私に 「こき下ろされた人々」の、 ごくごく一部
「年間読書人をこき下ろすのを専門とするアカウント」のあることを、初めて確認した。
「令士葉月」という人のアカウントである。
「年間読書人をこき下ろすのを専門とするアカウント」と言っても、さほどの内容があるわけではない。約半年間で、記事が4つあるだけだから、むしろ、もっと頑張ってほしいところだ。
しかし、なにしろ、私の人間性を全否定しているだけで、何の具体性もない「負け犬の遠吠え」なのだから、そうそう新しいことなど書けないというのは理の当然で、それも仕方のないことなのだろう。
この人、私のレビュー「伊藤詩織『Black Box ブラックボックス』:安倍晋三・中村格・山口敬之・ネトウヨ」にコメントして、私から「ネトウヨ」認定されて、バカにされ、こき下ろされた人である。
読者各位には、是非とも「令士葉月」さんのコメントを読んでいただきたい。
私が「こき下ろすのも当然」の、「女性蔑視(反フェミ)」が露骨な内容である。
しかし、面白いのは、この人の「最初の記事」の冒頭が、
となっており、肝心の『とある記事』を紹介せず(リンクを張らず)、自分が何をどうコメントし、それにどう返されたのかを示さないまま、私のことをどうこう言っている点である。
よほど悔しかったのだろうが、だからと言って、リンクを張ることで自分が何を書いたのかを、世間に知られたくはなかったのだろうし、私に察知されて、また「やり返される」のが嫌だったのだろう。
しかし、さらに興味深いのは、この記事以前には記事がない、という事実。
つまり、この「令士葉月」というハンドルネームのアカウントは、私の記事にケチをつけるためだけに作られたものだ、ということである。
また、そんな「捨てアカウント」ですら、こちらに通知が行ってしまうリンクを避けるくらいだから、よほど身元がバレるのを恐れているのだろう。
もちろん、ここでいう「身元」とは、戸籍に載っているようなことではなく、日頃、SNSで使っているハンドルネームやアカウントのことである。
つまり、捨てアカウント「令士葉月」さんの場合、それを知られると、「令士葉月」名義のアカウントでは隠している「ネトウヨ」であることがバレてしまうということかもしれないし、あるいは、本来のアカウントの方では、「捨てハンドル」のアカウントを作ってまで、他人の悪口を書くような人間とは思えない、「良い人ぶり」をアピールしている、とかいったところなのだろう。
また、個人的に興味深いのは、この記事への「スキ」の数が、現時点で「23」であること。
これが、普通の記事であれば、まずまず立派なものだと思うのだが、しかし、私が、ほとんどの「ネトウヨ」、ほとんどの「安倍晋三崇拝者」、ほとんどの「キリスト教徒」、ほとんどの「創価学会員」、ほとんどの「宗教家」などなどを、真っ向から批判していることを思えば、つまり、私に腹を立てている人の数からすれば、「あまりにも少ない」という事実である。
さすがに、私から徹底的に「自身の信仰を批判された」人でも、多少なりともプライドのある人なら、こんな見るからに情けない捨てハンドルによる「負け犬の遠吠え」に、「スキ」を押す気にはなれなかった、ということなのだろう。
もちろん、「スキ」がこの程度に止まっているのは、捨てハンドル「令士葉月」さんの知名度が決定的に低いということもあるだろうし、そもそも、私の批判した人の多くは「note」をやっていないからかもしれない。
だが、それにしても、「23」も「スキ」がついたのなら、その10倍くらいの人が、この短い記事を読んでいるはずなのだから、「令士葉月」さんの、根拠をまったく示さない一方的な「陰口」が、多少なりとも読めるもの(説得力のあるもの)なのであれば、もっと「スキ」がついても良かったのではないだろうか。
なにしろ、この記事は「アンチ年間読書人」限定の記事みたいなものなのだから、私に興味のない人は、こんな記事を「検索して探してまで」読んだりはしないだろうからだ。
だとすれば、この記事に「スキ」をつけた人の多くは、「宗教関係者」ではなく、「ネトウヨ」なのではないか(しかも、過去に、私に斬り捨てられたネトウヨ)。
「ネトウヨ」というのは、お互いに「スキ」をつけ合うことで、「多数派偽装」をするのが習慣化しているような人たちだからである。
だが、それにしたって、「スキ」が 「23」もついたのは、最初の上の記事だけ。
あとは、わかりやすく「スキ」が減っており、「10」前後にまで落ち込んでいる。
要は、いくら「年間読書人」が憎くても、捨てハンドル「令士葉月」さんの記事は、継続的にチェックするに値しない、無内容なものだ、ということだろう。
ともあれ、「アンチ」の数百人もいないようでは、一人前の言論人ではない。
そんなことでは、言論人としての「存在感が薄い」ということにしかならないので、捨てハンドル「令士葉月」さんには、ネタ切れではあろうが、今後の奮闘に期待したいところである。
○ ○ ○
ところで、私が、捨てハンドル「令士葉月」さんの記事の存在を知ったのは、と言うか、まだアカウントが残っていたというのを知ったのは、先般、私が批判した「吉成学人」さんの記事に、捨てハンドル「令士葉月」さんがコメントをし、それに吉成さんが「遅ればせながらのレス」したため、その段階でこちらにも自動的に通知があったからである。
「年間読書人に、こき下ろされたものどおし、共闘しませんか」という趣旨で擦り寄ったのだろうが、さすがに、捨てハンドル「令士葉月」さんよりはだいぶ学のある「吉成学人」さんだから、賢明にも、「令士葉月」さんを適当にあしらっていた。このあたりは、「世間の目」に配慮できる分、「吉成学人」さんの方が賢い、とは言えるだろう。
しかしながら、捨てハンドル「令士葉月」さんよりはだいぶ学のある「吉成学人」さんとは言え、その人間性の薄っぺらさは、同じ文章にも、よく表れている。
「令士葉月」さんが、
とコメントしたのに対し、たぶん、ひさしぶりに「note」をチェックしたのであろう吉成学人さんは、1ヶ月以上たってからの昨日、次のように、レスしている。
このレスで、興味深いのは、見るからに「負け犬」でしかない捨てハンドル「令士葉月」さんの「擦り寄り」に対してだとは言え、吉成学人さんが、まったく「いい加減なことを書いている」点だ。
吉成さんはここで、私が『「この世界に意味はないんだ」と云うこと』を『過去のご発言や文章から』『繰り返し述べていることを理解し』たので、『それで私は「じゃあ、あなたとやり取りをするのも意味はないですし、書いているものも読む必要はないですよね。だって、あなたも意味のない世界の一部なんですから」と云うことでブロックする判断にしました。』と書いている。
たしかに私は『「この世界に意味はないんだ」と云うこと』を『繰り返し述べて』きたけれど、しかし、それは哲学的に、つまり「究極的には」そうだ、ということでしかない。
究極の真理はそうであるのだろうが、しかし「今ここ」に現に生きている「私」としては、その「実存」に由来する「喜びや悲しみ」「善悪」「美醜」といった「意味」を、無視して生きていくことなどできないと、そうも私は書いている。
ところが、私の文章をあれこれ読んでいると主張する「吉成学人」さんは、例によって「自分を正当化するのに役立つ部分だけ」を「切り取って」利用することしかしないのである。
これは、私が「そういうの(御都合主義的な切り取り引用)ではダメだ」と、コメント欄で忠告してあげた点なのだが、やっぱり、忠告して治るような性格ではなかったようだ。
ちなみに、上の説明では理解しにくいという人のために、少し説明しておくと、究極的には「この世界に意味はないんだ」と思っていても、人間として生きている以上は『その「実存」に由来する「喜びや悲しみ」「善悪」「美醜」といった「意味」を無視して生きていくことなどはできない』というのは、ごく当たり前の事実でしかない。
例えば、デイヴィッド・ベネターなどの、「反出生主義」哲学者のことを考えてみたらいい。
「反出生主義」とは、簡単に言えば「この世は、喜びよりも多くの苦痛に満ちているから、ささやかな幸せのために多くの苦しみに耐え忍んで生きていくよりは、生まれてこなかった方が良かったはずだ」という、きわめてリアルで合理的な思想である。
しかし、だからと言って、そうした人に「そう言うのなら、さっさと自殺すれば良い」と言うのは、よくある間違いだ。
なぜなら、彼はすでに生まれ、これまで生きてきており、ささやかながらも「幸福」体験をしてしまったために、すでに「捨てられない大切なもの」も得てしまっているからだ。
つまり、それをぜんぶ投げ捨てて自殺するわけにはいかないのであり、その「最後となるしかない選択(自殺)」自体が、そうしたものを投げ捨てるという「大きな苦痛」を伴うものに他ならないとわかっているからこそ、彼はわざわざ自殺を選ぶこともしにくいのである。
したがって、「反出生主義」の「この世は、喜びよりも多くの苦痛に満ちているから、ささやかな幸せのために多くの苦しみに耐え忍んで生きていくよりは、生まれてこなかった良かったはずだ」という思想には、こうした考えの後に、次のような「ただし書き」が付いていることを読み落としてはならない。
「ただし、最初から生まれてこなかった方が良かったというのと、さっさと死んだ方が良いというのは、イコールではない」
このように、ある「考え」を表明したからといって、それが「すべて」であると捉えるのは幼稚なことだし、そんな単純な話ではないということに感づいていながら、自身の都合で「わざと一面的に解釈する」というのは、人間的に不誠実な、インチキ人間のすることである。
そして、吉成学人さんが、捨てハンドル「令士葉月」さんへのレスでやったのは、まさにこれなのだ。
吉成学人さんは、最初から、擦り寄ってきた捨てハンドル「令士葉月」さんの「下心」を見抜き、端からバカにしているのだが、わざわざ批判して敵を作る必要もないから、このような「いい加減なレス」を返して「あなたには興味はないよ」ということを、暗に示したのである。
ただし、そのためであったとは言え、自分の「ご都合主義」を不用意に露呈させてしまうところが、吉成学人さん特有の「自信過剰(身のほど知らず)」という「愚かさ」なのだ。本当に賢ければ、もっと書きようもあったのである。
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ちなみに、捨てハンドル「令士葉月」さんの前記の記事に、「金子青春(コンビニ人生相談)ガチンコ!!独立奮闘記...」という人がコメントを寄せて、共感を示している。
私は、この人のことは全く記憶にないので、この人に『生きている資格も無い』と言った(書いた)『現役のコンビニの経営者の方』らしき人物とは、私のことではないはずなのだが、しかし、いずれにしろ、人から手厳しく批判されたからといって、相手かまわず、捨てハンドル「令士葉月」さんのような人とでも「傷の舐め合い」をしたがるようでは、おのずと、そのお里も知れよう。
ま、何はともあれ、私に「こき下ろされる」のは「こういう人たち」だという「サンプル」として、ご紹介させていただいた次第である。
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【本稿関連記事】
(2023年3月29日)
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※ 以下は、私による、比較的最近の「こき下ろし(徹底批判)の実例」である。
○ ○ ○ (ネトウヨ関連)
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○ ○ ○ (安倍晋三・エセ保守関係)
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