女神様の言う通り!?~死に戻りエージェントは世界平和のために殺し屋を落とす~
「そんな話ってあるっ?」
蘭は目の前にいるわかりやすい恰好をしている女神っぽいなにかに向かって啖呵を切る。
「私、今死んだわよねぇ? あの殺人鬼の仕掛けた罠に嵌って、死んだわよねぇ? 悔しいけど仕方ないわ。私の負けだもの。で、心穏やかに天に召されるんだと思ったら、急に呼び止められた挙句、死に戻れって?」
「ええ、まぁ」
女神っぽいなにかはにっこりと笑って首を傾げる。
「んでもって、若かりし頃の蓮見五郎に会って、落とせ……ですって?」
「ええ、まぁ」
同じポーズを崩さず、同じように微笑みを浮かべる。
「冗談でしょっ」
ツン、とそっぽを向くと、背後から、
「世界を救える可能性があるの、あなただけなんですよねぇ」
と、今度は溜息交じりの声がする。蘭はくるりと振り返ると、
「終わりゆくのが定めなら、世界なんか滅びればいいんじゃないっ?」
なんの決め台詞かわからないような言葉を口にする。
「それは困るのよ。だからね、お願いします」
胸の前で手を合わせ、可愛く片目を瞑る女神っぽいなにか。目の前の光景をどう捉えればいいのかわからず、蘭は頭を掻いた。
”スノードロップ”こと、蓮見五郎は、蘭が追っていた重要人物だ。国家の秘密機関に身を置く蘭としては、もっと早く五郎を捕まえたかったのだが、いつもするりと網を潜って逃げられてしまう。今日もそうだ。あと一歩のところまで追いつめたのに、結果的には裏をかかれた。負けたのだ。だったらその負けを潔く認めるしかないではないか。
「リベンジ」
静かに、女神が言った。
「……えっ?」
「リベンジですよぉ。したくありません? リベンジ」
うりうり、と肘で突かれ、目を泳がせる。
「そりゃ……、」
蘭は、負けず嫌いだ。幼い頃体の弱かった蘭は、奇跡的に命を取り留めることとなる。その経験があったからこそ、生きることの意味を考えるようになった。弱きものを守ること。それが蘭の出した答えであり、だからこそ男社会であるあの職場で、それも第一線で働いていたのだ。正義の名のもとに、悪人たちを捕まえる。小さい頃からの夢を叶えたのだ。
「あなたの正義感ってそんなに簡単なものだったのぉ? このままだと悪人のせいで世界が滅びるって分かってるのに、せっかくのリベンジの機会、みすみすポイと捨てちゃうみたいな真似、まさかできないでしょぉ?」
「うっ」
痛いところを突かれ、胸を押さえる。
「三十二歳。イロコイもないまま正義のためだけに生きてきたのよねぇ? あ、そっか! 経験ないから死に戻っても蓮見五郎を落とせる自信がない、ってこと?」
クスクス、と口元に手を当て、笑う。
「ちょっ、馬鹿にしないでよっ。恋愛はねぇ、私が必要ないと思ってただけで、こう見えても若い頃はすこぶるモテまくってたんですからねっ!」
ムキになって答える。
「じゃ、過去に戻って蓮見五郎を落とすことなんて簡単?」
「ええ、そんなの赤子の手をひねるより簡単な、」
「ふふふふ、」
「はっ」
嵌められた! と思った時にはもう遅かった。
「では、改めて命じます。篠宮蘭、あなたに一週間の時間を与えましょう。今から二十年前に死に戻り、蓮見五郎を落としなさい。あなたは……そうね、二十歳でどうかしら? 蓮見との年齢差もピッタリでしょ? さぁ、世界を救ってくるのです!」
ピッと蘭を指し、キリッとした表情で言ってのける。
「ちょ、本気なのぉ?」
「ええ、イチミリの冗談もありません。もし彼を落とせなければ、世界は滅ぶ。すべてはあなたにかかっているのです!」
グッと拳を握り、天に突き上げる。
「てか、過去に戻るってことは、”私”もいるのよね? そこに」
過去の自分と遭遇してしまったらどうするんだ? 一つの世界に二人の自分。おかしなことになる。
「もちろん、過去のあなたには遭遇しないように配慮します。それとあなたには帰る家も頼れる人もいない状態であることを忘れないでね」
無茶苦茶だ。
「……重すぎる話だわ」
ガックリと肩を落とす蘭に、女神は笑顔で、
「あらぁ、そんなことないわ。蓮見は一人暮らしよ? 家に上がり込んで、あなたの魅力でサクッとスパッと蓮見五郎を落としていらっしゃ~い!」
バン、と背中を叩かれた。
そして次の瞬間、蘭はボストンバッグ片手に、蓮見五郎の住む家の前に立っていたのである。
「コードネームはスノードロップ。花言葉は『あなたの死を望みます』ですね」
少し緊張した表情で、やや早口にそう口にした。続けて、
「篠宮蘭です。あなたを落とすために来ました」
と、強い口調で言う。
ぎゅっと拳を握り締め、相手を睨み付ける。そう告げられた男は、表情をそのままに立っていたが、ピク、と一度だけこめかみのあたりが動いたのを、蘭は見逃さなかった。
「あなたのことは知ってます。蓮見さん……ですよね。年は現在二十一歳。私がどうやら二十歳らしいから、年齢差とか、悪くないと思うんだけど?」
喋り続ける蘭に、スノードロップこと、蓮見五郎はそのポーカーフェイスを崩さざるをえなくなっていた。
ここは誰にも知られていないはずの蓮見の住処。唐突に現れた女が、何故か誰も知らない中二病的個人情報をバンバン突き付けてくるのだ。蓮見としてはそれがどういうことなのか理解したい。新手のストーカーかもしれないと警戒を強める。
「お前、なに言ってんだ?」
「ですよね! 疑問を抱かれるのはごもっとも。でも私が真実を語ったところで、あなたは絶対に信じないでしょう!」
「は?」
地の底から出してるのか、と言うほど低いドスの利いた声で『は?』と言われ、さすがにたじろぐ蘭。相手はあの、スノードロップなのだ。真実を口にすれば、もっと恐ろしいことになりそうだった。
「とにかく! この一週間が勝負らしいので! どうぞよろしくお願いしますっ」
と言い、深々と頭を下げた。
「よろしくって、一体何のことだっ」
見れば、足元にはボストンバッグ。それが意図することは……、
「お世話になりますっ」
つまり、押しかけて来たのだ。
「冗談じゃない! 出ていけっ」
ドアを閉めようとする五郎の手を止め一呼吸置くと、蘭はまっすぐに目を見て、話し始める。
「あなたは、世界を滅ぼそうとしている」
「……は?」
突拍子もない話に気が抜ける。
「今から話すことは、とんでもなく変で、とんでもなく奇天烈な内容だけど、とりあえず聞いてほしいの」
真剣な眼差しを向けられ、ふん、と鼻を鳴らす。
「まず、あなたは将来、世界を滅ぼそうとします。詳しくは話せないけど、とある組織に入って危険なあるものを使って世界を震撼させる。実際、この国だけじゃなく、全世界の人間を恐怖に陥れる超危険人物になるのよ。スノードロップという通り名を、皆が知っている」
「はぁぁ?」
奇天烈にもほどがある、といった内容だった。そもそも世界を滅ぼそうなどと”具体的”に考えてはいないし、そんな力もない。しかし、蘭は真剣な顔で話を続けた。
「私はね、あなたを止めようとしてたの。どうにかしてこの手で……。だけど、結果的には失敗に終わった。死んだのよ」
「……お前、頭おかしいのか?」
五郎が半眼で蘭を見つめる。蘭は肩を竦め、
「そう思うのは当然よね。私だってこんな話、どうやって信じてもらえばいいのかわかんない。ここから先はもっと頭のおかしな発言になるけど、聞いてね」
前置きをすると、コホン、と咳払いをする。
「私は死んだ。そこですべてが終わるはずだった。でも、薄れる意識の向こう側で名を呼ばれた。光の中でその人は、こう言ったの」
手を胸の前で組み、それっぽい雰囲気を醸し出す。
「世界の運命はお前の手の中にある。今から過去に戻り蓮見五郎に会いなさい、って」
「……はぁ?」
「会って、落としなさい、と」
最初から最後まで、真剣そのものの顔で語り尽くした。だが、蓮見の顔はどんどん曇り始め、最後には何とも言えない呆れ顔で蘭を見ていた。
「ね? 信じないでしょ?」
ふぅ、と大きく息を吐き、
「でもいいわ! 私があなたを落とせばいいんだものっ」
開き直る。それが今の自分に与えられたミッションだというなら遂行するのみ!
「……お前、頭おかしいのか?」
真面目な顔でまたもやそう言われ、蘭が目を見開く。
「はぁ? そりゃ、そう思われても仕方ないかもしれないけど、話を聞きたがったのはあんたでしょうがっ?」
どうも調子が狂う。これがあの、世界を震撼させたスノードロップその人なのか。
「お前の目的が分からない」
「えええ? 今までの話、聞いてた? 私、説明したわよねぇ?」
手をバタバタさせながら詰め寄る蘭を押し退け、
「作り話にしてはバカげている、だが、誰も知り得ないことを何故か知っている。どちらにせよ現実味がなさ過ぎて判断できかねる。さっきの情報をどうやって知ったのか教えろ」
ぶっきらぼうに問う。
「だぁかぁらぁ、私はずっとあんたを追ってたの! 三十路を超えるまで恋人も作らず、結婚もせず、ずっとね! あんたのことなら誰より詳しいわよ!」
「……ストーカー」
「違うってば!」
自分が追っていたころの蓮見よりだいぶ若い目の前の青年は、これから先、世界を恐怖に陥れようとするような人物には到底見えなかった。多少やさぐれてはいるが、シャープな顔立ちの、クールビューティー。前世で目にしたときの、深い闇はまだ感じない。
「よく見たらいい男じゃない。なんであんなに歪んじゃうのかしらねぇ?」
ずけずけと言いたい放題口にしていると、五郎が電話を手に、
「出て行け。さもなきゃ通報する」
と脅し(?)をかけてきた。
「ちょ、待ってよ! この世界、私にはあんたしか知り合いいないんだからっ」
「知り合いじゃないだろ。完全にイカレてやがる」
「どこもおかしくなんかないわよっ」
叫ぶ蘭に、五郎が溜息を吐くと、なにかを考えるように一度天を見上げ、蘭の手を取った。
「な、ななななにっ?」
そのまま玄関から家の中に引きずり込み、壁に追いつめ押さえ付ける。
「落としに来たんだな? なら、好きにしていいってことだな?」
顔を近付け、迫る。そういうことに免疫のない蘭は完全にテンパってしまい、つい、いつもの癖で……相手の腕をねじり上げてしまった。
「いててててっ」
まさか若い女性にそんなことをされるとは思っていなかった五郎は、ものの見事に玄関の床にねじ伏せられていた。
「あ、やだごめんなさいいつもの癖で!」
蘭が慌てて拘束を解いた。
「くそっ、なんなんだお前はっ!」
心底悔しそうに言われ、蘭はちょっぴり気分が上がった。なにしろ前世?では五郎のいいように好き放題されていたのだ。それがどうだ。この世界では自分が優位に立っている!
「ああ、まさかあんたの吠え面が拝めるなんて……幸せ」
言い方は悪いが、真実である。
「この、不法侵入者が! とっとと出てけ!」
怒鳴られる。相当怒っているようだ。当たり前か。
「だから、ごめんって。でも、仕方ないじゃない。正当防衛だし」
「それはこっちの台詞だろう! いきなり家に来ておかしなこと口走るストーカーめ!」
埒が明かない。
大体、なぜ未来の五郎を止める手段が『落とす』なのか。他にも更生させる手段はありそうなものだ。それに、なぜ『一週間』なのか。
「ねぇ、今日から一週間のあいだになにか予定とかある?」
「は?」
「この一週間に、あなたに何があるって言うのかしら……?」
蘭は真面目に考え始めたのである。
***
世界なんか滅びてしまえばいいのにと思うことがあった。
人間など、いない方がいいのではないかと。
その中には自分も、私の大切な人も含まれてしまうというのに。
くだらない理由で命が失われ、くだらない理由で世界が悲しみに包まれている時代。優しさだ愛だと言うけれど、そんなのはいつも言葉だけで、人間はどこまでも愚かで救いようがなかった。神など信じてはいないが、もし自分が神なら、とっくに世界を滅ぼしているだろうと、五郎は思っていた。
理不尽なことが多すぎる。
そしてその理不尽は、いつだって弱い者にのみ、向けられるのだ。
五郎には五歳年の離れた妹がいる。そしてその妹は、ある病気を患っている。臓器移植が必要だが、自分は適合者ではなかった。両親はおらず、母方の祖母も不適合。父方の親類は両親の結婚に反対だったせいで付き合いがなかった。もちろん、一縷の望みをかけ頼みに行った。検査を受けてほしい、と。しかし父方の祖父母は、勝手に家を出て行った息子夫婦のことなど知ったことかと言わんばかりに追い返されたのだ。妹が母親に似ていたことも気に入らなかったらしい。自分の息子をたぶらかした女狐、とでも思っていたに違いない。
孫だぞ?
五郎は何度もそう叫んだが、聞き入れてはもらえなかった。もちろん、適合者ではない可能性だって大いにあるのだが、妹の体調を考えればどんなに小さい望みだとしても試さずにはいられなかったのだ。
人の命が掛かっているというのに、知らんぷりだ。
そんな人間が……身内に、だ。
「仕方ないよ」
妹はそう言って笑ったが、五郎にはそう思えなかった。
「”スノードロップ”がいたら、ぎゃふんと言わせてやるんだけどね」
あはは、と笑う妹の手は、小刻みに震えていた。
スノードロップ、というのは妹が書いた小説に出てくる登場人物だ。孤高の殺し屋で、暗い過去を持つハードボイルドな男。病気がちで学校に行けないことが多い彼女は、よくノートに物語を綴っていた。綺麗な令嬢でもイケメンのヒーローでもない、人間味のある話が多かった。
「マツユキソウってすごく可憐で可愛い花なのにさ、花言葉が『あなたの死を望みます』だなんて、すごくない? 殺し屋のコードネームにぴったりじゃない?」
キャッキャしながら殺し屋の話を語る一風変わった妹を、何とか救ってやれる手立てが欲しかった。
両親の死後、幼い兄妹は一度、親類の家に預けられた。しかし預けられた先で両親の残してくれた遺産を使い込まれ、挙句、逃げられたのだ。その後、母方の祖母が保護者になっているが、今は体を壊し施設にいる。祖父母のいた家にひっそりと身を置き、兄妹で寄り添うように暮らしていた矢先、今度は元々体の弱かった妹の病気が発覚。五郎は大学を中退してがむしゃらに働いたが、とても追いつかないところまで来ていた。
「ねぇ、お兄ちゃん。私ね、誰のことも恨んでないからね?」
症状の悪化で入院を余儀なくされた妹が、ある日そう切り出した。
「みんな生きることに必死なんだよ。だからお兄ちゃんも、誰かを恨んだりしないでね? 私がいなくなっても、お兄ちゃんは笑って生きて」
無理だ、と思った。
「それと、私ドナー登録してるから、忘れないで。もし私が死んじゃっても、私の一部が誰かの命を繋ぐの。それってすごいでしょ?」
どうして妹の命を救えないのか。
「私は誰かの中で生きられるんだよ」
こんな残酷な世界、存続させる意味があるのか?
「お兄ちゃんは頭いいんだからさ、いつか世界を変えられると思うな」
妹の言葉にハッとする。
世界を変える。
ああ、そうだ。
世界を変えることを……考えればいいんだ。
そんな風に考えていた矢先、蘭が現れたのだ。
『あなたは、世界を滅ぼそうとしている』
まさに、その通りだった。
睨み合いが続く中、不意に電話が鳴る。五郎が一瞬だけ、ひどく辛そうな顔をしたのを蘭は見逃さなかった。
「もしもしっ……はい……ええ、すぐ行きます」
電話を切るころには、その辛そうな顔は絶望へと変わってゆく。
「……どうかした?」
蘭が心配そうに顔を覗き込むと、
「お前には関係ない」
と背を向け、財布を片手に外へ出ようとする。蘭は慌ててボストンバッグを手に後を追った。
「どこいくの? 私もっ」
「ついてくるなっ!」
「そうはいかないっ」
なにかがあったのだ、と蘭は思った。過去の記憶を手繰り寄せる。蓮見五郎の身に起きた、人生を変える、なにか。そして思い出す。彼に、妹がいたということを。
そう。蓮見五郎には妹がいた。しかしそれは公式には知られていない。複雑な家庭で育った兄妹は、確か叔母夫婦に引き取られ、後に母方の祖母に預けられている。その際、幼かった妹だけ祖母の養子になっていた。だから蓮見五郎とは苗字も違っているし、戸籍上は五郎の叔母に当たる。
「もしかして、妹さんに何かあったのっ?」
先を行く五郎の腕を取り、強引に引っ張ると、五郎は苦虫を嚙み潰したような顔をし、
「ドナーが現れなければ、助からない」
とだけ、告げた。
「ドナー……」
かつて自分もそうだった。どこかの誰かが臓器を提供してくれたから、生きているのだ。けれど、適合者が現れる可能性というのは、なかなかに難しい。同じ血の通った家族でもなかなか適合しなかったりするのだ。それに、もし適合者が見つかった場合でも、いざという段になって断られてしまうケースもあると聞く。
『世界を救える可能性があるの、あなただけなんですよねぇ』
唐突に、女神の言葉が蘇る。
世界を……救う。
可能性があるのはあなただけ、と言われた、その意味がわからなかった。でも、もしかしたら、と気付く。
蓮見五郎にとっての、世界。それは、唯一の肉親と言ってもいいくらい大切な、妹のことだったのではないのか? そう仮定するなら、自分がここに返された意味とはつまり、
「それだ~~~!!」
蘭は五郎を指しながら、声を上げた。
これですべてが繋がった。どうして自分がここにいるのか。どうして猶予が一週間なのか。
「なんだよ、突然っ」
声を荒げる蘭に五郎がビクつく。
「私だ! 私が妹さんを助けるんだわ!」
「はぁ?」
「大丈夫! 私、多分臓器提供できるの!」
目をギラギラさせながら語る蘭。
「いきなり何を、」
「いいから、行くわよ!」
蘭は五郎の腕をぐいぐい引っ張ると、走り出した。
病院でのやり取りは、順調だった。女神は蘭の身分証だけでなく、ドナーになるために必要なすべてを揃えていたようだ。バッグにはしてもいない検査資料まで入っており、神の御業に驚かされる。それにしても、これが答えなら最初からそう言ってくれればよかったのに、と思うほど答えはすぐそばにあった。
いくつかの追加検査を済ませると、病室へ向かう。そこには力なくベッドに沈む五郎の妹の姿があった。蘭を見て、不思議そうに首を傾げる。
「杏里、具合は?」
五郎が兄の顔になりベッドに近付く。妹の名は、市村杏里。母方の祖父母の姓を名乗っているのだ。
「おにい……ちゃん? と、……彼女さん?」
「ばっ、違うっ」
五郎がムキになって訂正する。
「初めまして。私は篠宮蘭。私はあなたのドナーになるの」
血縁以外でドナーがドナーを名乗ることなど普通は有り得ないが、まぁ、いいだろう、と、蘭は自己紹介をする。
「えっ? 本当に……?」
杏里が驚いたような、それでいてホッとしたような顔を見せる。
「ええ、大丈夫よ。私があなたと、彼を救うわ」
振り返り、五郎を見た。
「救う……、すごい! お姉さん、カッコいい!」
興奮気味に顔を輝かせる杏里。
「私もね、もし死んだらそうやって誰かを救いたいって思ってた。私の体、使えるところ全部使ってもらって誰かを助けるの! でも、実際死が近いんだってわかると……カッコいいことなんか一つも言えなくて」
俯き、涙ぐむ。
「当たり前じゃない! 誰だって死にたくなんかないもの!」
きゅ、っと杏里の手を”握る”。
ぐるん、と脳内が反転するようなおかしな感覚に襲われ、一瞬目を閉じる。
その瞬間、すべて理解した。頭の中に流れ込んでくるこの映像が、これから先の『未来』なのだと。
差し戻された意味。
やるべきこと。
蘭は、すべてを飲み込む。一度失くした命だ。今更惜しんだ所でどうなるものでもない。それより、本当に自分は世界を救うのだ、という使命感の方がずっと大切で、大きくなっていた。
それでも、少し残念なこともある。今、ここでのやり取りを、自分は忘れてしまうのだ。出来ることなら持っていきたい。未来の自分に、教えてあげたい。けれど……。
「必ず元気になるわ。大丈夫だからね」
蘭は杏里の頭をポンと軽く叩くと、
「蓮見さん、ちょっと話がある」
と、病室の外へと連れ出した。
屋上では洗濯物が風にはためいていた。
「お前、本当に……いいのか? その……ドナーの件」
五郎がぼそぼそと訊ねる。
「もちろん、いいわよ。それより、聞いてほしいことがあるの」
「なに?」
オブラートに包んで伝えることも考えたが、無理そうだ。仕方ないからそのままズバリを言ってしまう。
「私、多分だけど、もうすぐ死ぬ」
「はっ?」
五郎の目が真ん丸になる。当然だろう。出会ってからというもの、おかしなことしか口にしていないのだ。今はその最高峰。杏里のドナーになるだけなら死ななくてもいいだろうに、何故この命が絶たれるのか。理由が、ちゃんとある。
「なに言い出すんだ、お前っ?」
「言ったでしょ? 私はここに死に戻ったの。理由はあなたを落として未来を救うため……って言われたけど違うわね。杏里ちゃんのドナーになるため。それと、私自身のドナーになるためなんだわ」
面白い話だ。これに気付いた時は、ちょっと感心してしまった。
「なんの話だ?」
「この世界にはもう一人私が存在する。今、この世界の私は十一歳。そして杏里ちゃんと同じように、ドナーを待ってる」
そう。蘭もまた、ドナーが現れなければ死ぬ運命だった。しかし、まさか自分が自分のドナーになるなんてこと、考えもしなかった。
「さっき杏里ちゃんの手を握った時にすべてが視えた。私の名前は篠宮蘭じゃない。これは女神さまが用意した仮の器なのね。だから一週間しか持たないんだ」
「おい、」
早口で捲し立てる蘭に、五郎が声をかけるが、
「お願いがある。私が死んだら、花柳凛って子を探して。そして私の臓器が彼女に渡るようにしてほしい。私ったら、自分が贈った自分の臓器に感動して警察官目指すのね。笑っちゃうわ」
手摺を掴み空を見上げ、ふふ、と笑みを浮かべる。
「警察?」
「そ。私ね、ドナーに命を救われてから、人の命を救う仕事がしたいって考えるようになるの。で、とある国家の秘密機関に入って正義の名のもとに活動するわけ。カッコいいでしょ?」
「恋人も作らず、結婚もせず、ってやつか?」
「……余計なことは覚えてるのね」
チッと舌打ちを返す。
「とにかく、私が死んで、花柳凛は生きる。それでいい」
五郎は半信半疑のようだ。当然だろうが。
「それと、この話もしておくわ。スノードロップの花言葉は『あなたの死を望みます』だけじゃない。『逆境の中の希望』ってのもあるの。ちゃんと調べたんだからねっ? ……私が、あなたの希望になれたならよかったのだけど。残念ながらタイムオーバーだわ」
「なにを言って、」
杏里さえ死ななければ、きっと五郎は悪い道にそれることもなくなるはずだ。それでも、妹の面倒を見ながら二人で生きていくのはきっと大変なこと。そんな五郎の、心の支えになってあげられるだけの時間はない。
「もうすぐ心臓発作で倒れるわ」
「誰が?」
「だから、私が! さっき視えたの!」
まるで走馬灯のようだった。倒れる蘭を抱き留める五郎。名を呼び続ける五郎。それはまるで映画のワンシーンのようで、思わずニヤついてしまうほどだった。
「王子様のキスでもありゃ、生き返るのかしらね」
肩を竦めると、体に異変を感じる。来る!
ドクンッ、と心臓を掴まれるような息苦しさが襲い、その場にしゃがみ込む。
「おい!」
五郎が駆け寄り、跪いた。
「時間だわ。あっという間だったわね。一週間どころか、一日で片付いたじゃない。私ったら……優秀な……」
「おい、しっかりしろ!」
遠ざかる意識の中、五郎の声がこだまする――。
「おい! しっかりしろ! おい!」
耳元で誰かが叫んでいる。何故だか一瞬、懐かしさを感じた。
「おい!」
何度目かの『おい』で目を開けると、教官の顔が間近にあった。
「……あ、れ?」
「あれ? じゃないだろうっ。しっかりしろ、花柳凛!」
全身ずぶ濡れで、髪からも水が滴っている。見れば、教官もまた同じように全身ずぶ濡れ。その姿を見て、思わず凛は、
「水も滴る……なんとやら、ですね」
と口走った。
「ふざけるな! どれだけ心配したと思ってるんだっ」
そう言って凛を見つめる瞳は、真剣そのものだった。
「すみません」
特殊な機関に身を置くための特別カリキュラムを受けている最中だった。遠泳中に、足が攣った。波に押し流され沈みそうになったところで救助されたらしい。
「今、医療班を呼んでくる! 上陸したら医者に診てもらえ! いいなっ?」
そう言って去って行く。
と、近くにいた先輩が、
「あの鬼教官があんなに狼狽えるとこ初めて見た」
と、何故かニヤニヤしながら話し掛けてきたのだ。
「え?」
聞き返すと、
「花柳って、教官のなに?」
と質問で返される。
「なにって……部下、ですよね?」
他になんと言えばいいのかわからない。入所当時から目を掛けてもらっているのはなんとなく感じてはいたが、知り合いではない。
「ただの部下にあんなこと言わないだろ」
「……何か言ってたんですか?」
眉を寄せ、声を落とす。と、先輩は少し悩んだ顔をした後、凛の耳元に口を寄せ、
「『目を覚ませ、花柳凛! 王子様のキスで目を覚ますんじゃないのか!』って言いながら必死に人工呼吸してたぞ?」
と説明してくれた。
「はぁぁぁぁ?」
一気に心臓が跳ね上がり、頭に血が上るのを感じる。
「あの、蓮見五郎にそんなセリフ言わせるお前って、何者だよ」
ニヤニヤが止まらない先輩と、ドキドキが止まらない凛。蓮見五郎といえば、泣く子も黙る鬼教官で、文武両道、クールでセクシーで、凛の憧れでもあるのだ。この機関に入った時から、凛は蓮見五郎のことがずっと気になっていた。歳も離れているし、決して好みのタイプではないはずなのだが、何故か惹かれるのだ。その、蓮見が人工呼吸……。
「ま、とにかく無事で何よりだったけどな。お前、無茶しすぎるなよ?」
「あ、はい。すみませんでした」
頭を下げると、そこに再び蓮見五郎が現れる。どんな顔をすればいいかわからず、思わず目を逸らしてしまった。急に心臓の音がうるさく感じられる。
「担架が出せないらしい。救護室まで連れていく」
片膝を立て、凛をひょいと抱き上げる。
「ひょわぁぁぁっ。あ、あああ歩けますよ、教官!」
「黙って抱かれてろ!」
とんでもない台詞を吐く五郎の顔を、チラ、と見上げる。そしてつい、出来心で口にしてしまう。
「……教官は、王子だったんですか?」
一瞬ぎょっとした顔で凛を見た五郎は、すぐに真顔に戻ると、言った。
「こんな話、お前は信じないだろうがな、俺が今こうしてここにいるのはお前のおかげだ。十年前、俺はお前に”落とされて”んだよ」
「……へ? なんの話……じゅ、十年前って……私、しょうがっ……教官て、ロリコ……」
カタコトになりながら言葉を返す。十年前の凛は、蓮見のことなど知らない。
「違うっ」
「だって、今の発言……え? ストーカー?」
「違うと言っているだろう! ……いつか話してやる。お前は……間違いなく俺の希望だったよ」
「へ?」
おかしな声を上げる凛に向かって、五郎は更にこう付け加えた。
「今度は俺が、お前を落とす番だ」
腕の中にいる凛を見つめ、優しく笑ったのである――。
おしまい