青に、潜る
穴に、落ちていた。
気付いた時には、私は深くて暗い穴の中にいた。
手探りで辺りに手を伸ばしても誰もいない。音も聞こえない。どこまで続くのか、いつ終わるのかもしれない穴の中にいたんだ──。
「あ、目、覚めた?」
目を開けて最初に飛び込んできたのは私のよく知る顔だった。
「……矢島……君?」
会社の後輩。二つしか違わないのに、彼はとてもファニーフェイスで、そのくせ気が利くというか、抜かりないというか……営業先でもウケが良い。
そんな彼が目の前にいることに、違和感。
ここは、どこだろう?
ボーっとする頭で視線を動かすと、
「あ、」
すべてを理解する。
「……失敗したんだ、私」
死ねなかった。
その事実が、心臓を抉る。いくら心臓を抉られても、この痛みでは死ねないのに。
「生きててよかったですよ」
矢島君がそう言ってほほ笑んだ。でも、それは私にとってなんの救いにもならない。
『別れよう』
そう言われたのは一週間前だ。
五年も一緒にいたのに、どうして?
その時はただ、頭が真っ白になって、何を言われているのかもわからなかった。昨日まで……いや、ついさっきまで何の変化にも気付かなかった。だって、あなたはずっと、いつもと変わらない顔で笑っていたもの。
そして真実が明らかになったのは昨日のこと。
私ではないどこかの誰かと、あなたは一緒にいるのだと知った。
世界が、幕を下ろす静かな衣擦れのような音が聞こえた……。
ああそうか、とすべてが繋がり、私はもう、存在しなくなったのだとわかる。
絶望の世界は黒ではない。白だ。
その時、何故かそんなことを考えていた。
「なんで矢島君がここにいるの?」
私は小さな声でそう訊ねた。確かにここ数日、彼には話を聞いてもらっていたから事情は知っている。とはいえ、救急車で運ばれたであろう私に彼が付き添って病院にいるのはなんだか変。
いや、違う。
「あなたが通報したのっ?」
半身を起こして問い詰める。
「そうですよ。俺が見つけました。立花さんのこと」
「……なんで余計なことを、」
放っておいてくれればよかったのだ。
私一人消えたとて、誰も困りはしないのだから。
「そういうわけにはいかないでしょ?」
溜息交じりに言う矢島君に、私も溜息で返す。
「会社を出る時の立花さんの様子がおかしかったから、心配になってお宅まで行ったんですよ。電気付いてるのにチャイム押しても出てこないから、ドア開けてみたんです。鍵も掛かってなかった……」
「で、勝手に上がり込んだわけ?」
「ですね」
私は大量の薬を飲んでいた。手当たり次第の風邪薬と痛み止め。どんなに痛み止めを飲んだって、この痛みが治まりはしないのだ。
「……あの日、何があったんですか?」
そう訊ねられ、思い出す。
ああ、そうだ。私は脅すように『もう生きてるのがつらい』と彼にメッセージを送ったのだ。その返信を見て……、
「匂わせみたいなメッセージをね、送ったの。そうしたら、どんなことをしても、僕は何とも思わない、って。つまり、私が死ぬのは自由ですからどうぞ、ってことよ」
「は? マジですかっ」
矢島君が眉を顰める。
「さすがにそれはないでしょ。向こうが悪いのにっ」
「さぁ、それもどうなのかしらね」
私は、別れを告げられた後、泣きながら共通の友人である女友達に電話をした。その時彼女に言われたのは
『あなたにも悪いところがあったんじゃない?』
という一言だ。
二股をかけられて捨てられた、絶望のどん底にいる人間に対して、彼女はそう言い放ったのだ。
女は怖い。
きっと彼女は、彼からも話を聞いていたのだろう。そして、結果的には彼に付いたということなのだ。同じ女という立場でありながら、彼女は異性である彼に擦り寄った。私が何を話しても、私が欲しい言葉など出て来やしない。
……私が悪いのか。
もはや誰から発せられるどんな言葉でも、それは私の心臓を抉る凶器でしかなかった。
「生きなきゃダメですよ?」
ありきたり且つ道徳的な一言を放つ目の前の人間が、化け物に見える。
私の視界は、ただの白になった。
闇はいい。
目を閉じて、丸くなってしまえばそこには何もないから。
何もないくせに、どこかに誰かがいるかもしれないと思える余地を残してくれているのだから。
黒い世界は私に優しかった。
もしかしたら、という、優しい夢を見ることができるから。
だからこそ、永遠の黒を求めたのだ。闇の中で、ただ静かに眠りたかった。
それなのに……。
白は残酷だ。
そこには私がいて、すべてが見える。誰もいないとわかってしまう。
広い、広い世界には何もない。
どこまでも続く白い世界は、冷たい現実をまざまざと見せつけるだけだ。
光に晒されて、この身を消すことすらできない。
呼吸の音だけが何故か鮮明で、けれどこの呼吸は生きている証なんかではなく、ただ機械のように、決められた動作を繰り返すだけの無機質なリフレイン……。
「ひとりで帰れる」
私は何度もそう言ったけど、矢島君は絶対ダメだと引かなかった。
今日のことを知っているのは矢島君だけだ。彼にも、親にも伝えてはいない。
「何か食べます? お腹空きません?」
努めて明るく振舞う矢島君をどう扱えばいいかわからない。私は別れを切り出されてからというもの食欲は一切なかったし、夜もまったく眠くならなかった。
人間という生き物は、心が死ぬと体から欲という欲がすべてなくなるものなのだろう。
食べなくてもいいし、寝なくてもいい。
それでも、明日の仕事のことを考えて、せめて睡眠だけは取らなければとアルコールを飲む毎日だった。
「送ってくれてありがと。じゃ」
アパートのドアの前でそう言うと、何故か矢島君はじっと私を見たまま動こうとしない。私は溜息をつき、言った。
「もう変なことはしないから大丈夫だって」
「いや、そうじゃなく……」
あ、これはダメなやつだな、と私だけが察した。
私はドアを開けて部屋に滑り込む。が、後ろにいた矢島君が一緒に中に入ってきてしまう。
「帰りなさいよ」
「嫌です」
そう言って私を抱き締める。
「俺、立花さんが好きです。今日は帰りません」
ああ、ほらね。
「……可哀想は、綺麗」
「え?」
矢島君の腕の力が緩んだのを感じ、体を押し遣ると、目を見て、言った。
「誰かが言ってた。可哀想な女は綺麗に見えるんだって。でもそれは恋でもなきゃ愛でもないよ。ただの同情、もしくはそれ以下。だから、帰って」
私の言葉を聞いた矢島君は、少しムッとしたような顔をした。
私は構わず靴を脱ぎ中へ。
「立花さんに俺の気持ちはわからないでしょ?」
背後から聞こえる声に、返す。
「自己陶酔だよ、それは」
そう。
彼は今、可哀想な女を助けるヒーローである自分に酔っているだけだ。本人にはわからないかもしれないが、客観的に見れば一目瞭然。そんな関係、邪道だ。不健全だ。雰囲気に流されてその気になっているに過ぎない。まさに、今にも死にそうな私を見て、庇護欲に駆られているだけの状態なのだ。
「違う!」
矢野君はそう言って部屋に上がり込むと、私に抱きついてくる。
でもごめん、私は何も感じない。
その日、矢野君は帰らなかった。
私は彼の嘘の言葉を遠くで聞きながら、一夜を過ごした。
嘘に色があるのなら、きっとそれは、青だ。
矢野君は青を纏って私を包み込む。
私は、惰性で生きるために、その嘘に身を委ねる。
長い年月が経ち、いつかまた誰かを好きになる日が来るのだろうか、と考える日もある。
でも、きっと一度死んでしまった私は、もう二度と生き返ることはないのだろう。それっぽい毎日を生きて、それっぽい未来があったとしても、私の心は頑なだろう。
死んだのだ。
どうせならきちんと殺してくれればよかった。
あの時、私がきちんと死に辿り着いていればよかった。
そうしたら、私のせいで誰かが傷つく未来などなかっただろうに。
青い嘘の中に飛び込んだ私は、息も出来ぬまま苦しみ、もがき続けるだけだ。
私にはもう、嘘も本当も何もわからない。
命を吹き返す日が来るかもしれないなどと思うことすら出来ず、溺れていくのだ。
深い、深い穴の中へ。
そこはずっと、青い──。
了
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