ウィリアム・フリードキン監督 『クルージング』 : 「歴史的意義」だけでは淋しい。
映画評:ウィリアム・フリードキン監督『クルージング』(1980年・アメリカ映画)
昔から、フリードキンの作品『エクソシスト』(1973年)が大好きだった。
だから、映画のあと、原作小説も読んだし、邦訳本の初版初刷本も探して手に入れ、コレクションに加えた。
それで、2年前に退職したのをきっかけに、ある程度は体系的に映画を見るようになってからは、フリードキンの他の作品も見たいと思い、1953年に公開されたフランス映画、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督による『恐怖の報酬』のリメイク作品である同名作品(1977年)と、アカデミー賞受賞作で、リアルな「刑事もの」映画の名作として知られる『フレンチ・コネクション』(1971年)を鑑賞した。
しかし、この2作は、必ずしも私を満足させてはくれなかった。
リメイク版『恐怖の報酬』は、長いばかりでキレの感じられない大作だった。
公開当時の評判は芳しくなく、しかし最近では「再評価」されるようになったという記事も見かけたが、私としては、公開当時の評判の方が適切なものであったと思う。
クルーゾーのオリジナル版『恐怖の報酬』は、子供の頃にテレビで見ているような気もするのだが、そのうち見てみたい思っている。
『フレンチ・コネクション』は、「今の目」で見ると、「悪くはない」程度の「リアル系の刑事もの」だ。
つまり、公開当時としては「ドキュメンタリー風」にリアルな作品として、映画ファンの目には「斬新」に映ったのだろうが、今となっては、「リアル系」だとは思っても「ドキュメンタリー風」だとまで思う者はいないだろう。
要は、こうした「リアル系」の作品も、その後にたくさん作られたから、今となっては、その長所が霞んでしまい、「映画史的な名作」でしかなくなったのだろう。
フリードキンが本作について、ゴダールの『勝手にしやがれ』の影響を口にしているのだが、いかにも時代を感じさせるのではないだろうか。
そんなわけで、期待して見たものの、2作続けてイマイチだったことから、フリードキンについては、もうこれ以上見たいとは思っていなかったのだが、ある人が、フリードキンには「ハードゲイの世界」を扱った『クルージング』という作品がある、と教えてくれた。「エイズ前のゲイの世界」を描いて、なかなか濃厚な作品だというような話だったので、興味をそそられた。
とは言え、その時は「いつかそのうち」という程度だったのだが、先日より大阪・十三のミニシアター『第七藝術劇場』で、『クルージング』のリバイバル上映が始まったので、この機会に見ることにしたのである。
なぜ私が、この作品に興味を持ったのかというと、私の場合は、「ゲイ」と言うよりも、かつて言われたところの、「ホモセクシャル」の世界について「それなりに詳しい」という自負があったからで、それではお手並み拝見、という気持ちになったのだ。「そんなにすごいの?」という疑い半分だったのである。
要は、映画の出来うんぬんよりも、「ハードゲイの世界」を描いて、本当に「すごい」か否かが重要だったのだが、結論から言えば、それほど「すごく」はなく、言うなれば、「当たり前」でしかなかった。
つまり、『フレンチ・コネクション』と同様で、結局は『クルージング』もまた、「当時としては衝撃作だった」ということであって、今となっては「昔はこういう世界もあったんだね」という感じでしかない。
今となっては、性に関する濃厚な世界というのは、他にも色々あると知られていて、「ハードゲイ」の世界など、まだ「まともな」方の部類だと、情報過多の時代に生きる我々であれば、そう感じてしまうようになったからであろう。
ちなみに、私がどうして「ホモセクシャル」の世界に詳しいのかというと、それは私の好きな作家に、中井英夫、赤江瀑、辻村ジュサブロー、村上芳正といったホモセクシャルの人が多かったからで、彼らホモセクシャルに共通する「過剰で濃厚な美意識」というのが、ホモセクシャルであるということと、どう関連してくるのかという点に興味を持ち、その系統の小説家の作品、例えば三島由紀夫の小説とか、翻訳のゲイ・ミステリとかゲイ文学とかハードゲイ・ポルノ小説などまで、あれこれ読んだからである。
あと、これとは別に、竹宮恵子、萩尾望都、山岸涼子など「花の24年組」と呼ばれた少女漫画家たちによって描かれ、一大ブームを巻き起こした「少年愛マンガ」も、ブームのずっと後になってから面白く読んで、その後に続く「やおい」マンガや小説、あるいは、その延長にある「BL」マンガや小説なども、その初期作品はいくらか読んだし、活字だが、稲垣足穂の『少年愛の美学』や『A感覚とV感覚』といったものも読んでいたのである。
つまり、私の場合は、もっぱらブッキッシュだとは言え、「ホモセクシャル」や「少年愛」の世界については、人並み以上の知識は持っていたので、では本作『クルージング』はどの程度のものなのか、いささか上から目線で、そう思ったのだ。
で、その結論としては、はっきり言って本作『クルージング』は、私がかつて読んだ翻訳「ハードゲイ・ポルノ小説」に比べれば、全然どうということはなかった。
なにしろ『クルージング』は「ポルノ映画」ではないのだから、そこに注力した作品というわけではなく、あくまでも、その世界を「舞台」にした、「ミステリ作品」だったのである。
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本作の「ストーリー」は、至極シンプルである。
つまり、要は「連続殺人に関わる、潜入捜査官のお話」であり、ただ、その背景となる世界が、従来のような「犯罪組織」ではなく、当時としては「隠された裏文化」であったところの「ハードゲイの世界」だった、というに過ぎないのである。
そこだけが、ことさらに「話題」となり、
といったことから、ある種の「伝説」と化していた作品だと、そう言っても良いだろう。
というように、現在のように、ゲイ・カルチャーが「日陰者」ではなくなってしまえば、「ハード・ゲイの世界」を描いているからどうだといったことは、良くも悪くも、まったくなくなってしまい、単なる「古い珍品」扱いになったのだ。
むしろ、私の印象ではあるけれど、そうしたゲイ・カルチャーが社会公認のものになったからこそ、かつては感じられた「虐げられた者の持つ、暗い情念の力」のようなものが、彼ら自身からも必然的に失われて、単なる「変わった趣味の人々」でしかなってしまったという、そんな印象が強い。
つまり、「当たり前」になることは大いに結構なことなのだけれど、しかし、それで「失われるもの」も確かにある、ということだ。一一かつては「飢えた狼」だったものが、今や「太った豚」になって、「良かったですね」という話なのである。
だがまた、人間の「飢え(欲望)」というものは、決して満たされはせず、だからこそ、自分たちが多少救われたところで「まだまだだ」という話にはなっても、「次はあの人たちを救ってあげる番だ」という話には、決してならないのだ。
そんなわけで「舞台としてのハードゲイの世界」は、今となっては、別段どうということもないので、「ミステリ」としてはどうなのかというと、一一まあこれも「今となっては」どうってことはない。
要は、この「パターン」も、その後にいろいろ作られているから、「いま見ると」かえって「まさかそのパターンとは思わなかった」くらいに、使い古されたものだったのであり、その意味では「裏の裏をかかれた」結果となってしまったのだが、それで楽しめるのかといえば、無論、楽しめない。
「その手は陳腐だから、もう誰もつかわないだろう」と思っていたことを、昔の作品だから、たぶん「先駆的にやった」作品のひとつだったのだろうと、そんな評価になったのである。
これは「本格ミステリ」の世界で顕著なことだが、「誰もやったことのないことをやる」というのは、たしかに「その発表当時としては斬新」なのだが、すぐに模倣作(改変作)が作られて、そのアイデアは陳腐化してしまうから、のちの人間がオリジナル作品を見ても、公開当時のような面白さは感じられないという難問である。
もちろん、それで良いと覚悟して作るというのも当然ありなのだが、ただ「発表当時としては斬新だった、歴史的な意義を持つ作品」みたいな評価になってしまうのは、やはり淋しくもある。
つまり、理想で言えば、「斬新なアイデアを投入しつつ、しかし、全体としては古びない作品」というのを目指してほしいし、そうなると、やはり最後は「人間を(深く)描く」ということが、エンタメ作品においても重要となるのではないだろうか。
無論これは、言うほど簡単なことではないとしてもである。
(2024年11月24日)
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