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D・W・グリフィス監督 『散り行く花』 : 見えすいた「感動消費」的演出に鼻白む
映画評:D・W・グリフィス監督『散り行く花』(1919年・アメリカ映画)
D・W・グリフィスの作品は、悪名高い『國民の創生』(1915年)と、代表作である『イントレランス』(1916年)を見ているので、もうそれで十分かなと思わないでもなかったのだが、しかし、故・淀川長治がこの『散り行く花』を熱烈に褒めていたので、いちおう見ておくことにした。
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そしてその結果として言えるのは、やはり『國民の創生』や『イントレランス』に比べると、いかにも小粒感が否めないということ。
また、驚いたことには、本作は数年違いとは言え、『國民の創生』や『イントレランス』よりも、後の作品だったという事実である。
私は本作の制作年を意識せずに見ていたのだが、その間はずっと、先の2作よりも古い作品だとばかり思い込んでいたのだ。
だが、これはもしかすると、『イントレランス』で、とんでもない巨費を投じる無茶をやったので、そのあとは、かえって制作費がかけられなかったというようなことなのかもしれない。
一一ともあれ、そんな印象の、「哀れっぽさが売りのメロドラマ」であった。
『仏教を広めるため、中国からロンドンに渡った中国人青年チェン・ハンは、しかし厳しい現実に直面し、スラム街で店番をしながら阿片を吸うような生活を送っていた。同じスラム街で暮らす少女ルーシーは、ボクサーである父親バロウズから日常的に虐待を受けていた。ルーシーは笑うことを知らず、父親から笑顔を要求されると、指で唇の両端を持ち上げるほどであった。ある日、父親からひどく殴られ(※ 家を飛び出して彷徨ってい)たルーシーはチェンに助けられ、彼の部屋でつかの間の安らぎを得る。(※ やがて)二人の間にはロマンティックな感情が芽生え始めるが、二人のことを(※ 伝え)聞いた父親は怒り、ルーシーは力ずくで連れ戻されてしまう。』
(Wikipedia「散り行く花」)
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ここには、主人公の中国人青年の名が『チェン・ハン』だと書かれているが、映画の中に「名前など出てきたかな?」という疑いがある。見直して確認すれば良いのだろうが、そこまでしたくなるような作品ではない。ただ、この「Wikipedia」でも、「キャスト」の項目は、
・ルーシー:リリアン・ギッシュ
・中国人青年(イエロウ・マン):リチャード・バーセルメス
・バトリング・バロウズ:ドナルド・クリスプ
・バロウズのマネージャー:アーサー・ハワード
となっていて、中国人青年に名前はない。
たぶん、トーマス・パークの原作短編小説に書かれている名前なのであろう。
実際、タイトルバックでも、『Broken Blossoms or The Yellow Man And The Girl』つまり、フルタイトルとしては『散り行く花、あるいは、東洋人と少女』というほどのもので、「Yellow Man」という表記が目を引いたし、また作中の「字幕」でも、固有名詞ではなく「Yellow Man」という言葉で、中国人青年は語られていた。
したがって、彼に名前は無くても、作品的には何ら困らないし、「無声映画」の場合は、登場人物に名前のない作品も少なくない。なにしろ登場人物たちが、名前を呼び合う必要もないからであろう。
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そんなわけで、私が本作において興味を持ったのは、「中国人青年」の描写と、「少女ルーシー」を演じたリリアン・ギッシュの面貌の、二点だった。
ストーリー自体は「薄幸の美少女と、純朴で真面目な中国人青年の悲恋を描いた」もので、要は「同情の涙をそそるお話」なのだと、そう理解はしているが、今更これで「泣け」とか「感動しろ」と言われても、それは、私にはちょっと無理な相談であった。
淀川長治のように、ごく若い頃、同時代に見たのなら、感動にうち震えたというのもわからないでもないが、今の私とでは、鑑賞の条件が違いすぎるのである。
さて、まずは中国人青年の方だが、こちらは白人俳優のリチャード・バーセルメスが演じている。
バーセルメスは、彫りの深い典型的な白人顔の二枚目俳優だが、この作品では、顔を白塗りにして彫りの深さを弱めており、特に特長的だったのは、眼を半眼にしていたことである。目張りか何かをしていたのであろうが、半眼にすることで、「東洋人の細い目」を表現していたのではないか。
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なお、この中国人青年は、故国中国では仏門にあった人で、西洋に仏教の寛容と平和の精神を伝えようという大志を抱いてロンドンに渡った、ということになっている。だから、基本的には「物静かで理知的」な青年なのだが、それを演じたバーセルメスが白人としてそれなりに背が高いのは仕方ないとしても、いつも「猫背」にしている点が気になった。
思うにこれは、多少なりとも背を低く見せようというようなことではなく、たぶん、すっくと背筋を伸ばして胸を張っていたのでは「東洋人らしくない」と考えられていたからではないか。つまり、東洋人について「物静かで謙虚で腰がひくい」という理想像としてのイメージがあり、まして仏門にあって西洋布教まで考えるような青年なら、「謙虚=腰が低い」だろうというのが、偉そうにふんぞり返っていることの反対である「猫背」というかたちで表現されてしまったのではないだろうか。
次は、悲劇のヒロイン・ルーシーを演じたリリアン・ギッシュだが、ギッシュはたしかに、「かわいい」タイプの美人である。
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だが、1893年生まれの彼女は、本作撮影時には25、6歳だったはずで、お人形さんを可愛がるその様子からすると、たぶん「10代も半ばまで」という設定であろうルーシーを演じるのは、ちょっと無理があるように感じがないでもなかった。
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ルーシーが力なく首を傾けて座り込むシーンの「顔」などは、まさに「竹久夢二」が描く「儚い美少女」そのままだし、全体としては「高畠華宵」的な、やや下膨れの面長で、そこに憐れっぽくもつぶらな両眼が付いている感じ、とでも言おうか。
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では、10代半ばまでという設定であろうルーシーを演じるのに、どこが「ちょっとなあ」と思ったのかというと、当時の「美人顔」の特徴であろう「おちょぼ口」を作るのに、口に力が入るせいだろうが、アップになると「ほうれい線」が見えて、それが少女らしからぬと感じられたのだ。
今の感覚(美人観)からすれば、無理せずに普通にしていれば、その方が自然で美しいのに、無理におちょぼ口なんか作るから、かえって実年齢を感じさせられたのである。
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本作全体として感じられたのは、上の二人の描写でもわかるように、「感傷への耽溺とリアリズムの欠如」ということであった。
昔の映画だから仕方がないという部分もあるのだろうが、しかし「理想化された東洋人」や「虐げられた哀れな美少女」、そして「悲劇的な結末」という内容があまりにもベタで、『國民の創生』や『イントレランス』の内容と合わせて考えれば、D・W・グリフィスという人は、こういう「善玉と悪玉がはっきりしていて善玉に同情させる、被害者意識の強いお話が好きなんだな」という印象を受ける。
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また、そんな彼だからこそ、『國民の創生』のような「南部の白人こそ、北部と黒人の可哀想な被害者だったのだ」というような内容の「自己正当化」作品を、臆面もなく本気で撮れたのであろう。
そしてこれは、たぶん彼の「ルサンチマンと不遇意識」に彩られた、その育ちから来るものだったのではないか。
『父親は南北戦争における南軍の英雄ジェイコブ・ウォーク・グリフィス大佐。彼は大きな農場を経営しており、州議会議員も務めていたが、(※ 南軍が敗れた)戦後に没落し、グリフィスが10歳の時に亡くなっている。そのため少年時代は困窮を極めていたが、両親から高い教育を受けていた。』
(Wikipedia「D・W・グリフィス」)
私はもともと、こういう「被害者意識」というのが好きではないのだ。同じ泣かせるにしても、こういう「同情を引く」というやり方が好きではない。
打倒すべき敵がいると言うのなら、周囲の同情を引き、感情に訴えて仲間集めをするのではなく、敵の非を率直に批判し、その道理において、堂々と味方を作るべきなのである。
本作に即して言えば、父から虐待を受けて育ったために、笑うということを知らなかったルーシーが、それでも父親から「笑え」を強要され、笑わなければ殴打されるのがわかっているから、2本の指で自らの口角を、無理にでも持ち上げ、笑顔を作ってみせるというシーンは、たしかに「哀れ」を催させるものだ。
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だがこれは、「哀れ」ではあっても、「可哀想」というのとは、どこか違うようにも思える。「可哀想だから、助けてあげたい」「あの父親は絶対に許せない」というような感じではなく、単に「哀れを催させ、紅涙を搾りとることで観客にそれを消費させ、酔わせて満足させることだけを目的とした、不健康な誇張的描写(演出)」であり、そこには「正義の怒り」といった、健康的な感情への発展性が欠落しているように感じられるのである。
つまり、今の言葉で言えば、この作品に満ち満ちているのは、「感動消費のために提供される泣かせ」のようなものである。
この映画には、「散りゆく花」を愛でて涙を流せればそれでよいというような「一過性の感動」はあっても、こんな世の中で良いのか、というような、前向きの感情を喚起するようなものが、どこにも無い。
だからこそ私は、この作品に白けてしまうのであろう。一一「その手に乗るものか」と。
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(2025年2月23日)
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