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テレンス・ヤング監督 『レッド・サン』 : あなたにあえて幸せだ
映画評:テレンス・ヤング監督『レッド・サン』(1971年・フランス・イタリア・スペイン・アメリカ共作)
ずいぶん昔にテレビで見て、かなり良かったという印象の残っている作品だった。しかし、それを今頃になって、また見てみようと思ったのは、ときどき見に行く、大阪・十三のミニシアター「第七藝術劇場」で、本作の「4Kデジタルリマスター版」の予告編を見たからだ。
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もっとも、それだけのためにわざわざ出かけるのは面倒なので、中古DVDを買って、家で見ることにした。
私はすでにシニア料金だから映画は1,300円で見られるので、中古DVDの方が値段的には高いのだが、しかし映画館への行き帰りの運賃や外食費などを考えれば、家で中古ビデオを見る方が安くつく。
まあ、主因は「出かけるのが面倒だ」ということで、新作なら映画館へ出向くしかないが、「映画は映画館で見なければ」とまでは思わないタイプなのである。家で寝転がって、お菓子をつまみながら見る方が楽でいい。
さて、そんな何十年かぶりに見ての感想はというと、次のようなことになる。
(1)やっぱり面白い。
(2)絵作りは、イマイチ。
(1)については、昔の印象のままということで、エンタメ映画としてとても楽しめた。
(2)については、ここ数年、古典的名作を含めて、いろんな映画を意識的に見るようになったので、その点では多少なりとも目が肥えたのだろう、出演俳優の「豪華さ」のわりには、絵作りの方はいささかチープに感じられる面も、ないではなかった。
本作『レッド・サン』のウリとは、少なくとも日本の映画ファンにとっては、「三代スターの共演」という点にあろう。すなわち「三船敏郎、チャールズ・ブロンソン、アラン・ドロン」の三人だ。
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若い人にはピンと来ないかもしれないが、私と同世代以上の人には、この三人は「お馴染みの大スター」である。
三船敏郎は、黒澤明の映画に多く出演して、時代ものも現代ものもやったが、テレビ時代劇『荒野の素浪人』『荒野の用心棒』などもあったことから、やはり、ちょんまげ姿の印象が強い、時代劇の大スターだった。
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チャールズ・ブロンソンは、日本の化粧品メーカーのテレビコマーシャルにも出演しており、このテレビコマーシャルでの「う〜ん、マンダム」というセリフが、当時、子供たちの間で大流行した。当時の私も、それを真似て顎を撫でさすりながら、「う〜ん、マンダム」と、ギャグのように言っていた記憶がある。またそのため、ブロンソンは、「マンダムおじさん」などと言われたりもしたのだ。
まあ、それほど当時の日本では、特別に親しまれたハリウッド俳優だったということである。
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一方のアラン・ドロンは、とにかく「世界的な二枚目(イケメン)俳優」として、日本でも人気が高かった。とにかく「美しい」「セクシー」ということである。
私が十代半ばの頃、人気絶頂の志村けんが声優を務めたテレビ人形劇『飛べ!孫悟空』(1977〜79年)の主題歌を、これも当時、絶大な人気を誇ったアイドル歌手ピンク・レディーの二人が歌っていたのだが、その歌詞にも次のようにあった。
ドロンにしびれる おにいさん
遅れたひとねと フラれるぜ
二枚目なんかじゃ モテないよ
個性の時代を しらないか
つまりこれは、主人公である悟空の立場からの歌詞なのだが、要は、アラン・ドロンは「二枚目(イケメン)の代名詞」だったということである。
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んなわけで、本作は、難しい作品ではない。典型的な「エンタメ映画」だと思ってもらって間違いはない。
なにしろ監督は、「007シリーズ」の初期作品で監督をつとめ、人気シリーズに育てたテレンス・ヤングなのだから、とにかく楽しませてくれる作品に仕上がっている。間違っても「芸術作品」などではないのだ。
例えば、物語の後半で、三人がインディアンの襲撃を受けるシーンがあるのだが、これはもう、それだけのことで、それ以上でもそれ以下でもない代物だ。つまり、黒澤明の『七人の侍』とかそうした作品の戦闘シーンに比べると、明らかにスケールが小さい。
だが、ヤングは「すごい絵」を撮りたいのではなく、あくまでも物語として必要なものを必要なだけ撮っているという印象で、だから物足りないといえば、たしかに今となっては多少もの足りなくないこともないのだが、物語の中に入って鑑賞すれば、まったく気にならないくらいには、過不足なく撮られている。
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そんなわけで、結論として本作は、良かれ悪しかれ「とても面白いエンタメ映画」ということに尽きてしまうのだが、それだけでは「評論」としてつまらないので、この作品の魅力が奈辺にあるのか、以下では、そのことについて深掘りしてみよう。
本作の魅力は、なんと言っても、三人の中でも特に「三船敏郎の魅力が光っている」という点にある。
日本映画でもないのに、ブロンソンやドロンと共演していながら、三船敏郎がいちばん魅力的に描かれているところに、本作の稀有な「個性」があると言ってもよいだろう。
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そのあたりを説明するために、まずはストーリー紹介。
『(※ 時は1870年)強盗団のリンク(※ チャールズ・ブロンソン)と相棒のゴーシュ(※ アラン・ドロン)は金貨輸送の郵便貨車を襲い、金貨を奪取した。さらにこの列車には、日米修好の任務を帯びた坂口備前守日本国全権大使一行が同乗しており、ゴーシュは日本の帝から大統領に贈呈する黄金に輝く太刀を奪った。そして、リンクが邪魔になったゴーシュは、リンクを貨車もろとも爆死させようと計り、意気揚々とひきあげていった。
条約調印まで間がない。日本大使は黒田重兵衛(※ 三船敏郎)に7日間の猶予を与え、宝刀奪還を命じた。またリンクは生きており、重兵衛は、ゴーシュへの復讐を誓うリンクと手を組み、宝刀奪還を目指して出発した。当初は、反発しあっていた二人だが旅を続けて行くにつれ、二人には不思議な“友情”と言う感情が芽生えてきた。』
(Wikipedia「レッド・サン」、(※)は、年間読書人による補足)
ここに『ゴーシュへの復讐を誓うリンクと手を組み、宝刀奪還を目指して出発した。』とあるが、これはあまり正確な形容ではない。
ゴーシュに殺されかけ、せっかくの稼ぎ(大量の金貨)をぜんぶ持ち逃げされたリンクは、「復讐のため」と言うよりも、その「戦利品」を奪い返したかったというのが、まず第一なのである。その結果として、必要ならばゴーシュを殺すことも辞さないとしてもだ。
だから、リンクとしては、ゴーシュに殺された同僚の仇を討ち宝刀を取り戻したい黒田重兵衛らと手を組む必要は、まったくなかった。
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だが、爆風で気絶しているところを重兵衛らに助けられ、銃を奪われた上で、ゴーシュ追跡に協力しろと半ば脅されて、やむなくリンクはその案内役をさせられたのである。
また、そんな事情だから、当初リンクと重兵衛の二人は、一致団結などしてはおらず、リンクの方は隙あらば十兵衛から逃れて、一人でゴーシュを追いたいという立場だったのだ。この段階では、リンクは重兵衛の凄さを知らず、刀使いになど何ができると、そう侮っていたのだ。
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したがって、本作の見どころは、上のストーリー紹介にもあるとおり、違った目的を持って、共にゴーシュを追っていた二人の間に、やがて「友情」が芽生える、という部分なのである。
無口で真面目で無骨な重兵衛は、ただただリンクに「案内しろ」と言うだけだが、世慣れたリンクは重兵衛にあれこれ馴れ馴れしく話しかけながら、隙あらば逃げ出そうとする。時には、気を許した重兵衛を、崖から突き落としたりまでするのだが、転がり落ちた重兵衛は、しかし不死身のターミネーターのごとく、かすり傷程度で崖下から這い上がってきて、逃れようと抵抗しようとするリンクを投げ飛ばして屈服させ、「案内を続けろ」と要求するのみなのだ。
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ちなみに、こうした幾度かのリンクとの格闘の中で、重兵衛もおのずと砂まみれになったり、川に落とされてびしょ濡れになったりするのだが、それなのに、しばらくすると重兵衛の着物は、汚れも型くずれもなく、パリッとした状態に戻っているところが、「T-1000かよ!」とツッコミを入れたくなるほど愉快だ。
もちろん、映画ならではのことなのだが、リンク(ブロンソン)の方はそれなりに薄汚れたままだったりするというこの違いは、重兵衛の「武士道」精神を、カタチにして見せた演出だったのであろう。
さて、そんな駆け引きがあれこれあった後、リンクも諦めて案内役を引き受けることにする。
だが、あくまでも自分の目的は、ゴーシュに奪われた「戦利品」を取り戻すことだから、ゴーシュに口を割らせてそれを見つけるまでは「ゴーシュを殺すな」と、リンクは重兵衛に要求するのだが、重兵衛はなかなか首を縦にふらない。それで、あの手この手で何度も説得して、最後はなんとか納得させるというような、駆け引きの珍道中が続くのである。
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つまり、リンクというのは、世慣れて気さくで陽気な人間味のある、しかし自分のことしか考えていない「悪党」であり、それに対して黒田重兵衛は、その真逆といっていい、無骨で無口で、「武士道」という信念に生き、そしてそのためなら命も惜しくない「サムライ」なのだ。だから、リンクからすれば、重兵衛というのは、古い観念にとらわれた、愚かな歴史的遺物のようにしか感じられず、内心では「馬鹿じゃないのか、この東洋の猿は」という感じだったのだ。
だが、そんな重兵衛との旅を続けていく中でリンクは、この信念に生きる無私の男に、馬鹿にはできないものを徐々に感じるようになっていくのである。
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そして、そんな気持ちが決定的になったのは、物語も中盤あたりだったか、リンクが重兵衛に「そんな役目のために自分の命をかけるような生き方、馬鹿馬鹿しいとは思わないのか」と、なかば苛立ちながらも本心からそう問うた時に、重兵衛が、
「そうかもしれない。だが、私は侍だし、親もその親も先祖代々、侍としてそのように生きてきた。しかし、時代は変わったのだ。日本でも、いくどもの戦さがあって、侍の時代は終わろうとしている。これからは侍も、刀を捨てて鍬や釣り竿を手に働かなければならない時代になるだろう。そうなれば、おまえのような考え方が当たり前になるのかもしれない。だが、だからこそ私は、最後の侍として生きたいし、死にたいのだ」
と、おおよそこのように語るのである。
一一つまり、重兵衛は、何も考えずに「武士道」を盲信して生きていたのではなく、ちゃんと時代の変化を理解し、侍の時代が古いものとして捨てられようとしていることを理解しながら、それでも、自分の「信念」として、その「武士道の美学」を選んだ男なのである。その「美学」のためなら、「損な生き方」をすることも「命を失うこと」さえ引き受けると、そうした覚悟を、リンクに打ち明けたのだ。
つまり、この言葉が、ならず者であったリンクの心にも響いたのであろう。
これまでは「損得打算」だけで生きてきた男であり、「信念」だの「思想」だの「美学」だのといったことを、鼻で笑ってきた悪党が、この時、本気でそうしたものに生きている男を目の当たりにして、自身の「世界観」の方が、もしかすると「ケチなもの」だったのかもしれないと、そう気づかされたのではないだろうか。
だから、この物語の最終盤、重兵衛は、取り返した宝剣を持ち帰る前にゴーシュの銃弾に倒れてしまうのだが、それを見たリンクは、リンクをからかうように「俺を撃つことは出来まい。金のありかが知るまではな」などと憎まれ口を叩いてヘラヘラ笑うゴーシュを、迷うことなく撃ち殺してしまう。
そして、十兵衛に、俺が宝剣を大使のもとへ届けてやるとそう約束して、重兵衛を安心させた上で、永眠させてやるのだ。
つまり、この時のリンクは、すでに「カネ」よりも大切なものとして「友情」や「信義」を知った男に生まれ変わっていたのである。もちろん、彼を変えたのは、重兵衛の生き様だったのである。
一一さて、ここで私が言いたいのは、このあたりの描写が素晴らしいということではない。
私が言いたいのは、前述のとおりで、この三人の中では「三船敏郎が、いちばん美味しい役を与えられている」ということなのだ。
結局のところ、この三人の中で、最も魅力的な人物として描かれているのは、三船敏郎の演じた黒田重兵衛である。彼は、ほとんど「完全無欠な男」として描かれている。
その着物が、決して着崩れたりしないのと同様に。
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所詮は小狡い悪党としか描かれていない、アラン・ドロンの演じたゴーシュは論外として、形式的には、三人のうちでは、最も「主人公」に近い立ち位置にある、ブロンソンの演じたリンクは、しかし、その「性格設定」からすれば、黒田重兵衛=三船敏郎の「引き立て役」なのだ。
なにしろ、重兵衛の「聖性」を帯びた生き様を見せつけられて、それまでの自分の「俗」な生き方を捨ててしまう男なのだ。喩えて言うなら「イエスに出会ってその生き方を変え、弟子になった元漁師のペテロ」みたいなものなのである。
したがって、本作の真の主役は、重兵衛の方なのである。
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それだけではない。
実は、どしがたい悪党であるゴーシュでさえ、重兵衛の「人格的な力」に圧倒されていることを示すシーンがある。
物語も序盤、リンクをダイナマイトで倒して独り占めした金貨と、重兵衛たち日本の使節団から奪ったアメリカ大統領への献上の品である宝剣とを持って、意気揚々と仲間たちと共に馬で逃げ去ろうとしたゴーシュを、重兵衛が使節団専用貨車のデッキから呼び止めるシーンが、それだ。
一一おおよそ、こんな感じである。
重兵衛「おい!」
ゴーシュ「うん? 俺を呼んだのか?」
重兵衛「名を名乗れ」
ゴーシュ「俺の名を知りたいのか? 知ってどうする?」
重兵衛「追いかけていって、必ずその刀を取り返し、仲間の仇を取る」
ゴーシュ「俺を殺すと言うのか? 面白い。名乗ってもいいが、その時はお前が死ぬことになるぞ」
重兵衛「私には、この刀がある」
ゴーシュ「だが、こちらにはこれ(銃)がある。この距離では勝負にならん。お前が死ぬことになるぞ。それでも聞きたいのか?」
重兵衛「名乗れ」
ここで、ゴーシュは一瞬ムッとするが、すぐに首を振ってニヤリとする。「こんなキチガイを相手にしても仕方がない」と言わんばかりに。
そして、そのまま仲間と馬で走り去ろうとするのだが、少し走ってから馬を止め、振り返って「ゴーシュだ! 俺はゴーシュだ!」と笑顔で叫んで去っていくのである。
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一一さて、このシーンが何を意味するのかといえば、それは無論、本来なら重兵衛をあっさりと撃ち殺したはずのゴーシュにそれを出来なかったのは、やはり重兵衛に「貫禄負け」したから、ということなのであろう。
だが、その事実を認めたくなかったからこそゴーシュは「面白いやつだ。おまえの度胸に免じて、名前を教えてやることにするよ」と、そんな感じで重兵衛を殺さなかった「自分の畏れにも似た感情を自己正当化した」ということだと、私はそう解釈したのである。
つまり、リンクにしろゴーシュにしろ、揺るぎなき信念に生きる重兵衛に圧倒され、影響をされたのであり、一方の重兵衛は、最初から最後まで変わることなく、自分の生き方を貫き、そして死んでいった、そんな「完璧な男」として描かれているのだ。
一一三船敏郎が「いちばん美味しい役」だったというのは、そういうことなのである。
では、どうして、このような人物設定になったのかといえば、それはたぶん、監督のテレンス・ヤングが、三船敏郎という俳優と、三船が体現する「サムライ」というものに、本気で「尊敬の念」を持っていたからではないかと、私は考える。
と言うのも、本作の「Wikipedia」には、次のようなエピソードが紹介されているのだ。
『『レッド・サン』の企画の具体的話し合いのため、三船は、三船プロ制作部部長田中寿一と渡米する。そこで、先方のプロデューサーから、同席していたテレンス・ヤング、エリア・カザン、サム・ペキンパーの3人から監督を選ぶようにすすめられる。その場では返事できないので翌日返事をすることになる。テレンス・ヤングだけが、三船に対し「あなたにあえて幸せだ」と挨拶したという。また、『007』の撮影も終えて、『レッド・サン』のシナリオも読んでいたので、彼に決めたという。また、主役3者のうち三船とブロンソンは決定したが、後一人はヨーロッパの俳優ではどうか、と田中が提案し、日本でも人気のあったアラン・ドロンに決まった。』
この時のテレンス・ヤングの態度が、本心からのものか、それとも単に「お上手なだけ」なのかは、この記述だけではわからない。
しかし、本作を見れば、テレンス・ヤングの三船敏郎に対する「あなたにあえて幸せだ」という言葉が、決してお世辞ではなかったというのが、ハッキリとわかる。
本作は、「三船敏郎とサムライ」にオマージュを捧げた、そんな作品だったのだ。
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初代「ボンドガール」である。)
(2025年2月21日)
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