ポール・W・S・アンダーソン監督 『イベント・ホライゾン』 : 「才能」の質
映画評:ポール・W・S・アンダーソン監督『イベント・ホライゾン』(1997年・アメリカ映画)
完全に失敗した。見るんじゃなかった駄作である。この作品については、語るに値するほどのものを、私は何も持たない。
本作は、ひと言で言えば「絵は悪くないが、内容がありきたり過ぎる」作品なのだ。
作品鑑賞の蓄積に乏しい高校生くらいまでであれば、十分おもしろい作品なのだろうが、ある程度、映画を見たり本を読んだりしている者には、何もかもが「既視感」ばかりを呼び起こすだけなのだ、最後まで。
で、この作品については、次の2つのサイトの紹介文を読んでもらえば十分だろう。
特にひとつ目のサイト「最低映画館」の評価は、本作について、過不足のない的確な評価を与えている。要は「どこかで見たことのあるようなものばかりの寄せ集めであり、身も蓋もないパクリまくり映画」ということだ。
したがって、これらのサイトでやっているのは、基本「元ネタ」紹介であり、読んで「なるほど、そうだね」というような内容であり、はなから作品の作品的な価値を語るつもりはない、というスタンスで書かれている。そもそも、「中身」なんてものは無いのだから、語りようもなかったのであろう。
もちろん、「元ネタ」紹介レビューというのも、それはそれで「読み物」としては面白いのだが、それは「批評」ではないから、そんな「考察」にすらならないものを、重ねて自分も書こうとは思わない。だから、上のサイトを真っ先に紹介しておいたのだ。
そんなわけで、私が本稿で書きたいのは、「なんで、こんな作品を撮れるんだろう?」というような疑問についての考察である。
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まず、なんで本作を見たのか、その理由から説明しておくと、昨年のことになるが、「米誌が選出!ラブクラフト系コズミック・ホラー映画ベスト10」と題するネット記事を見つけたことに端を発する。
H・P・ラヴクラフトといえば、独自な作品世界を築いたホラー作家として知られる人だ。「クトゥルフ(クトゥルー)」も呼ばれ「邪神」たちの登場する、暗い世界を描いた人である。
で、私も、怪物だの邪神だのというのは嫌いではなかったから、ラヴクラフトの小説を読んでみた。私の基本は「活字派」だからだ。
だが、結果としては、私の趣味ではなかった。中身がではなく、あえて言うなら「文体」である。
私は、どっちかと言うと、エッジの利いたタイプの小説が好きなので、ダラダラと雰囲気を盛り上げていくタイプの「ストーリー派小説」は、退屈に感じてしまうのだ。私の読んだラヴクラフトは、まさにそのタイプだった。
もう何冊か読めば、また違った作品もあり、評価も変わったのかも知れないが、代表作と呼ばれるものを読んで楽しめなかったのだから、ほかに読みたいものの山ほどある身としては、そこまでしてつき合いたいほどの作家ではなかったのである。
しかしまた、そもそもが、怪獣だの邪神だのが好きなので、それが活字ではイマイチなら、素直に映像作品にするか、という気持ちは残ってはいた。
しかしまた、ラヴクラフト原作のホラー映画で、ストレートに「傑作」と呼ばれる作品を耳にしたことがなかったので、これまではそうしたものを、探してまで見ることはしなかったのである。
ところが、昨年、上の記事の中に、私の大好きな『遊星からの物体X』を見つけ、「ああ、そうか。あれも広義のクトゥルフ映画と言えないこともないんだな」と気づき、そのような「拡大解釈」がありなのであれば、それなりに面白い「怪物映画」もあるかも知れないと、この「ベストテン」から、いくつか気になるものを見てみることにしたのである。
で、最初に見たのが、すでにレビューを書いた『マウス・オブ・マッドネス』であった。『遊星からの物体X』と同じジョン・カーペンター監督の作品だったから、前々から気になっていたのだ。
だが、結論から言えば、レビューにも書いたとおりで、『遊星からの物体X』に遥かに及ばない、「凡作」であった。
「やっぱり、この程度か」というのが、正直な感想で、やはり、評判にならないだけのことはあったのだ。
で、今回はそれに続く、前記記事で紹介されていたラヴクラフト系映画の第2弾だったのである。
だが、すでに書いたとおりで、これも「駄作」だった。
特に、この映画を見て後悔させられることになったのは、映画を見終えたあとに、監督がポール・W・S・アンダーソンだと気づいたためである。
この監督の作品はいくつか見ていて、すでに「もう見なくていい監督」だと、断を下していたからなのだ。この監督だと知っていたら見なかったのにと、そこで強く後悔させられたのてある。
私は、このレビューで、次のように書いている。
本作『イベント・ホライゾン』は、『バイオハザード』(1作目)と同様『スタリッシュな映像に仕上げる能力』を発揮してはいるものの、「バイオハザード」シリーズ以上に『物語作りに「オリジナリティ」というものが決定的に欠けており、優れた先行作品のあれこれを寄せ集めて作っているという印象が否めな
い。だから、場面場面は、それほど悪くはないのだが、全体としては印象の薄い』作品になっていた。「バイオハザード」の『2』『3』よりは、「まとまりのある作品」になってはいたが。
ちなみに、本作は『バイオハザード』(2002年)以前の作品であり、だから余計に「寄せ集めたいネタ」がいろいろあったのかも知れないし、まだそれでも、それをまとめ上げるだけの求心力はあったのかも知れない。
要は、ポール・W・S・アンダーソンは「映像センスだけはある、オタク的映画監督」だったのだ。
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さて、ここで私が考えたいと思うのは、「優れた作品を作る作家の条件」というようなことである。
こう大雑把に分けると、ポール・W・S・アンダーソンは、(4)だということになる。
(1)と(2)は文句なしだから、ここでは置くとして、問題は(3)と(4)の違いだ。
何度も繰り返しているとおり、ポール・W・S・アンダーソンという人は「絵を作る」センスはたしかにあるのに、どうして、こんな中身のない映画しか作れないのか。
(3)タイプとの違いは何なのか。
もちろん、これは「映画」あるいは「映像」以外でのところでの、「人間的な蓄積」の違いということになるだろう。
昨今では「映画は中身で見るものではなく、映像表現として見るべきだ」みたいな「映画原論」的な考え方もあるけれど、ポール・W・S・アンダーソン作品のようなものを見せつけられると、やっぱり「そうじゃない」ということを思い知らされる。
やはり映画は「総合芸術」であり、そうであるからには、映画には、作り手の「映像センス」だけでは済まされない、人格・思想的なものもおのずと反映されるし、それなくしては、ろくな作品にはならない、ということである。
もちろんこれは、作品の中で、中身のある物語や思想が語られていなければならない、ということではない。
例えば「映像詩」みたいな作品であってもかまわないのだが、そういうものにだって、作り手の人柄や人格や思想は、おのずと反映されて、同じ対象を撮っていたとしても、なぜか「厚みが違う」みたいな差が出てしまうのでないだろうか。
私は、もともとは「文学」畑の人間なので、その比喩で言わせてもらうと、要は「文体が違う」というようなことなのだ。
つまり、同じようなシーンを撮っているのに、なぜだか、どこかが決定的に違う。
例えば、
「雨が降っていた。」
という一文は、誰が書いても同じはずなのに、前の1行あるいは後の1行があれば、この1行は、確実に「違ったもの」になってしまうのだ(事実、上の1行も、そうではないだろうか?)。
そして、映画の映像にも、これと似たようなことがあるのではないか。
むしろ文章よりも情報量の多い映像だからこそ、余計にそういうこともあるのではないだろうか。
だから、単に「映像センスがある」とか「スタイリッシュな映像が撮れる」いうのと、言うなれば「文体を持った人の映像」とは、一見はわからなくても、何か違うものがあるのではないだろうか。
だから私が思うのは、小説家には、思想や技巧だけではなく、「文体」を生み出す「総合的な人格」や「人品」が必要であり、「文」に反映されるに値する「人柄」といったものが必要なように、やはり映像作家にも、それが必要なのではないか、ということである。
つまり、単なる「映画オタク」であっては、ダメだということ。それでは、一流の作家にはなれない。
もちろん、「映画だけ」を見ていても、そうしたもの(作家的資質)を育むことは可能だろう。「だけ」というのは好ましくなくても、その人の映画に対する向き合いかた次第で、そこから摂取できるものも違ってくるはずだからだ。
実際のところ、「映画オタク」とひとことで言っても、その背景となる「私生活」にはいろいろあって、やはりその差は大きいだろう。
映画の見方はいろいろあって良いのだけれど、しかし、その姿勢によって「得られるもの」の違いというのは、確かにあるはずだ。
例えば、苦しくて仕方のない生活の中で映画だけが救いであり、だから食い入るように映画を見て、その世界に溺れた、というような人と、暇と余裕があって、片っ端から滅多やたらに見まくった、というような人とでは、映画から得るものは違っているはずだ。
くり返すが、映画を見るだけなら、どんな姿勢でそれを見ようと、それはその人の勝手なのだけれど、しかし「クリエイター(作家)」になるためには、やはり、それ相応の「作品との対峙の仕方」というものがあるのではないだろうか。
映画であれ小説であれ、同じ作品であっても、鑑賞者の姿勢によって、作品から与えられるものには違いが出てくる。
ならば、作家になる(何かを生み出そうとする)気のある人の、作品鑑賞姿勢というのは、やはり「楽しむため」では十分ではなく、ある種の「真剣勝負」的なものも必要なのではないだろうか。
例えば、作品の肉を食いちぎって帰ってくるような気迫とか。
そういうところで、同じ「映画オタク出身」であっても、その作品の「厚み」において、結果として大きな違いが出てくるのではないか。
本作で『イベント・ホライゾン』を撮った、ポール・W・S・アンダーソン監督という、ある意味で才能があるのに、べつの意味では、決定的に才能を欠いているとしか思えない、そんな不思議な存在に、私は、こんなことを、あれこれと考えずにはいられなかったのである。
たぶん、これも決して無駄なことではないと思うのだ。普通の「映画レビュー」の範疇には収まらないものだとしても。
(2024年9月12日)
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