「さようなら」。なにかを失ったときに、悲しみから早く立ち直る方法
人生は、失うことの連続です。実際、生まれたときから「死」という究極の喪失(loss)を運命づけられている私たち。
私たちは、たくさん「得ながら」も、同時に「失いながら」生きていて、「喪失」というのは、私たちが赤ちゃんのころから始まっています。
子供のころから、さまざまな喪失に私たちは都度ショックを受けます。
そして中年になれば、「若さ」を喪失していることにも気づかされます。当たり前に持っていた「若さ」が失われ、二度と戻ってこない。肌の張りや瑞々しさが損なわれた現実を受け入れて日々生きてゆくわけです。
私は40代でガンを経験しましたが、ガンになったことそのものがショックだったこともありますが、よく眺めてみると、その中にさまざまな「喪失体験」が含まれていました。
自分が「元来持っていたはずの状況」をぺりぺりと剝ぎ取られた、つまり、「カラダの喪失」と「心の喪失」が一挙に訪れたということが、私にとってヘビーだったのだと思います。
さて、このように生きていく上で切り離せない「喪失」ですが、私たちはどうやって乗り越えていけばいいのでしょうか。そのヒントは、私たち誰しもが喪失したときに感じる「悲哀のプロセス」にあるようです。
キューブラ―・ロスの「悲しみの5段階モデル」にも似ていますよね。こんなプロセスを経て、私たちは喪失の衝撃から立ち直り、再び希望を持って生きてゆくわけです。
「喪失」のショックから、早く立ち直るためには、上記の「悲哀のプロセス」の②をしっかりと感じ切ること、つまり「悲しい感情を出したくなったときに、それをしっかり吐き出す」ということが鍵になるようです。
あまりに喪失のショックが大き過ぎる場合、場合によっては無感情になる人もいます。大切な人を亡くして、5年も経ってはじめて涙が出た。そんな方もいらっしゃると思います。
長らく麻痺してしまった感情が、いずれ表に湧き出してくるタイミングを逃さずに、その時にしっかりと悲しみを味わい尽くすことが、自分の心を楽にしてやる一歩になるそうです。
心や体の訴えを「なかったこと」にしてごまかすと、本当の感情がカラダの奥底で燻り続け、抜け出すことにかえって時間がかかってしまいます。人間は、自分をごまかすことだけは、絶対にできません。私たちが無自覚だったとしても、自分のカラダだけは、自分の本当の気持ちを知っています。
だから、自分にだけは、素直であれたら。
そう思って生きています。
(とは言え「泣き過ぎだろう」とつっこみたくなる話⤵)
一連の闘病中でも「よく泣いた私」は、よく言えば「自分に素直」なのかもしれませんが、泣く一方で「まったく、おまえは弱いな。もっと強くあれ!」と、自分を否定する自分、叱咤する存在(脳みそのミソちゃん)が隠れていることを知っています。
長年のクセで、つい頑張って強くなろうとするミソちゃんに、「弱くたっていい。大丈夫、泣いていいよ」
ようやくそんなことを言ってやれるようになりました。
そして、存分にショックや悲しみを味わった後は、亡くした人・モノ・状態・価値観との、新しい関係を再構築する段階に入ります。
亡くなったあの人、去って行ってしまったあの人。
あの時の若さ、あの時の健康な私。
あの時の幸せな暮らし、あの時の……あの時の……。
さあ、「それがなくなった」今。
どうしましょうか?
なくなった状態のまま、どうやって生きていきましょうか。
新しい自分の、はじまりです。
新しい自分は、かさぶたを剥いだあとの薄皮みたいに、心もとない。
すぐに血が出そう。
なんなら、血が出っぱなし。
それでも、一晩眠るごとに、少しずつ皮膚を再生していける、そんな自分を信じよう。
新しい自分を、つくる。
そのやり方は、きっと無限にある。
アイディアを、自分のミソちゃんと相談してみよう。
「さようなら」は切なく、悲しい。
でも、今まで「存在してくれたこと」にどうもありがとう。
当たり前みたいに思っていたけど、奇跡のようにして、そこにあったんだね。失って悲しいけれど、礼を言うよ。
その切なさも丸ごとぜんぶ呑み込んで、もっと素敵な、新しい自分になれますように。