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嶽本野ばら『下妻物語 完』サイン会顛末記

【旧稿再録:初出「アレクセイの花園」2005年7月10日】

※ 再録時註嶽本野ばらという人は、繊細で弱い人だった。そして、ほとんど必然的に、承認欲求に振り回され、自己欺瞞の罠に囚われてしまった。きわめて困難なこととは承知しているが、彼がその困難を乗り越えて復帰してくれることを、心から祈っている。その苦闘の経験を無駄にはしないでほしい。なお、再掲載分の本文部分は「小説の文体模写」なので、改行は少なめである)


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今日(7月9日)は、嶽本野ばらの新刊『下妻物語 完』(小学館)のサイン会に行ってきた。
以下は、『下妻物語』の(ぬるい)文体模写で、本日の様子などをご紹介させていただきたい。

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 というわけで、嶽本野ばらさんの『下妻物語』の文体模写をするのですが、嶽本さんの小説はたいていの場合(ぜんぶ?)、主人公の一人称で書かれているので、ここでの文体模写は『下妻物語』の語り手で、主人公の片割れ、ロリータちゃんこと竜ヶ崎桃子の語りのまねということになります。自分でやると言っておきながら、なんだかもう面倒になってきていますが、なんとかなるでしょう。ならなくても問題ないし、お金もらってやってるわけじゃないし……。そんなわけで、似てないという感想は受けつけません。だいたい、42歳のオヤジが女子高生のまねをするんだから、うまくいくほうが不思議です。まして桃子といったら、ヒラヒラのロリータファッションに身を包んで、ロココの精神に生きるのだなんてことを言ってる変な子なんだから、「おお厳格なる数学よ」というような私にまねのできるわけないんです。と言っても、作者の野ばらちゃん(いきなり野ばらちゃん呼ばわり、失礼)だって、もう三十路のはずだから、ぜんぜん不可能ってこともないか(ちなみに、野ばらちゃんは、著者紹介に生年を書いていないので、三十路っていうのは私の推定です)。

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映画版・左から、白百合イチゴ役の土屋アンナ、竜ヶ崎桃子役の深田恭子。桃子が、小説では一人称の語り手、映画では主たる視点人物である)

 そもそも私が野ばらちゃんの小説を読むようになった切っ掛けは、ある友人に「なんか面白い小説、ない?」って聞いたら「最近、嶽本野ばらを読んでるんだけど、とってもいいですよ。痛々しくて、ちょっとつらくなる部分もあるけど」というようなお薦めを受けたからです。当時(と言っても、そんな前の話じゃないけど)、私は、イマドキの若者の特質として注目される「セカイ系」とか「ひきこもり」というものに興味をもっていましたから、痛々しい女の子の内面を描いて「乙女のカリスマ」と呼ばれているらしい気鋭の中年男性作家に、そうした時代とシンクロする何かがあるのだろうと思って、読んでみることにしたのです。最初に読んだのが、当時最新刊だった『ミシン2/カサコ』(小学館)で、私はこれがとても気に入ってしまいました。それで嶽本野ばらを本格的に読むことにし、野ばらちゃんの本をひととおり買い集めて、評判になっていない方の本から読みはじめたのです。だって、美味しいものは後に取っておきたいじゃないですか。どうせ野ばらちゃんの小説だったらすぐ読めるだろうし、と私は考えたのでした。ロココな桃子なら、きっと美味しい方から食べたでしょうけどね。

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 でも、正直言って、この戦略は失敗だったと思います。『ミシン』はまあまあだったのですが、それに続いて読んだ『カルプス・アルピス』『デウスの棄て児』がイマイチ楽しめず、わりあい評判のいい『エミリー』にも満足ができませんでした。なぜかと言うと、私は基本的に「泣き言」が嫌いな人間ですから、物語の背後に「なんで私はこんなに不運なの」という被害者意識的世界観を持ち、「そうよそうよ、私もそうなのよ」という読者の感情移入的同情を求めるような雰囲気が、どうしても好きになれなかったのです。こういうのって、桃子だってうざったがるだろうし、イチゴなら「独りで酔ってんじゃねえよ」って言うかも知れない。とにかく私としては、うざったいと感じる部分があったんです。
 そんなわけで、まだ買い置きしてある本が何冊もあったのに、私の興味は野ばらちゃんから遠ざかってしまいました。まあ、こういう作風だから、自分一人のセカイに浸りたい女の子たちには受けるんだろうなって、いちおう納得もしましたしね。

 ところがそのうち、まだ読んでいなかった『下妻物語』が映画化されました。しかも、かなり評判がいいようです。それじゃあ、ちょっくら観てみるかと、レンタル落ちしてから観てみたら、これがとっても面白い! この作品は「可哀想な私」系の作品ではなく『ミシン2/カサコ』に通じる「前向き」の作品なんです。しかも、ギャグ満載のたのしい作品。でも、この映画の面白さは、どこまでが原作のおかげで、どこまでが監督の力量ゆえなのか、そのあたりは、やはり原作を読んでみないことにはわかりません。そこで私は、古本屋をまわって、すでに版を重ねていた初版(初刷)単行本を入手するとともに、持ち運びに便利な文庫本を古本屋の百円均一で購入したのでした。だけど私には、なにしろ読みたい本がたくさんあります。だから、いつ読んだってかまわない、いま読まなくちゃならないわけじゃない『下妻物語』は、どうしても後回しになっていたんです。ところが今回、とうとう続編が、しかもタイトルに『完』とあって、このシリーズも2冊で終わらせるという意思表示をした続編が、刊行されました。私は「これはもう、この機会にこの正続2冊とも読むしかない」と思ったのです。

 告白すると、じつは私、『下妻物語 完』を京阪淀屋橋駅前にある「ブックファースト」で買いました。その後に「旭屋書店 なんばCITY店」でサイン会が行われるということを新聞広告で知ったんです。なーんだ、だったら、そっちでサイン入りを買うんだった、と思ったのですが、その時、ふと思い出したのは、私に嶽本野ばらを薦めてくれた友だちのことでした。彼女なら、確実にこの本も買うだろうし、サイン本を欲しがるかも知れない。早速、私は彼女にメールを送って、『下妻物語』の続編が刊行されたということと、サイン会があるということを伝えました。私の場合、サイン会の日(つまり今日です)は休みだったのですが、彼女は仕事が忙しい人ですから、サイン会には行けないかもと思い「もし、サイン会に行けないようだった、私がサインをもらってきてあげますよ」と付け足しておいたところ、やはり彼女は当日休みではなかったようで「お願いいたします」という電話がありました。
 こう言ってはなんですが、私はサインをもらいなれている人です。こうした書店でのサイン会にも馴れていますから「旭屋で彼女の本を買い、サイン会の整理券をもらい、ついでに私の(よそで買った)『下妻物語 完』と、古本で買った『下妻物語』の初版本にもサインをもらっておこう」なんて考えていたのです。新刊の『下妻物語 完』の方は、どうせサイン会の後にサイン本が店頭に置かれるだろうし、ほかの店にも出る可能性がある(というのも、私は以前に『ミシン2/カサコ』のサイン本を、旭屋書店の大阪本店で買っていたので、その辺りの事情は理解していたのです)。だから、今回サインをもらうとしたら『下妻物語 完』より『下妻物語』の方に欲しかったんです。それに、正続のどちらにサインをもらうかと言えば、やっぱり正篇の方でしょう? そんなわけで、私は旭屋書店で「今回のサインは、この新刊に限らせていただきます」なんて断られることのないように、持参する『下妻物語』と『下妻物語 完』の2冊を、旭屋書店のカバーで包んでおきました。これは店員さんを欺こうというのが主旨ではなくて、あくまでも他の書店で買った本にサインを求められるのは、書店さんとしても内心気分良くはないだろうと、その気持ちを思いやっての配慮なんですね。私って、なんて気配りのできた人なんでしょう(うふっ)。

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 嗚呼、それにしてもまだサイン会にたどりつけていません。やっぱり文体模写なんかするべきではなかったのかも。でも、ここまで来たら、がんばるしかないか……。

 サイン会の整理券は一応200枚発行とのことでしたが、あらかじめ電話で確認したところ「サイン会に来て下さったお客さまには、サインをいただけるようにしております」とのことでした。野ばらちゃんのサイン会に、いったいどれだけの人が集るのか、私には皆目見当がつかなかったのですが、読者層が若い女性なんですから、それなりに集るだろうとは思っていました。それにしても、サイン会に来るのは、野ばらちゃんのファンだし、特に今回は『下妻物語』の続編の刊行記念サイン会ですから、きっと9割がたが若い女性で、しかもロリータファッションで身を包んだ女の子も少なくないだろう、と私は踏んでいました。また、そんな中へ四十過ぎのオヤジが参加するんですから、現場で浮くことは間違いなし。ちょっと恥ずかしいなという気持ちも無いではありませんでしたが、もともと場違いな「異分子」として周囲を挑発することに快感を感じるへそまがりですから「それも面白いかも」なんて思ってしまいました。ついでに「女の子たちがロリータファッションで決めるのなら」と、彼女らに対抗意識を燃やした私は、『下妻物語』で桃子の出生地である尼崎のファッションとして描かれるジャージ上下で、サイン会場に乗り込むことにしました(嘘です。考えることは考えましたが、さすがにそんなお馬鹿なことは実行しません)。

 昨日中に『下妻物語』を読み終え、今日は『下妻物語 完』を読みながらサイン会場へと向かいました。私は、原作『下妻物語』を読んで、あらためて映画『下妻物語』の出来に感心させられました。だって、あまりにもそのままの雰囲気だったからです。当然、原作の方は一人称の饒舌体ですから、それをそのまま映画に移すことはできませんが、長編の筋をうまく2時間にまとめ、しかも全体の雰囲気をそのまま残した作品に仕上げたというのは、ほんとうにすごいことだと思います。ただ、一箇所だけ、映画と原作では、はっきりと違うところがありました。それは、最後の方で、桃子が、リンチにあおうとしているイチゴを助けに行くために、原チャを駆るシーンです。映画では、桃子は交差点で衝突事故を起こしてはね飛ばされ、即死かと思われたのですが、なぜかムクッと起き上がって、そのままイチゴのもとへと向かいます。ところが原作の方には、こういう不思議な事故のシーンは無いんです。ここには、映画監督の原作理解が象徴的に示されているように思うんですけど、それはまた後で説明したいと思います(忘れるかも知れないけど)。

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 サイン会場である「旭屋書店 なんばCITY店」にはサイン会の2時間前に到着し、友人のための『下妻物語 完』を買って整理券をもらい、近くにある「BOOK OFF」を冷やかしに行きました。 サイン会は午後2時からだったんですが、1時40分に戻ってみると、付近にはロリータファッションに身を包んだ女の子が何人か歩いており、思わず「いるいる」と内心おもしろがってしまいました。ただ、残念なのは、映画の深田恭子ほど可愛い子はいなかったことで、というのは冗談(ホントか?)で、ロリータファッションの子はいても、ヤンキーファッションの子は一人もいなかったということです。たしかに真性のヤンキーが野ばらちゃんの本を読むとは考えにくい。そもそも本を読むヤンキーなんてほとんどいないんだから、野ばらちゃんのサイン会にヤンキーを期待するのは無理なのかも知れません。でも、イチゴのファンだってきっといる(かく言う私もそうだ)だろうから、中にはロリータファッションに対抗すべく、ヤンキーファッションで参加するファンが一人くらいいてもいいかなと思ったんです。でも、みなさん、そこまで義理立てなさることはなかったようですね。私だって、ジャージ上下のコスプレで行ったってわけじゃないだから、人のことを言えた義理じゃないんだけど、……やっぱり見たかったなあー、ヤンキーファッションの子。

 店の構造上、何人くらいが集ったのかはよくわかりませんが、ひとまず200人以上集っていたのは確かです。盛況だったと言えるでしょう。その大勢の客のうち、約95パーセントが女性客でした。その女性客の半分が十代、残り半分が二十代・三十代。5パーセントの男性客(と言っても、私が直接目にしたのは10人ほどかな)の中で、予想どおり、私が最高齢でした。ざまあみろ(←なにが)。ロリータファッションまたはそれに準ずるファッションに身を包んだ女の子は、全体の20パーセントくらいかな? 予想したよりは少なかったかも知れませんが、期待してた分だけ少なく感じたのかも知れません。

 サイン会では、大半が女性客ということもあって、ほぼ全員がサインをもらうだけではなく、野ばらちゃんと記念写真を撮っていました。野ばらちゃんのサイン会は、いつもそうなのでしょう。野ばらちゃん本人も書店員の方も馴れた調子で、サインとそれに続く写真撮影を手際よくこなしておられました。でも、その分、男性客の多い小説家のサイン会より、余分に時間がかかったのは確かなようです。しかも、野ばらちゃんのサインはとても凝っています。と言うか、正確にはサインだけではなく、その横にイラストらしきものを書いてくれるので、普通の倍くらい時間がかかってしまうのです。野ばらちゃんはファンサービスをする作家なんですね。感心です。でも、気になるのは、そのイラストらしきもの。実際は、それがイラストなのか何なのか、よくわからないんです。もしかすると、図案化された言葉かもしれないんですが、ぜんぜん読めません。私は『ミシン2/カサコ』のサイン本を持っていたため、野ばらちゃんのサインがそういうのだってのはあらかじめ知ってましたから、逆にそれが何なのかを聞くのも忘れていました。もしかして野ばらちゃんのサイトを調べるとかすれば、その正体がわかるのかも知れませんが、面倒なので私は調べようとは思いません。でも、親切な人が教えてくれるならうれしいとは思います(ロココの精神は享楽にあり。気の向かないことはしないのです。してはならないのです)。

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 そんなわけで、残念ながら野ばらちゃんとは言葉を交わすこともありませんでした。もちろん、写真撮影なんかしていません。そんなの恥ずかしい。じつはサインを頼まれた友人から「野ばらちゃんの写真を撮ってきて」と頼まれたのですが、私は「カメラ持ってないから」と断ると「携帯で撮ったものでもいいです」と言われたのですが、私は「写真が嫌いだから、私の携帯にはカメラもついていないんです。携帯のカメラで写真を撮ってる姿って、なんか馬鹿みたいに思えるんですよね。だから撮れません」とすげなく断りました。じっさい、野ばらちゃんと並んで写真を撮ってる女性ファンを見ていると、今も昔も変わらない田舎者根性だなあーという印象を受けてしまいます。どう田舎者なのかと言うと、要はそういうのって、単なる「有名人好き」でしかないということなんですよね。来店した芸能人のサイン色紙をベタベタ壁に貼りまくっている飲食店にも似たダサさを感じて、きっと「私、この人のファンなんだよ」って、人に自慢したいんだろうな、と邪推してしまいます(たぶん、邪推じゃないと思うけど)。作家として好きなんなら、どうしてその人の本を持っているだけ、サインをもらうだけ、ではいけないんだろ? そりゃあ本人に会いたいという気持ちはわかるけど、どうして本人と会ったという証拠でも残そうとするかのように、女性の多くは写真を撮りたがるんだろう? いったい誰に、本当に会ったということを示したいんだろうか? それって結局、他人に寄り掛かった自己顕示欲なんじゃないの、って思ってしまいます。だから、ロココの精神で我が道を行く私には、ああいう庶民性って、どうにも気持ち悪い。ゲロゲロって感じです。よけいなお世話だと言われるかも知れないけど、私は言いたいことを言うだけ。だって、これは桃子の文体模写で、遠慮なんかしてたら桃子らしさが出ないんだから、これはしかたがないのです。だから、恨むのなら私ではなく桃子を恨んで下さい。でも、そのためには原作を読むなり、映画を見るなりして下さいね(そうしてもらわないと、この文体模写も意味ないし)。


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