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『藤子・F・不二雄 SF短編コンプリート・ワークス7 ポストの中の明日』 : 子供たちよ、未来をめざせ!

書評:『藤子・F・不二雄 SF短編コンプリート・ワークス7 ポストの中の明日』(小学館)

当シリーズ「藤子・F・不二雄 SF短編コンプリート・ワークス」全10巻の中身は、次のような構成になっている。

『 本シリーズは下記を底本としています。
・藤子・F・不二雄大全集『SF・異色短編』全4巻(小学館・ 2011〜2012年)
・藤子・F・不二雄大全集『少年SF短編』全3巻(小学館・ 2010〜2011年)

 本シリーズ全10巻のうち、第1〜6巻には「SF・異色短編」シリーズを、第7〜10巻に「少年SF短編」シリーズを、それぞれ概ね発表順に収録し、構成しています。』(P287「読者の皆様へ」)

つまり、当第7巻は「少年SF短編」シリーズの1冊目であり、すでにご紹介済みの「第1巻 ミノタウロスの皿」は「SF・異色短編」シリーズの1冊ということになる。

この2冊を読み比べてみると、「SF・異色短編」シリーズの「第1巻 ミノタウロスの皿」は、おおむね「大人向け」であり、「少年SF短編」シリーズの本巻「ポストの中の明日」は「子供向け」ということがわかる。
つまり「少年SF短編」シリーズの「少年」とは、「少年が主人公」だという意味ではなく、「少年少女向け」の作品ということだ。

これは、初出誌にも明らかで、「第1巻 ミノタウロスの皿」所収の作品は『SFマガジン』や青年コミック誌が中心だったのに対し、本巻収録の作品の場合は、小学館の学習雑誌や少年マンガ誌が中心になっている。読者対象の設定に、おおよそ10歳弱の違いがあるので、おのずと描き方も違っている、ということである。

そんな事情で、「第1巻 ミノタウロスの皿」に比べると、本巻は、いささか食いたりなさが否めない。
批評批判的な毒」よりも、少年少女に向けた「夢や希望」が語られているからであり、すでに還暦を迎えた私が、「大人」の読者として本巻を読んだ場合、作者(藤子・F・不二雄)が、想定された幼少読者に向けて「夢や希望」を語ろうとして、多少なりとも無理をしているの感を、看取せずにはいられないのである。

本書収録の作品は、次のとおり。

(1)ポストの中の明日
(2)アン子大いに怒る
(3)泣くな!ゆうれい
(4)ひとりぼっちの宇宙戦争
(5)ボクラ共和国
(6)ぼくのオキちゃん
(7)世界名作童話
(8)おれ、夕子
(9)みどりの守り神

各作品について、簡単に評しておこう。

(1)「ポストの中の明日」は、「未来視」の超能力ものである。主人公の少年は「未来」を見ることはできるのだが、しかし、その未来を変えることができず、友人たちと出かけた山で、未来視したとおりに遭難してしまうのだが、この難局をどうやって乗り越えるのか、という作品だ。

そんなわけで、この作品には「テーマ性」や「メッセージ」といったものはない。どちらかと言えば「意外なオチ」に属するものなのだが、すーっと読んでしまうと、このオチの凄さがわからない。
どういうことかというと、この作品のオチは、「未来視の能力によって未来を変える」のではなく、「未来の情景を利用することによって、現在の行動を決める」というかたちで「未来を決定する」という、視角のズラしによる、ひねりの利いたオチとなっているのだ。

(2)「アン子大いに怒る」は、超能力少女もので、アン子は父子家庭のしっかり者の一人娘なのだが、「はきもの」を「おきもの」と言うなど、妙な言い間違いをするトボケたところがあって、本筋には関係ないが、とても愛らしいキャラクターになっている。このあたりは、さすがといったところだろう。

(3)「泣くな!ゆうれい」は、いかにも小学生向けに描かれた作品だが、作中に描かれる、いじめっ子、原っぱ、野犬といった描写が、これまた、いかにも私の子供時代である「昭和」そのもので、感慨ぶかいものがある。

(4)「ひとりぼっちの宇宙戦争」は、「代理戦争」を描いたSF作品。主人公の少年が、人類の存亡を賭けて、自分の複製人間と戦うというもので、ある意味では、けっこうエグいお話ではある。

(5)「ボクラ共和国」は、不思議な転校生の少年が、「ボクラ共和国」という同盟組織を作るお話。
彼は、次のように語る。

『 つまりね、「国」という形で、あちこちかたまっちゃうから、いけないんだ。「国」は生き物だ。自分の意志を持ってうごき出す。ときには、いやがる国民を引きずって戦争に巻きこむこともある。だから……ぼくらは国土のない国を、かたまらず、世界中に散らばった国を作ろうってわけ。 国民になれる資格は、他人に思いやりがあること。ただ、それだけ。』(P154、適宜「句点」を加えた)

言うなれば、「友愛コスモポリタニズム」とでも呼ぶべきものである。
「不思議な少年」は、残念ながら、短期間で地球を去らなければならなくなって、仲間になった子供たちに、夢を託して宇宙へと帰っていく。
これは、作者が、子供たちの未来に託した夢であろう。だが、それを「宇宙人」に語ってもらわなければならないところが、残念でもあれば、リアルでもあろう。

(6)「ぼくのオキちゃん」は、1975年に開催された「沖縄国際海洋博覧会」を舞台にした作品。明記されてはいないが、それに合わせて描かれた、同年発表の記念作品で、イルカのオキちゃんは、海洋博の公式マスコットキャラクターである。
お話は、海洋博に来ていた主人公の少年が、いつの間にか、人類が海上や海中でも暮らすようになっている「未来の世界」にタイムスリップしてしまうというお話で、夢オチながら、海洋博のテーマを、肯定的に描いた作品だといえよう。

(7)「世界名作童話」は、「みにくいアヒルの子」「ねむれる森の美女」「うらしま太郎」「ヘンゼルとグレーテル」「ジャックと豆の木」の全5話を扱った、各2ページの冗談マンガとでも呼ぶべき掌編。個人的には「ねむれる森の美女」のダジャレオチが好みで、大いに気に入った。

(8)「おれ、夕子」は、主人公の少年が、なぜか、亡くなった知人の少女に変身してしまうという「変身・性転換SF」。
映画にもなった、児童文学者・山中恒の『おれがあいつであいつがおれで』(1980年・映画タイトルは『転校生』で、大林宣彦監督の1982年作品)などと、「性転換」をめぐるドタバタの面白さという点では似ているものの、本作は「変身」であって、山中作の「入れ替わり」とは少し違う。
また、作品としては本作の方が古く「1976年」の作品だが、男性主人公が、何らかの理由で、突然女性になってしまい、というパターンのお話は、けっこう昔からあるのではないだろうか。
本作は、切ない「親子の情愛もの」でもあり、SF的な説明がなされているが、より本質的なのは、男性における女性への変身願望であろう。

(9)「みどりの守り神」は、本集では唯一『マンガ少年』誌に掲載された作品で、雑誌の読者層からして、青年向けといって良いような、いささかビターな味わいの「ポスト・アポカリプス」ものになっている。
特にオチらしいオチはないが、主人公の男女以外は死滅した(らしい)後の、植物が繁茂して荒廃した東京の風景は、昨今描かれるイメージと何ら変わらなく、まったく古びてはいない。最後のコマで、東京の空を飛ぶ、熱帯のそれと思しき鳥の群の描写も、いかにもな感じで、的確なイメージだと言えるだろう。
人類は、主人公の男女から、やり直すということなのかもしれないが、やはり、いったんは滅びないと、やり直せないという苦い認識が、作者の中にもあるのであろう。

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なお、正直なところ、今後、当シリーズについては、1〜5巻の「SF・異色短編」ものだけ読めば良いかなと、少々迷っている。


(2023年7月4日)

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