磯村健太郎・山口栄二『原発に挑んだ裁判官』 : 裁判所の〈闇の奥〉へ
書評:磯村健太郎・山口栄二『原発に挑んだ裁判官』(朝日文庫)
人間とは、神にも近い崇高な存在にもなれれば、虫けら以下の卑怯な存在にもなれるという、極めて振れ幅の広い存在である。
それは、人間が他の生物とはちがい、高度な知能を発達させたからであり、それをどう使うか、つまり、他者のためにも使うか、それとも自分のためだけに使うか、で違ってくる。知能とは所詮、道具だからだ。
それは、典型的な知的労働者たる、裁判官とて同じである。
本書は、国策たる原発行政に関する裁判において、国に対して不利あるいは有利な判決を下した裁判官に対して(退官後に)行ったインタビューと、それを受けての、日本の裁判所の問題点を紹介した、極めて重い1冊だ。
本書の「証言」や「記録」の重要性については、他のレビュアーが指摘してるので、ここでは繰り返さず、私が気づいた「ある違和感」について、以下に指摘しておきたい。
それは、国に対して不利あるいは有利な判決を下した裁判官たちが、退職後のインタビューであっても、一様に「(私は)圧力のようなものは感じなかった」と語っている点である。
「国策に逆らう判決を下せば、とうぜん官吏として不利益を被りかねない」というのは、誰にだって推測しうることだし、それは私企業の会社員であろうが公務員であろうがまったく同じで「とうぜん裁判官だって同じだろう」と、多くの人はそう考えるだろう。だからこそ、彼らの証言に対し「ホントかな?」という疑いを抱くのは、ごく自然なことなのだ。
たしかに、国に不利益な判決を下した裁判官なら、そういう圧力を感じないほどの図太い神経を持っていた、と考えられなくもないのだが、しかし、そんな無神経な人が「弱者の立場を推し量って尊重する判決」など書けるものだろうかという疑問も湧く。
無論、国に有利な判決を書いた裁判官の方なら、圧力の存在を認めるのは、自分がそれに屈して不適切な判決を下したのだと認めるのも同然なのだから、とうぜん圧力の存在は認めないだろう。だからこそ、退職後には「自分の考えは甘かった(あの当時としては仕方なかった)」という反省を語ることも「身分を保障された」後だからこそ、出来ることだとも言えよう。
したがって、この相反する判決を下した裁判官たちが、そろって「圧力は無かった(感じなかった)」と語ることには、どうしても拭いきれない「不自然さ」が残った。
こうしたインタビューを本書前半で読んだ上で、第四章「心理的重圧の壁」における、元裁判官で実務法学が専門の西野喜一元教授の、常識的かつ説得的な説明を読むと、「やっぱり、そうだよなあ」と得心させられる。
この説明のポイントは、国に不都合な判決を出すことで不利益をこうむる可能性が高まるのは、なにも出世したい裁判官だけではない、ということだ。
「人事」というものがあり、いわゆる「左遷人事」というものが現にある以上、「すべての裁判官」に不利益をこうむる可能性がある。これは「制度的圧力」以外の何ものでもないのである。
むろん、役所にも民間にも「人事」はあるのだが、いずれにしろ、人事権者に「左遷人事はあるのですか?」と尋ねて「あります」と答えるような、正直な人事権者は存在しない。
「左遷人事」があると証言するのは、いつでも左遷される可能性がある「被害者」側であるというのは、社会人ならだれでも知っている常識であろう。
西野氏の解説は、このようなリアルな現実に合致していて常識的なものであり、これを「人事に関しての、悪意ある解釈」だとすることの方が、よほど非現実的で無理のある解釈だと言えよう。要は「社会人としての常識」の問題なのである。
そして「裁判官の世界にも、制度的な圧力はある」という常識から顧みるならば、国に有利な判決を下した裁判官はもとより、国に不利な判決を下した裁判官までもが、その退職後でさえ「圧力は感じなかった」と証言しているところに、裁判所の「真の闇(闇の奥の本体)」が存在すると見ていいのではないだろうか。
国に不利益な判決を下した裁判官が、その退職後でさえ語り得ない、口を噤まざるを得ない「裁判所の闇の奥」。
そこにどのようなものが伏在しているのか、私は是非とも知りたいと思うし、ジャーナリスト各位には、さらに踏み込んだ取材を期待したいと思う。
初出:2019年7月20日「Amazonレビュー」
(同年10月15日、管理者により削除)
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