあずさ。多分彼は幽霊……のような存在なので、生きていた頃の話でもいいから聞いてみたかったのだ。 しかし、
「いない」
三文字しか返ってこなかった。
「もぅ! 素っ気ないなぁ。もう少しなんかこう、ないわけ?」
更に突っ込むと、思ってもみなかった言葉が返される。
「俺、赤ん坊のころに捨てられてるから」
「えっ?」
今、目の前にいる雪光はあずさと同じくらいの年齢だ。それに、出会った時の彼も、確か当時のあずさと同じくらいだったように思う。なのに、赤ん坊のころに捨てられた?
「もしかして、前に言ってた姫様に育ててもらったってこと?」
だとするなら、雪光は神の子ということになるのではないか?
「半分はそうで、半分は違う……かな。俺がここにいることで、瀬織津姫もここにいられる、っていうか」
「どういうこと? 一心同体なの?」
話が見えず、聞き返す。
「ん~、なんて言えばいいんだろう。俺がこの地に縛られてるうちは、瀬織津姫もこの地にいる、って……わかるか?」
「ごめん、わかんない」
素直にそう口にする。
この地に縛られている。その言葉を聞き、最初に思い浮かんだのは『地縛霊』という言葉だ。幽霊かもしれないとは思ったが、まさか地縛霊だったとは……。
「でも、そんな小さい頃になんで捨てられちゃったの? 酷い親がいたもんだわ。っていうか、なんで赤ちゃんの時に捨てられたのにその姿? え? 待って、私が小さい頃に会った時は雪光も小さかったよね? どういうこと?」
幽霊って、成長するんだろうか、と想像し、首を捻る。そんな話、聞いたことがない。
「ああ、俺の姿が違って見えるのはおま……あずさの思念に反応してそう見えているだけだと思う」
「うわぁ、名前呼び」
久しぶりの名前呼びに嬉しくなって顔を覗き込むと、雪光が照れたように顔を逸らした
「やめろよっ」
「んふふ」
不思議な存在だ。幽霊なのか神様なのか、よくわからないモノ。けれど、恐ろしさは微塵も感じず、まるで幼馴染と話しているかのような妙な安堵感。
「で、お前は何しにここに来たんだよ。こんな時間に」
「ああ、私は……、」
急にモヤっとした何かが心の中に渦巻き始める。
親の言いつけで見合いをするためにここに来ました、と言おうとして、やめる。きっと雪光はこんな話に興味などないだろうと思ったからだ。ふぅん、で済まされてしまうことが、なんだか嫌だったのだ。
「私は……月が綺麗だったから」
「は?」
「雪光と一緒に、月を見たかったのかも」
空を見上げる。
鳥居の上に、丸い月が美しく輝く。流れゆく時間が、心地よかった。
◇◇◇
屋敷に戻ると、既に明かりが灯っていた。
「嘘っ、おじいちゃん、もう帰ってきてるっ?」
慌てて家の中に駆け込む。
「おじいちゃん、いるの?」
玄関先で声を掛けると、奥から『いるぞ~』とご機嫌な声が返ってきた。これは、そこそこ飲んできているに違いない。
「んもぅ、療養のためにこっちに来てるのに、松田さんちに行っちゃうなんて」
居間では、ソファに凭れかかってテレビを見ている祖父の姿があった。
「そういうお前はどこに行っていたんだ? こんな時間に若い女がひとりで出歩くなんて、危ないだろう」
ごもっともな話であるが、この辺りにはぽつぽつと民家が数件あるくらいで、コンビニすらないのだ。
「月が綺麗だったから散歩してたのよ」
「ほぅ、そんなロマンチックなことを言うようになったのか、俺の孫は」
ニヤニヤしながらあずさをからかう佐久造。
「なによそれっ。私だってねぇ、情緒くらいわかりますっ」
怒ってみせると、ふぅ、と息を吐き佐久造が言った。
「情緒はいいが、禁足地に近寄って神隠しにでも遭ったら困るからな。あまり遠くへ行っちゃならんぞ?」
ピク、とあずさの肩が震える。
「……禁足地? そんな場所があるの?」
ちょっとわざとらしかっただろうか。でも、もしかしたら祖父なら、あの場所のことをなにか知っているのではないか。そんな気がしたのだ。
「あずさが小さい頃にも話したことがあったろ? 子供の頃に聞いた話だ」
「詳しい内容を聞いたことはないよ。勝手に山の中入っちゃ駄目、って意味かと思ってた」
「まぁ、そういう意味合いもあったのかなぁ」
昔を思い出すように、目を細める。
「なんでも、昔、この辺りでは双子が生まれると不吉なことが起きると信じられていたらしい。双子のどちらかを人柱として神様に捧げることで、災いを遠ざけようとしていたんだ」
「人柱っ?」
思わず大きい声を出してしまう。
「ああ、そうだ。山の中には人柱となった子供の魂がいて、生きている人間を取り込もうとするから、その場所には近寄っちゃいけないと言われていたんだよ。神隠しに遭うぞ、なんて言い方もしてたなぁ」
「人……柱、」
「しかしそれがどの辺りのことなのか。まぁ、そもそも昔の話だからなぁ。どこまでが本当なのかは知らないがね」
赤ん坊のころに捨てられた、雪光。
もし彼が、差し出された双子の片割れ……人柱なのだとしたら。
生まれて間もない小さな命を、不吉なことが起こるかもしれないからという理由だけで殺したというのか。あずさは胸が締め付けられる思いだった。
「可哀想、などと思ってはいけないよ、あずさ」
「え?」
見透かされたような一言に、驚く。
「人の運命というものは、最初から決まっているんだ。人間は、決められた通りの道を、ただなぞって生きているいるだけさ。自分で選んだ人生なんて実はどこにもない。自分では選んだつもりでいても、実際はそうじゃない。運命ってぇのは、最初からぜーんぶ決まってるのさ」
ズシン、と心に響く。
生きる運命。死ぬ運命。
親の決めた相手と結婚する運命……?
「その子はそういう運命だった。それだけだ。下手に同情なんかすると、あっちの世界に連れて行かれちまうかもしれないぞ?」
子供を脅すみたいな言い方で、佐久造。
「まさか」
あずさが半笑いで返すと、
「……さて、俺はもう寝るぞ。あずさもそろそろ寝なさい。見合いは明後日だったな?」
あくびをしながら訊ねる。
「うん」
「わかった」
頷き、自室へと戻っていく佐久造。残されたあずさは、しばらくその場から動けなくなっていた。
──運命は最初から決まっている。
雪光は、初めから死ぬ運命だった?
「死ぬことが、人間の生まれる理由なんだとしたら、早かれ遅かれ同じこと……なのかな」
生まれれば、あとは死ぬだけ。
どう生きるか、とか、なにを成し遂げるか、などはすべて後付けだ。人間は、いや、命は皆同じように、この世に誕生して、死ぬ。命を繋ぐためだけに存在している小さな細胞の塊でしかない。無駄に感情などというものが邪魔しているが、つまりはそういうことだ。それは幼いころから祖父がよく口にしていた言葉。
寂しがりで臆病で、ちっぽけな存在。だからこそ、一生懸命生きるのだよ。人には親切にしなさい、誰とでも仲良くしなさい。それが宝になるだろう、というのは、今は亡き父の言葉である。昔は両極端だと思っていた二人だが、根っこの部分は似ているのかもしれない、と今なら思う。結局は皆、抗えないなにかの中にいる。
「どうせいつかはみんな死ぬ。だったら精一杯生きるのが正解なのか、それとも淡々と毎日をこなせばそれでいいのか」
いや、そんなことより……、
あずさは無性に、雪光に会いたいと思っていた。
(雪光が幽霊だとして、じゃあ彼はどうしてあの地に縛られているの? 人柱だから? 成仏できないでずっとあそこにいるのだとしたら、それって『死んだ』ってことになるの?)
悲しくはないのか。寂しくはないのか。恨んではいないのか。聞きたいことは沢山ある。けれど、きっとどれも聞けやしないだろう。雪光も、答えてはくれないだろう。祖父の口にした『同情などしたらあっちの世界に連れて行かれる』も違う。現にあずさは禁足地に足を踏み入れているのだから。そのあずさをこちら側に戻してくれたのは、他でもない、雪光なのだから。
「明日、行ってみよう」
小さくそう呟き、眠りについた。
なのに……、
翌日、佐久造は朝から熱を出した。病院へ連れて行き、点滴を打ってもらう。
結局山へは行けなかったのだ。
◇◇◇
「まったく、一時はどうなるかと思ったわ」
母、吉宮佳子が溜息をつきながら佐久造を睨んだ。
「いやぁ、すまん」
大したことはなかったとはいえ、療養中に酒を飲み、病状が悪化したなど、佳子にしてみれば心配を通り越して怒りに近い。
「あずさに来てもらって正解だったわね」
「まぁ、お役に立てたならよかったわ」
あずさは大袈裟にそう言っておどける。
土曜の朝。
つまり、今日は見合い当日である。
「お昼はお蕎麦取ることにしてるから、それでいいわよね?」
「いいんじゃない?」
「柊さんはお一人で来られるってことだから、あまり堅苦しくしないようにしてくださいね、会長!」
佳子が父である佐久造にそう、念を押す。ここで実父を『会長』と呼ぶあたり、やはりこの結婚話は二人にとって事業計画の一環なのだな、とあずさは改めて身につまされる思いだった。
そうこうしているうちに玄関のチャイムが鳴り、佳子がそそくさと出迎えに出る。あずさも慌てて後を追った。
玄関を開けると、そこに立っていたのは、見るからにいいところのお坊ちゃんタイプ……と言えばいいのだろうか。清潔感溢れる明るめのスーツ姿に文句なしの笑顔。しかし、その顔を見てあずさの心臓が跳ねた。……彼を、知っているのだ。
「あずさ、こちらが柊俊也さん。俊也さんのお爺様とうちの会長が学生時代の同級生で、俊也さんはお爺様の会社で営業部長をしているんですって! 俊也さん、こっちが娘のあずさです」
紹介されて、あずさは軽く頭を下げる。
「初めまして、ではないんですよね、あずささん」
おどけたようにそう口にする俊也を見て、あずさはやっぱり、と思った。どこかで見た顔だと思った。そしてそれが外れていたらいいのに、とも。しかし、どうやら外れではないようだ。
「あら、あなたたち知り合いだったの?」
佳子が嬉しそうに声を上げる。
「知り合いではないわ、お母さん」
「ええ、実は私、あずささんの会社に何度も行ったことがありまして。私はあずささんを存じ上げておりました」
お見合いだと言っていたのに、あずさは佳子から写真の類は一切見せてもらっていなかった。しかし、俊也は知っていたということか。
よりによって、あずさの後輩である奥田里美が思いを寄せている男性とお見合いをすることになるとは。あずさは重たかった気持ちがさらに重たくなっていくのを感じていた。
「こんなところじゃなんだから、さ、どうぞ上がって!」
佳子に促され、俊也が『お邪魔します』と屋敷に上がり込んだ。居間で待っていた佐久造に挨拶をし、そこからしばらく俊也の祖父と佐久造の昔話に花を咲かせる。俊也は三兄弟の末っ子で、家に縛られる必要もなかったのでこの見合いに乗り気であること、結婚したらあずさには家庭に入って支えてほしいことなどをざっくばらんに話す。今時専業主婦なんて、とあずさは思っているが、佳子や佐久造は俊也の意見に肯定的であると知り、少し驚いた。
「今は女性の社会進出が当たり前、なんて言うけど、子供を生み、育てることを考えるとねぇ。そんなに簡単な話じゃないわ。体の負担だって大きいし、何より子供は母親と一緒にいる方が幸せですものね」
お決まりの話である。
「ですよね! 自分も、子供の頃に母親が『お帰り』と出迎えてくれるのが当たり前の環境だったもので、出来ればそういう環境で子供を育てたいんですよね」
聞きながらあずさは、
(それって育てたい、んじゃなくて、育ててほしい、ってだけなんじゃ?)
などとひねくれたことを考えていた。
俊也は世渡り上手だな、とあずさは思っていた。佳子や佐久造相手に物怖じせず、上手く会話を回している。あずさが疎外感を味わわないようになのか、時々声を掛けて会話に参加させるよう仕向けたりもする。
お昼を挟み、時間はあっという間に流れて行った。佳子も佐久造も大満足だったようで、帰り際ギリギリまであずさをよろしく、と、まるでもうこの話が決まったかのような扱いだ。
「あ、そうだあずささん」
玄関で靴を履きながら、俊也が声を掛ける。
「はい?」
「明日はお時間ありますか? もしよろしければ、どこかに出掛けませんか?」
早速デートの誘いである。
「あ~、」
答えあぐねていると、
「あらいいわね! 行ってきなさいよ、あずさ!」
と佳子が促す。佐久造もその向こうで大きく頷いていた。これでは断れない。
「……わかりました。じゃあ」
「ああ、よかった! じゃ、また夜にでも連絡しますので!」
満面の笑みでそう言うと、来たとき同様、爽やかに去って行った。
俊也を見送った最初の言葉は、
「いい人じゃない」
「よかったな、あずさ」
であった。
あずさは顔を曇らせ、
「まだ結婚するかはわからないじゃない」
と、口にしたが、二人からは『あんないい人いない』『断る理由がない』など散々文句を言われてしまった。
適当に相槌をして居間を後にすると、
「ちょっと散歩してくる」
と屋敷を出た。
雪光に、無性に会いたくなっていた。
◇◇◇
鳥居の前、佇む人影。
「……だから、ここには来るなとあれほどっ、」
仁王立ちで待ち構えていた雪光が苦情を述べようとするも、それを遮ってあずさは雪光に突進していた。まさに『突進』という言葉がぴったりな動きだった。早歩きでずんずんと進み、雪光の体にそのままぶつかるようにして頭をぐりぐり押し付けたのだから。
「お、おい、なんの真似だっ」
戸惑う雪光にはお構いなしに、あずさは雪光の腕のあたりに頭をぐりぐりこすりつけた。
「ちょ、おま……あずさっ」
あずさの肩に手を置き引き剥がそうとするが、あずさは雪光の腰に手を回し引っ付こうとする。
「わー! なんなんだよ、もーっ!」
いつの間にか胸に顔を埋められ、雪光は両手を上げ降参の構えを取った。
「雪光、私に何かできること、ない?」
顔を埋めた状態のまま、くぐもった声であずさが言った。
「は? 勝手に押し掛けた挙句、なんだその質問はっ」
「いいからっ、私にできること、ないっ?」
声の調子から、あずさがふざけているのではないとわかった雪光が、優しく声を掛ける。
「……なにがあった? 俺でよければ話くらいは聞いてやるぞ?」
そう言ってあずさの頭を撫でる。
あずさは抱きついたままの状態で顔だけを上げ、雪光を見つめた。
「私、お見合いした」
「……おお、そうか」
困った顔で返答する雪光。かまわず続ける。
「お見合いした相手、私の後輩が思いを寄せてる人だった」
「な、なるほど。それはちと面倒だな」
「私、結婚したくない」
「誰か好きな男でもいるのか?」
「違う。結婚を、したくない」
「は?」
「家の事情で好きでもない男と結婚することにも抵抗あるし、そもそも結婚したいと思ってない。まだ仕事頑張りたいし、自由でいたい」
一度口にしてしまえば、言葉などスルスルと出てくるものだ。今まで溜まっていた鬱憤を晴らすかのように、あずさは喋り続けた。
「運命は最初から決まってるって言われた。だから逆らって生きるのは愚かだと。言われた通り、決められた運命に乗って生きていればそれでいいんだって。ほんと? ほんとにそう? だとしたら『私』って、なに? 今ここにいる自分が、なんだか藁で出来た人形みたいに思える。雪光のことも、可哀想って思っちゃ駄目なんだって。連れて行かれちゃうから駄目だって。私、雪光にだったら連れて行かれてもいいかもしれない」
「なっ、バカなこと言ってるんじゃないぞっ」
肩を掴まれ、今度こそ引き剥がされる。
「連れて行かれてもいいなんて軽々しく口にするなっ!」
険しい口調で、怒鳴られる。
「お前は今、生きてるんだろ? ちゃんとここにいて、意思があって、明日があって。目の前の困難くらい、どうとでも出来るだろうがっ」
雪光の言葉に、あずさは顔を歪ませた。泣く気などなかったのに、涙が溢れてくる。
「お、おいっ、泣、」
明らかに狼狽え始める雪光に、あずさは涙を拭いながら、
「ごめ、泣くつもりはなかったんだけど」
と口にする。だが、一度溢れ出した涙はなかなか止まることがなく、あとからあとから泉の如く湧き出てくる。そのうち、泣いている自分がなんだかおかしくなって、くつくつと笑い始める。泣きながら、笑ってしまう。
その様子があまりにも異質だったのか、雪光があずさの手を取り、
「おい、しっかりしろよっ」
と、真剣な眼差しで顔を覗き込む。
あずさはそんな雪光の顔を見て、よくわからない感情に支配された。
(なんだろう、これは、)
考えるより先に、動いてしまう。
自分を見つめる眼差し。目の前にある雪光の顔にそっと触れ、そのまま唇を重ねた。
目を見開いた雪光は、今自分が何をされているのか理解するのに時間を要していた。なにしろ赤ん坊のころに捨てられてから、こんなことは今まで一度もなかったのだから。しかしこの行為がなんであるかくらい、知っている。これは、つまり、
「っ!」
驚いて体を離そうとするが、頬に触れていたあずさの手は雪光の首へと絡みついている。がっちりホールドされていた。
「んっ、」
少し離れては、またくっつく。まるで唇を食むように繰り返されるキス。頭の奥がふわふわして力が抜け始める。快楽などというものを知らない雪光にとっては、初めてのことである。
気付けば、あずさを抱き締めていた。互いに、求めあうようなキスを交わす。何度も、何度も。
だが、それは許される行為ではなかったのだ。
パンッ、パシッ
何かが破裂するかのようなラップ音。それを聞いた雪光が慌ててあずさから離れる。
「……雪光?」
名を呼ぶあずさに向かって、言い放つ。
「俺はもう、お前の前に姿を現すことはないっ。一刻も早くここを去れ! そして二度と、ここに来るな!」
「……え?」
驚くあずさをその場に置き去りにし、雪光は鳥居の向こう側に姿を消した。そしてその瞬間、鳥居が、消えたのだ。
そこはただの山の景色。
屋敷にほど近い、林道だったのである。
◇◇◇
「……ですよね? あずささん? あずささんっ」
大きな声で名を呼ばれ、ハッと前を見る。そこにいるのは柊俊也。そう。デートに誘われ都内のカフェで話をしているところだったのだ。
「気もそぞろ……ですねぇ」
困ったように俊也が言う。
「ごめんなさい、ちょっと寝不足で」
曖昧な笑顔であずさが返す。
昨日、林道に放り出されてからというもの、ずっと雪光のことが頭から離れなかった。
もう会わない、と言われた。このままもう二度と会えないのかもしれない、と考え始めると、心臓が痛い。
「これからどこかで、少し休みますか?」
俊也が発した言葉に、首を傾げる。
「どういう意味です?」
「だから……”相性”の問題なんかもあるでしょう?」
何を言っているのかわからなかった。しかしそれがホテルへの誘いだとわかると、一気に頭に血が上る。
「なっ……!」
「嫌だなぁ、そんな顔しないでくださいよ。あずささんだってこのお見合い話が愛ある結婚に繋がっているなんて思っていないでしょう? 我々は親の……いや、会社同士の駒みたいなもんだ。だったら最初から割り切って関係を持つしかないじゃないですか」
どうやら本性を現したらしい俊也に、あずさが軽蔑の眼差しを向ける。
「おや、もしかして政略結婚だとわかっていながらお伽噺のような愛のある未来を思い描いていましたか? だとしたらすみません。そっちで攻めればよかったな」
「は?」
「あなたをお姫様扱いしてその気にさせて、ごっこ遊びをするやり方もあったのですよ。でもあなたは私と同じ人種だと思っていたもので」
「同じ人種?」
「そうです。親に敷かれたレールの上をただ進んでいくだけの駒。不満はあれど、それが正しいと信じて黙って従うしか道のない駒。そういう人生も悪くない、とどこか冷めた目で見ている頭のいい女性なのかと」
「……」
「お互い好きに生きましょうよ。結婚をして、子供を作って、あとは好きなようにやりたいことをする。外で恋人を作ろうが、なにをしようが自由です」
あずさは眉をしかめた。この男は、地位や名誉のためだけに、自分の人生を捨てることも構わないというのだ。いや、地位と名誉があってこそ、好きなことが出来ると思っているのかもしれない。そういうやり方もあるだろう、ということは理解出来る。だが、
(気持ち悪い)
それがあずさの正直な感想だった。
「どうです? 悪い話じゃないと思うんですが」
手を伸ばし、さら、とあずさの髪を指で流す。全身に寒気が走った。
あずさは俊也の手を素早く払うと、
「私、帰ります!」
と席を立った。
「逃げるんですか?」
挑戦的な目でそう言われ、グッと手を握りしめる。
「いいえ、お断りするんです」
キッパリと言い放つ。
「あなたのお母様もお爺様もあんなに乗り気だったのに? うちの祖父も楽しみにしていますよ? それとも、私以上の人材が他にいるとでも?」
「そんなのこれからいくらだってっ、」
「お爺様のご病気がそれまで持ちますか?」
「……え?」
あずさが目を見開く。俊也がわざとらしく大きなリアクションを取り、
「おっと、これは言っちゃいけないんだった」
と口元に手を遣る。
「……どういう……ことですか?」
あずさの声が震えた。
俊也は眉をハの字に曲げ、
「私から聞いたことは内緒にしてくださいね?」
と、人差し指をあずさの口元にあてた。
「御病気らしいですよ、会長さん」
「……う、そ」
佳子からは『過労だ』としか聞いていなかった。本人からも、もちろん何も聞いていない。一週間の療養だと言われていたのだ。
「あずささんに心配をかけまいとしたんですかね? 気持ちはわかりますよ」
腕を組み、うんうんと頷く。
「しかし、だとしたらあずささんはどうです? ご病気の会長……お爺様が望んでいる結婚話。会社での引き継ぎのことを考えれば、結婚は早い方がいいに決まっている。違いますか?」
ニヤリ、と笑うその顔は、あずさにとって嫌悪以外のなにものでもない笑顔だった。
「……帰ります」
力なくそう口にすると、
「送りますよ」
と俊也があずさの腕を掴んだ。
あずさはその手を、振り払うことが出来なかった。
◇◇◇
「吉宮先輩、おはようございますっ」
週明け、どんよりした気分で会社に着くと、奥田里美が満面の笑みで出迎えてくれた。彼女が気になっていると言っていた柊俊也が自分の見合い相手だったと、どう伝えればいいものかとずっと悩んでいたのだ。
「おはよう。元気ね。何か言いことあった?」
「やだ、わかりますっ? 聞いてほしいことがありましてぇ」
珍しく甘ったれた声で、あずさに寄ってきた。
「私が気になってた、彼……覚えてます?」
急に核心に迫られ、ドキリとする。
「あ、うん」
「先輩がお休みしてた金曜日、私、思い切って彼……あ、柊《ひいらぎ》さんって言うんですけどね、声掛けたんですっ!」
「ええっ?」
「でぇ、その日の夜……えへへ」
頬を赤らめて言い淀む。あずさの心臓がドクドクと早鐘を打つ。
「……会ったの?」
「そうなんですっ。一緒に夕食を食べてぇ、その後、柊さんの行きつけのお店に連れて行ってもらってぇ」
「……まさか、まだあるの?」
「その先は、秘密ですよぉ」
バシバシと腕を叩かれる。
まさかとは思うが、お見合い前日にそんな馬鹿なことを……、
「あ、先輩はどうだったんですか? お見合い」
ギクリ、と肩が震える。
「あ、うん。まだ……どうなるかわからない……かな」
苦笑いで返すと、残念そうに
「そうなんだ。後で詳しく教えてくださいね!」
そう言って自分の席に戻って行った。
頭がぐるぐるする。
お見合い前日に、声を掛けられた女性とデートをしていたというのだろうか。しかし、俊也ならやりそうだという考えも浮かんだ。『お互い好きなようにやりましょうよ』と言ったあの言葉は彼の本心に違いないのだ。
悶々としながら仕事をし、昼を迎える。残念ながら席を外している里美を捕まえることが出来ず、ひとりで外へ出た。近くの喫茶店でランチを食べようと向かったはいいが、今、一番会いたくない人物と鉢合わせてしまう。
「あれ? あずささん!」
俊也だ。
また仕事でこっちに来ていたのか。さすがに無視することも出来ず、小さく息を吐き、
「こんにちは。お仕事で?」
と、当たり前の質問を投げかける。
「そうですよ。でも、もしかしたらあずささんにも会えるかな、って期待してましたけど」
屈託のない笑顔を向けられ、辟易する。
「あら、会いたかったのは奥田さんではなく?」
そう詰めると、俊也は一瞬何かを考えるような素振りをし、
「ああ、あの子か」
と手を叩いた。
「あずささん、知り合いなんですか?」
「ええ。私の後輩なの」
「おっと、それは、」
まずいな、と言いかけてやめる俊也に、
「どういうことなの? お見合い前日に別の女性と夕飯に行くだなんて、」
「あはは、なにを古風なこと言ってるんですかっ」
心底可笑しそうに言われ、腹が立つ。
「あのね、あなたがどうでも構わない。でも奥田さんの気持ち弄ぶような真似はっ」
「おお、怖い。わかりましたよ、金輪際会わないようにしますよ、未来の奥様」
「はっ? 誰があんたなんかとっ」
つい、本音が駄々洩れる。
「まだ決心がつかないんですか? 困った人ですね」
スッとあずさの腰に手を遣る。
「ちょ、なにっ」
「後ろ、人通りますよ」
さりげなく自分の方に引き寄せる俊也に、吐き気すら覚える。
人が通るのを確認し、すぐに離れる。もう、食欲は一切なかった。
あずさは踵を返すと、
「失礼します!」
と言い放ち、その場を去った。
そんな二人を、遠くから見ている人物がいた。見るつもりはなかったのだが、たまたま目に入ってしまったのだ。そして、思う。
「……なんであの二人が、」
◇◇◇
夜、あずさは母である佳子に電話をかけた。もちろん、本当のことを聞くためだ。俊也が言っていた『会長は病気のようで』というあれが本当のことなのか……。
「もしもし、お母さん?」
『あら、あずさどうしたの?』
「うん、あのさ、聞きたいことがあるんだけど」
改まって、そう口にするあずさに、なにか察したらしい佳子が、
『ああ、』
と溜息をついた。
「柊さんが言ってたことは本当なの? おじいちゃん、病気なの?」
一気に捲し立てると、佳子は少しの間、黙り込む。
『……まだわからないんだけどね、』
腫瘍が見つかったのは事実だ、と佳子が告げた。ただ、詳しい検査結果はまだ出ていない、と。
「私、柊さんとは結婚しないから」
あずさはキッパリとそう言い放つ。
『え? なによ、それ』
驚いた声を上げる佳子に、あずさは少しだけ、ガッカリする。娘がどう思っているかを気にするより、やはり跡取り確保の方が大切なんだろうか。
「あのさ、お母さんはさ、お父さんと結婚してよかったと思ってる?」
こんなこと、聞くのは初めてだ。もしこれで悲しくなるような答えが返ってきたらどうしよう、とも思ったが、あずさの知る限り、両親の仲は良かった。少なくとも、娘のあずさからはそう見えた。
『なに、その質問。よかったに決まってるじゃない』
佳子の言葉に、ホッとする。
「……よかった。私もね、そう言えるような相手と結婚がしたい。だから今回の話は無しにしてください」
素直にそう口にした。佳子は電話の向こうで一息つくと、
『わかったわ』
とだけ、言ったのだった。
「週末、またそっちに行ってもいい?」
『いいけど……別にあずさがいなくてもこっちは大丈夫よ?』
「ううん、私が行きたいの」
『そう。じゃ、買ってきてほしいものあるから、あとでメッセージ送るわね』
「わかった」
『じゃ』
心配していたことにはならずに済んだ。これで俊也との結婚はなくなったのだ。あとは、里美にあの男のことをどう伝えるか……、
ブブブブ、
携帯が震える。見ると、まさにその奥田里美からである。
「もしもし? 里美ちゃん?」
電話を取ると、受話器の向こうでぐずぐずと泣いているような声。
「え? 里美ちゃんどうかしたっ?」
心配になり声を荒げると、里美が小さな声で
『……先輩、柊さんが婚約者だってなんで教えてくれなかったんですか?』
と口にした。
「それ、誰に聞いたの?」
『柊さんに……』
呆れる。
まだ決まってもいない婚約を言いふらすなどとは。
「お見合いは、した。まさか私も、里美ちゃんがいいって言ってた人が来ると思ってなかったから驚いた」
『じゃ、やっぱり、』
「人の話は最後まで聞きなさい、っていつも言ってるでしょ? 里美ちゃん、私は柊さんと婚約はしない」
『え? でも今日だってお昼休みに会ってましたよね?』
見られていたらしい。
「あれはただの偶然。ねぇ、考えてもみて? お見合い前日に女性に誘われて夕食を食べに行くような男と結婚したいと思う?」
言い方がきつくなるのは仕方ないだろう。里美に対しても自分に対してもこの上なく無礼なことをされたのだ。
『……あ、』
「日曜に二人で会ったの。そこで話をして決定的に考え方が合わないってわかった。だからさっき母にも、白紙に戻すようにお願いしたところよ」
『……そうなん……ですね、』
戸惑いの声。まぁ、無理もないだろう。
「私はね、あの人は無理。結婚は形だけで、お互い自由にやろうって提案されたの。お見合い前に里美ちゃんとご飯食べに行ったことも、彼にとっては何の疑問もなかったんだと思う。私は非常識だって思ったけど」
『それは……確かに、』
「うちの場合、祖父の会社のこともあるから完全に自由恋愛は無理かもしれないけど、条件が合うからそれでいい、なんて、そんなつまらない結婚はしたくないわ」
途中からは完全に愚痴だ。しかし、言わずにはいられなかった。
『……わかりました。私、吉宮先輩のこと応援しますっ』
電話の向こうから里美の力強い声。
「ありがとう。柊さんのことは、私から何か言うべきじゃないと思うから、」
やめた方がいいわよ、と本当は言いたいところだったが。
『いいえっ、そんなちゃらんぽらんな人、私だって嫌ですっ。金輪際関わり合いになることはありませんっ』
キッパリと言い放つ。
「いいの? そんな簡単に、」
『先輩がライバルになるって話なら乗りますけど、先輩がこいつだけは無理、っていう人なら、私は断然、先輩の意見を信じます! 先輩の見る目を疑ったりしませんよっ』
「里美ちゃん……」
なんだかとても嬉しかった。
『スッキリしました! では、また明日!』
晴れ晴れとした声で電話を切る里美。あずさも彼女の声に元気をもらっていた。自分を信じてくれる他人がいるというのは、想像以上に心が強くなる。
これであずさの不安材料は、佐久造の病気と、そして消えた鳥居……雪光のこと二つになった。
◇◇◇
翌日、職場に着くと、とんでもないことになっていた。
「は?」
あずさは耳を疑った。
目の前には別の部署の女性が二人。きつい顔であずさを見つめている。言われた言葉が理解出来ず、聞き返してしまったわけだが……、
「だから、柊さんと婚約してるって本当なんですか?」
どうやら聞き違いではなかったようだ。しかし、なんでそんな話になっているのか意味が分からない。
「あの、違いますけど」
そう口にすると、二人のうち一人が、被せるように、
「なんでそんな噓つくんですかっ?」
と食って掛かる。
「嘘じゃないです。逆に、なんで嘘だって思うんですか?」
あずさがムッとして答えると、相手が怯んだ。
「お見合いはしました。でも、お断りしました。それがなにか?」
畳みかけると、二人が困惑したように顔を見合わせる。
「だって……ねぇ?」
「本人が、」
そこまで聞いて頭を抱える。あの男は、人の会社で嘘を吹聴して歩いているのか。
「本当に困ります。いい加減な噂流すのやめていただけますか?」
あずさは強い口調でそう言い放つ。二人は何度も頭を下げ、自分のフロアへと帰って行った。
「……今のって、吉宮さんの婚約者の話ですか?」
にゅっと顔を出したのは後藤正真だ。
「やだ、後藤君の耳にまで入ってるの?」
驚いて聞き返すと、社内はその話で朝から持ち切りですよと言われ軽く絶望する。
「なんか、柊さんって人、うちの会社の女性に複数知り合いがいるみたいですね。吉宮さんとの婚約が決まった、みたいな話を何人かにしてたみたいで……」
なるほど。それで奥田里美も知っていたということのようだ。
それにしても、複数いるとは。
「お断りしたのよ」
「でしょうね」
ふふ、と笑って後藤正真が言った。
「なによその笑い」
「だって、吉宮先輩の好みじゃなさそうだから」
「私の好み?」
そんな話、正真にしたことはない。勝手なイメージなのだろう。
「吉宮さんには、もっと抜けてる感じの人がいいと思います」
「は? なにそれ」
「吉宮さんが手を取ってぐいぐい引っ張っていくイメージです。私は至って普通です、って顔して、吉宮先輩ってめちゃくちゃ頑固で芯がしっかりしてるから」
「……そう、かなぁ?」
客観的にそんなことを言われるのは初めてだった。
「お祖父さんの会社だって、先輩がやればいいと思うんですけどね」
何気ない一言だったのだろう。
しかし、あずさにはそれがとても強く響いた。
「吉宮さん」
フロア課長に呼ばれ、顔を向けると、電話の受話器を指し、
「外線、入ってるよ」
と言われた。
「すみません。どちらからですか?」
自分のデスクで受話器を取りながら訊ねると、
「ご自宅からみたいだね」
との返事。
わざわざ会社に? と携帯を出すと、着信が何件も入っていた。
「もしもし、ごめん、気付かなくてっ」
慌てて電話に出る。
『ああ、ごめんなさいね。仕事なのはわかってたんだけど……お祖父ちゃんが、』
なにかあったのだとわかった。
「すぐ行くっ。病院はこの前の、」
『それが、実家なのよ』
「え?」
佳子の話によると、朝、立ち上がった時に眩暈を起こし、倒れたのだという。その際、少し頭に傷を負って出血。だが大したことはなく、本人は絶対に医者に行かないと言い張っているとのこと。町の医者に訪問診療をお願いし、傷は見てもらったらしいが。
「もう! すぐそっちに行くから!」
あずさは受話器を置くと、課長に休暇の申請を出した。正真が『吉宮先輩の分も働いておきますので気兼ねなくどうぞ』と言ってくれたので、少し気持ちが軽くなっていた。
エレベーターホールで奥田里美に出くわす。
「あれ? 吉宮せ、」
「ごめんね里美ちゃん! 私早退するから、あとは後藤君に任せてある!」
早口で捲し立て、別れた。
その足で一旦家に戻り、車を取りに行く。運転しながら、大したことがありませんようにと心の中で唱える。
元気にしていると思い込んでいた祖父も、もう八十だ。本当ならとっくに仕事など引退している年齢。わかっている。結婚して安心させてあげたいという気持ちがないわけではない。しかし、だからといって相手が誰でもいいということにはならないのだ。
それに……、
雪光のことも気になっていたのだ。
もしかしたらもう二度と会えないのかもしれない。
そう思うと、胸が苦しくなる……。
屋敷に着くと佳子に頼まれていた荷物を持って中へ。
「ああ、お帰り」
居間でテレビを見ていた佳子が声を掛ける。
「お祖父ちゃんは?」
「寝てるわ。どうしても医者には行かないって言い張るから、もう諦めた」
「でも、」
「本人にその気がないなら仕方ないわよ。ごめんなさいね、わざわざ来てもらっちゃって」
「それはいいんだけど……」
あずさはソファに座ると、佳子に向かって言った。
「……ねぇ、お母さん。今更って思うかもしれないけど、私、お母さんの仕事手伝おうかと思って」
「は?」
佳子がビックリした顔をする。
あずさは、車の中で考えていたことを佳子に伝えた。
「結婚が嫌だって言ってるわけじゃない。でも、今慌てて相手を見つけて結婚するのは嫌。それに、私がお母さんの仕事を手伝うことを、まだ始めてもいないのに否定されるのも、お前には無理だ、ってレッテル貼られてるみたいで嫌。私、そんなに頼りない?」
こんな話を、面と向かって口にするのは初めてだった。あずさの言葉を黙って聞いていた佳子が、溜息を吐く。
「……私はね、あずさ、」
更に一呼吸置いて、話し始める。
「あなたには、私が味わったような苦労をしてほしくないって思ってる。女性の社会進出が謳われ始めた今でさえ、会社のトップが女性だと、舐められるし見下されるのが現状なの。あなたに会社の仕事を任せるのが不安なんじゃないわ。あなたが傷付くのを見たくない。それだけなのよ」
「お母さん、」
「でも……そうよね、私のやり方は間違っているのかもしれないわ。あなたの人生なのに、結婚っていう大切な人生の一部を押し付けるような真似、しちゃ駄目よね」
苦笑いを浮かべる。
「お祖父ちゃんの体のことも、会社のことも、お母さんが一人で背負う必要なんかないんだよ? ねぇ、私もちゃんとここにいるから」
そう言って佳子の手を握った。母の手を握るなど、何年ぶりだろう、とぼんやり考える。この人は、父が亡くなってからずっと、独りで戦ってきたのだ、と改めて知る。
「嫌ねぇ、いつの間にそんな大人になっちゃったの?」
目尻に光るものを携え、佳子が笑った。今度は苦笑いではない、本当の笑顔である。
「お祖父ちゃんにも相談してみましょうね」
「うん」
あずさは大きく頷き、佳子の手を撫でた。
◇◇◇
本日、三度目の挑戦である。
屋敷の庭から、山道へと入る。
ここからは一本道なので、迷うことはない。
緩い上りをゆっくり歩き、心の中で念じる。鳥居よ、現れろ! と。
雪光にキスをしたあの時、彼は『もう二度と現れない』と口にしていた。それが現実のものになってしまったかもしれない不安を抱え、それでも諦めたくはないと、こうして山道を上ったり下りたりしているのだが、
「いい加減、疲れてきた」
見えてこない鳥居。
奪われる体力。……と言うのは大袈裟か。
あずさは今来た道を引き返そうと踵を返す。時間の許す限り、何度でもやってやろうと思っていた。込み上げてくるものは、知らぬふりで飲み込む。
「……いい加減しつこいぞ」
後ろから声を掛けられ、足を止める。
勢いよく振り向けば、そこには古びた鳥居と、髪を無造作に後ろで束ね、佇む、絣の着物を身に纏った男が見えた。
「雪光!」
あずさは駆け出した。そして、木の根に躓き前に倒れ込む。
「うわっ」
「おい!」
飛んできたあずさを雪光が受け止め、尻餅を突く。あずさは雪光に抱き留められた格好で覆い被さった。
「危ないだろうがっ」
頭上から聞こえる雪光の声。絣の着物から香のようなかすかな匂い。すべてが愛しく思えて、力一杯雪光を抱きしめる。
「おい、あずさっ」
引き離そうとする雪光を無視し、その存在を離すまいと力を籠める。今、力を緩めたら、すっと消えてしまうかもしれないのだ。
「……おい」
「嫌」
「まだ何も言ってない」
「言わなくてもわかる」
「だったら、」
「嫌」
いたちごっこだ。
さわさわと風が流れる。あずさは雪光の胸の中で、彼の心音が聞こえないことに深く傷ついていた。何故、彼は人ではないのだろう。触れ合えるのに、ここにいるのに……いないのだ。
「……で、見合い相手とは上手くいってるのか?」
雪光がぶっきらぼうにそう口にする。
「お見合いはした。最低最悪だった。だから断った」
「……そうか」
鳥が鳴く。ほんの数分、そうしているだけなのに、まるでここに永遠があるかのような錯覚に陥る。そうだ。いっそこれが永遠ならいい。
「……そろそろ離れろ」
「嫌」
「嫌じゃない!」
雪光に引き剥がされ、座った状態で向かい合う。あずさはすかさず雪光の顔を両手で押さえつけるが、その手を雪光が掴む。
「なにをしている」
「キスをしようと」
「だから、駄目だって、」
「私はしたい!」
「お前なぁ……、」
「私は雪光が好き! 雪光は? ねぇ、私のこと嫌い?」
じっと目を見て、まっすぐにそう伝える。伝えたからどうなるものでもないとわかっていても、告白などされても雪光が困るだけだとわかっていても、それでも言わずにはいられなかった。
「俺、は」
戸惑い、困った顔で視線を外す雪光の隙を突いて、あずさは雪光に覆い被さり、そのまま唇を押し付けた。
「んっ!」
不意を突かれ、地面にねじ伏せられた雪光は、唇を離すとくるりと体を回転させ、あずさを組み敷く。見つめ合う、二人。
「……好きだよ」
あずさが呟くのを合図に、雪光があずさの口を塞ぐ。何度も、何度も繰り返される口付け。優しくて、悲しいキス。
唇を重ねながら、どうして彼は人間じゃないのか。どうして自分は幽霊じゃないのか、どうすれば一緒にいられるのだろうと、そんなことをぐるぐると考えていた。
パンッ、パシッ
空間でなにかが破裂する音。雪光がハッと我に返ったように離れる。あずさは反射的に雪光の腕にしがみついた。
「おい、」
「行かないで!」
「……おい、」
「もう、いなくならないで!」
腕にしがみついたまま、叫ぶ。
「……そういうわけにはいかないだろ?」
「なんでよっ」
「なんでって……」
パンッ、パシッ
「俺、もう行かなきゃ」
あずさを抱き上げるようにして、立ち上がる。
「ねぇ、なんとかならないのっ?」
「なんとかって……なにが?」
「雪光を人間にする方法とか、ないのっ?」
雪光を囲っている相手は神様だ。神様なら、そういうことだって出来るのではないかと勝手に思い込む。
「……無理だよ」
そう言うと、雪光は優しくあずさの手を解き、鳥居の向こうへと消えて行った。それと同時に、鳥居もふわりと風に流れた。
重たい足取りで屋敷に帰り、その日、あずさは佳子と共に自分の考えを佐久造に話した。佐久造はただ黙って話を聞いていた。
遅くまで話をしていたため、もう一日、休暇を取ることになってしまったのである。
そして翌日。
空が重たい雲に覆われ始める。あずさは見慣れない車が家の前に停まったのを部屋から見ていた。……嫌な予感がする。
佳子が玄関先で何か話している声がした。そしてあずさを部屋に呼びに来る。
「ああ、あずさ、今ね、」
佳子が困った顔であずさを見た。部屋から顔を出したあずさを見つけ、
「ああ、おはようございます、あずささん」
玄関で声を掛けてきたのは、柊俊也。
「……な、んで」
眉間に皺を寄せ、あずさ。
「どうぞお上がりください」
そう言ってスリッパを差し出す佳子も、困惑顔だ。
居間には佐久造の他、俊也と、そして”もう一人”が揃った。
「初めまして、あずささん」
俊也と共に屋敷を訪れたのは、俊也の祖父、源吾だった。挨拶をするその声は穏やかそうに聞こえるが、向けられた視線は値踏み、だ。断りを入れたはずの縁談相手が押しかけてくるなど、理由は絞られる。そしてそれはきっと、いい話では、ない。
「うちの俊也との縁談を断ると言われたそうですね?」
出されたお茶に手を掛け、突き刺すような視線でそう告げられ、一瞬たじろぐ。が、ここでハッキリさせなければならない事案であることもよくわかった。
「ええ、申し訳ありません。私にまだその気がないもので」
言葉を濁すと、
「結婚は先でもいい。婚約だけ済ませてゆっくり愛を育めばよいのでは?」
と話を被せてくる。チラ、と祖父の顔を見るも、こちらに加担する気はないようだ。外では雨が降り出した。
「すみませんが、無理です」
ハッキリと答える。
「困りましたな。実はうちの俊也はあなたのことをいたく気に入ったようでしてね。もう、周りにこの縁談のことを言ってしまっているのですよ。婚約者が出来た、と」
「は?」
そんな身勝手な話、許されてなるものか。
「それは随分早とちりなさいましたね。即刻、訂正なさった方がよろしいですよ?」
あずさが笑顔で返す。雨の音が、強くなり始めた。
「何故、うちの俊也では駄目なのです?」
威厳ある爺さんの藪睨みは思った以上に迫力があった。しかし、だからなんだというのか。虎の威を借る小賢しい真似をしてくる男など、願い下げだ。
「母の仕事は私が手伝います。大体、条件だけで結婚相手を決めるなど今時流行りませんし、何よりも、これは私の人生の選択ですのでそう簡単に決めることはしたくありません」
「ほぅ、随分と夢見がちなお嬢さんだ」
小馬鹿にしたように笑うと、俊也が続ける。
「あずささんはそういうところが可愛いんですよ、お爺様」
整った顔立ち。身綺麗な格好。なのに、底知れぬ嫌悪感。人となりは見た目に現れるというが、俊也という人間を知れば知るほど、整った顔も高そうなスーツもくすんで、歪んで見える。
「あの、お断りした縁談話をどうして今更蒸し返すんでしょう? 祖父が体調を崩していることもご存じですよね? あまりにも非常識なのでは?」
あずさも負けじと言い返す。と、そんなことを言われると思っていなかったのか、老人の顔がみるみる険しいものに変わってゆく。
「お祖父ちゃんはどう思ってるの? こんな姑息な真似をする男と結婚した方がいいと? 私は彼が社長の器だなんて思えないし、添い遂げようという気にもなりません。もしそれでも結婚しろと仰るのでしたら、私は家を出ます」
ハッキリとそう言った。すると、佐久造が一瞬俯き、肩を震わせる。怒りに打ちひしがれているのかと思いきや、どうやらそうではないようだ。
「ククク、ふふっ、あははは」
何故か大笑いを始めたのである。
「いつの間にかそんな口を利くようになったんだなぁ、あずさは!」
膝を叩き、爆笑する。雨の音と佐久造の笑い声が交じり合う。
「源吾、聞いたか? うちの孫は大したもんだろう?」
俊也の祖父に向け、自慢げにそう言うと、
「なるほどこれは、いい娘さんに育ったなぁ。それに比べてうちのバカ孫はっ」
ギッ、と俊也を睨み付ける。俊也が驚いたように身を引いた。
「いやいや、あずささん、茶番に付き合わせてすまなかった。俊也が私に泣きついて来た時点で、私にはわかっていたのだがね。佐久造に言われてちょっとした小芝居をね、」
「おい、ばらすなよ源吾」
慌てた様子の佐久造を睨み付けるあずさ。
「お祖父ちゃん、どういうこと?」
「お父さんっ?」
佳子もまた、声を荒げる。
「すまない。少しばかり確かめたかったんだよ。あずさがこの縁談に乗り気じゃない理由が現実離れした夢物語なのか、現実を見据えた結果出したものなのか。それに、昨日の話もだ。どこまでの覚悟があるのか知りたかった」
「はぁ?」
試されていた、ということなのか。
「お前の気持ちはよくわかった。その覚悟のほども。何とか今の仕事を切り上げて、佳子の仕事を手伝いなさい」
お許しが、出たのだ。
「お祖父ちゃん……ありがとう!」
喜ぶあずさを、俊也が苦い顔で見つめていた。
激しく窓を打つ雨の音が、あずさには盛大な拍手に聞こえたのだった。
帰って行く二人を見送り、あずさは自分も帰る支度を始める。雨は上がり、しかしまだどんよりと厚い雲が上空を支配している。
帰る前にもう一度、とあずさは山道を上ったが、その日、鳥居が現れることはなかったのである
◇◇◇
雨続きなのは季節の変わり目だからなのだろう。屋敷から自宅へ戻り、その週の週末まで、降ったり止んだりの空模様が続き、いい加減洗濯物も溜まりつつあった。
あずさは支度を整え、車を走らせる。
あんなに医者に掛かるのを嫌がっていた祖父が、態度を急変させたのだ。『もうしばらくは頑張らねばならんからな』と、本格的な検査入院のため、こっちに戻ることになった。しばらく屋敷に戻ることはなくなるだろうから、と、家の片付けを兼ねてプチ引っ越し作業となる。
しかしそれはあずさにとって、微妙な出来事だ。屋敷への行き来がなくなると、雪光に会えなくなってしまう。自分の母の実家なのだから勝手に行けばいいのかもしれないが、理由なく屋敷に入り浸れば佳子や佐久造に怪しまれてしまいそうだった。
「会えると……いいんだけど」
ワイパーに弾かれる雨の数が、和らいでゆく。
あずさは屋敷から戻った数日間、人柱についても少し調べていた。あの地域で昔、そういう風習があったのかどうか、知りたかったからだ。しかし、どこをどう調べてもそんな記述は見つからず、あの場所に神社があったことすら、本当なのかわからなかった。神社にしろ人柱の話にしろ、佐久造の記憶にあるくらいなのだからそう昔の話でもないと思うのだが……。
屋敷の前には佳子の車が停まっている。隣に車を停めると、雨はすっかり上がっていた。薄日が差してきている。
「お母さん、来たよ」
玄関先で声を掛けると、
「ああ、お疲れ様。もう片付けはほとんど済んでるわ」
と迎えられた。
「早いわね」
「少しずつやってたから。それに、病院から電話で、予定より早くは入れますよって言われてね」
「そうなんだ」
「午前中のうちには出られそうよ」
本当なら今日片付けをして、明日の出発予定だった。今日の午前中とは、急な話である。
「二階に纏めてある荷物だけ、降ろしてもらっていい?」
佳子に言われ、頷く。
佳子が佐久造と暮らしているマンションに運ぶものを佳子の車に運び、捨てる荷物はあずさの車に積み込む。すべてが順調だった。
「お母さん、私が使ってた部屋も片付けたいから、先に出てもらってもいい?」
嘘をつく。
「いいけど……片付けるものなんてあった?」
「うん、ちょっと。それに、ゴミを収集所に運ばなきゃだし。あとで病院に合流するわ」
「じゃ、そうして」
佳子と佐久造を体よく屋敷から追い出す。……まぁ、追い出したわけではないのだが。
あずさは車が見えなくなるのを確認すると、急いで山へと向かった。会いたい。ただそれだけだ。会って、それから?
決められた運命なんて、信じない。
雪光を人間にする方法が、なにかないものか……。
急ぎ足で山を登る。鳥居を目指して、上へ。
長く降っていた雨のせいでぬかるんでいる場所も多い。長靴を履いてきて正解だったな、と思う。
開けた場所。
古びた鳥居。
少し怒ったような顔の、青年。
その姿を目にした瞬間、言いようのない感情が全身を襲う。
愛しい。愛しい。この人と一緒にいたい!
あずさは何も言わず雪光の手を取り、そのまま山を下り始める。
「は? ちょ、どういうつもりだよっ」
雪光が慌ててあずさの手を引く。
「お願い。うちに来て」
「うちって……お前のかっ?」
「正しくは母方の実家だけど」
「なんでっ」
「一度だけでもいい。お願い。私のものになって」
何を言っているのか、雪光にはよくわからなかった。発言したあずさ本人も、何故そんなことを口にしたのか、そもそもそんなことが叶うのか自信はない。だが、どうしても一緒にいたい。どうしても、雪光と……愛し合いたかった。
「俺はここから動くことは出来ないって言っただろ?」
「すぐそこだもんっ」
「そういう問題じゃ、」
パンッ、パシッ
すぐに音が鳴り始める。
「ねぇ、神様お願い! 雪光をっ、私に……少しだけでいいから、お願いします!」
鳥居の向こう側、誰もいない空間に向かって叫ぶ。
「馬鹿、駄目だあずさ!」
肩を掴み、揺さぶる。
「瀬織津姫《せおりつひめ》は怒ってる。俺を自由にしすぎた、って怒ってるんだよっ」
「なんでよ!」
あずさは叫んだ。
「雪光は最初から何も悪くない! なのにどうして雪光だけが我慢しなきゃいけないのっ? 最初から決まってる運命なんて信じない! 私だって道を切り開けた。だったら雪光だってっ」
パンッ、パシッ ピキッ
「あずさ、もう本当にこれ以上は駄目だ。もうお別れだ。本当にこれで、終わりにしよう。そのつもりで来たんだ。お前は自分で道を切り開いたんだろ? それでいい。よかったよ。俺も、あずさに会えて嬉しかった。お前のこと、好きだ。忘れない。だからサヨナラだ。お前の幸せを祈ってるから」
「嫌だ! 雪光のいない世界なんて嫌だ!」
あずさはそう言って雪光に抱きついた。
「無茶言うな。俺とお前じゃ、生きる世界が違うって言っただろ?」
「だからお願いしてるのっ。瀬織津姫! ねぇ、お願いだから雪光を自由にしてあげてよ!」
パシッ、ピキッ、ビキッ
音が、強くなる。
ゴゴゴゴゴ、
遠くで、地鳴り。
「まずいっ。あずさ、来い!」
雪光に手を引かれ、山を下る。そうだ、このまま山を下ってそのままっ!
そう思ったあずさだったが、想定していない出来事が起こる。
山の一部が、崩れ始めたのだ。
地滑りである。
「山が!」
あずさが叫ぶ。
林道に出たところで、雪光があずさに向き直る。
「ここまでだ。もうこれ以上、俺はお前に関わることは出来ない。楽しかった。本当だ。会えてよかった。幸せになれ」
そう言ってあずさを抱きしめ、軽く、唇を押し当てる。そしてそのまま踵を返し、山へと戻っていった。
「待って! 雪光、待って!」
ゴゴゴ、
再び、地鳴り。
危険であることはあずさにもわかった。後ろ髪を引かれながら、屋敷に戻る。崩れる場所によっては、屋敷も危ないかもしれない。
「離れなきゃ」
車に乗り込み、山道を下る。途中、松田家の前を通る。中から出てきたのは佐久造の幼馴染、松田一家だ。息子さん夫婦が家族を車に乗せ、家を出るところだった。あずさはそんな光景を視界の片隅に映しつつ、アクセルを踏む。
ゴゴゴゴ、ドドドドッ
山が形を変える。一部が再び崩れた。しかし、崩れた先に民家はない。二か所共に、民家、車道のない、何もない場所を狙って崩れたかのような崩れ方だったのである。
◇◇◇
翌日、朝から眩しいほどの晴天。
地滑りの危険がなくなったところで、佳子と共に屋敷へと向かう。もしかしたら屋敷ごと流されているかもしれない、と心配したが、特に被害もなく、最初から地滑りなどなかったかのように同じ風景が広がっている。
「本当に、大したことなくてよかったわねぇ。この辺に住んでいて地滑りなんて今まで聞いたことないんだけど」
佳子がそう口にした。
それは、山の上、瀬織津姫が祀られている神社のおかげ。人柱としてあの地に縛り付けられている雪光のおかげなのだと、あずさは思っていた。
もう、あの場所に神社はないけれど、それでもあそこには、神様がいるのだ。そして、雪光も……。
ふと山の方を見上げると、山道に人影を見つける。
その姿に、あずさの心臓がどくんと高鳴った。
「雪光っ?」
「え? なにか言った?」
「ううん、今、人影が……私、ちょっと行ってみる!」
居ても立ってもいられず、叫ぶ。
「ちょっと、あずさ、まだ山は危ないわよ!」
「うん、今の人にそう言ってくるから!」
そう言い残し、山に見えた人影を追う。チラッとしか見えなかったが、背格好は似ている。
転ばないよう気を付けながらも、半ば走るように先を急ぐ。
人影が、見えた。
デニムにスニーカー。麻のジャケット。けれど、
「雪光!」
あずさが叫ぶと、前を歩いていた人影がゆっくりと振り返る。その顔は、雪光に、とても似ていた。
「……あの、僕ですか?」
「……雪光」
「人違いですよ。僕の名前は雪光ではありません」
困った顔をしてはにかむ青年。
「でも、」
男は少し開けた場所を見遣り、言った。
「──人柱って、ご存じですか?」
「えっ?」
急に核心に迫る話をされ、驚く。
「昔、この辺りの土地では人柱を立てる風習があったんだそうです。人柱にされた人間は、神となりこの地を護る。ちょうどこの辺りに神社があったんだそうです」
あずさの心臓が、ドクンドクンと脈打つ。
「時々、人柱は幽霊のようにふらっと現れるそうですが……」
くるり、とあずさを見る。
「とても魅力的な姿をしているのだそうです。同情すると、連れて行かれてしまうんだと聞いたことがあります。あなたも、気を付けないと駄目ですよ?」
そう言って、にっこり笑った。
「雪……み、つ」
あずさはそこに立つ男にゆっくりと歩み寄った。
「僕の名前は我妻義夜。実は、この地で人柱になったとされる一族の者です。……あなたの知る誰かに、似ていますか?」
雪光に、似ていると思ったのは血筋だから?
義夜の顔を見て、あずさは戸惑いながらも、頷く。
「そうでしたか。そんな偶然もあるんですね」
「一族っていうのは、どういう……?」
気になって訊ねてみる。
「私の先祖……私の祖父の、祖父くらい昔でしょうか。我妻家に双子が生まれたそうです。そしてその双子の兄が、神社に人柱として献上された。私は生き延びた弟の方の血筋ということです。この辺りは代々一族が住んでいた土地なんです。もう神社はありませんが、時々この山に足を向けて、祈りを捧げるんですよ。私がこうして生きているのは、彼のおかげですからね」
そう言って手を合わせた。
「……それはそうと、」
歩み寄ってきたあずさの顔を見つめ、言った。
「昨日地滑りがあったばかりです。まだここらは危ない。戻った方がいいですよ?」
「でも、あなたは?」
「僕ももう戻ります。少し様子を見に来ただけなので」
「様子を見に?」
「はい。地滑りなど、今まで起きたことがなかったので気になりまして。でももう、用は済みました。どうやら大丈夫のようだ」
何もない空間を一瞥し、そう言うと、あずさの手を取った。
「さ、下りるまでの間、危ないので失礼しますね」
あずさは目の前の義夜を見上げる。
雪光……ではないのだろうか?
瀬織津姫に、雪光を自由にしてほしいと願った、その願いが叶ったのではないのだろうか?
今ここにいる、義夜と名乗る男は雪光が人になった姿なのでは……?
それは願望。
あずさの望む、身勝手な願望だ。
「さぁ、行きましょう」
ふわふわする気持ちを持て余しながら、あずさは義也に手を引かれ、山を下りる。
空は晴れ渡り、昨日までの長雨を忘れさせてくれるような眩しい光に満ちていた……。
二人の姿が見えなくなると、そこにしゅるりと人影が現れた。
無造作に後ろで結んだ髪。
絣の着物。
ほんのわずか、口元を動かしたように見える。
それが笑顔だったのか泣き顔だったのかは、誰も知らない。
◇◇◇
――あの夏を、今でも覚えている。
風に揺れる葉と踊る木漏れ日。セミの鳴き声につられて迷い込んだ山道。
山間の開けた場所に突如現れた古びた鳥居と、そこに貼られた半分掠れて見えなくなっているお札。
切れかかったしめ縄は垂れさがったままゆらゆらと宙を揺蕩い、辺りを不思議な空気が包み込んでいた。
確かに、彼は、そこにいたのだ……。
以降、どんなに願っても、あずさが雪光に会うことはなかったのである。
了