アンゲラ・メルケル 『わたしの信仰 キリスト者として行動する』 : 「メルケル読みのメルケル知らず」
書評:アンゲラ・メルケル『わたしの信仰 キリスト者として行動する』(新教出版社)
一読して、ため息が出た。彼我の開きの、なんと大きいことか。
もちろん「訳者あとがき」で『こうした多くの政治的課題は日本にも当てはまるところだが、ドイツでは社会的市場経済を重視して共生と福祉を行き渡らせようとしており、彼我の違いを感じずにはいられない。』(P247)と書かれているとおりで、要は、ドイツの首相であるメルケルとわが国の現首相(安倍晋三)との、政治家として(あるいは、人として)の「出来の違い」という話だ。
どう違うのかを、ここで縷々説明する必要はないだろう。メルケルの倫理的信念と政治家としての実存主義的行動力は、間違いなくそのキリスト教信仰に支えられたものであり、この講演集に収められた言葉を見てもそれは明らかだ。彼女の言葉には借り物ではない「熱いハート」が息づいており、官僚の作文を国会で読み上げるだけなのに「云々」を「でんでん」と読んでしまうような、どこぞの首相とは、すべてにおいて比べるのも愚かなほどの懸隔がある。
しかし「国民の水準以上のリーダーは生まれない」とも言うから、私たち日本人は、わが国の首相をバカにしたり、他国の首相を絶賛することだけで、自身が免責されたような気分になっていてはならない。それでは、まさに「安倍並み」あるいは「安倍相応」ということになってしまうからだ。
本書を読む読者の大半は、まちがいなくキリスト教徒だろう。そしてそういう読者の多くは、メルケルという現代の優れた政治的指導者が、自分と同じ信仰を持っていることを誇りに思い、彼女を絶賛することを惜しみはしないだろう。そのことで、自身の信仰の価値までが保証されると、勘違いしがちだからだ。
メルケルという人の「強靭な倫理」を支えているのがキリスト教信仰であるというのは、間違いない事実だろう。だが、キリスト教信仰が、その信者の誰に対しても「強靭な倫理」を与えるものでも支えるものでもないというのも、また無視できない事実だ。
現に、キリスト教信者の政治家はいくらでもいるけれど、皆がメルケルのようであるわけではないし、キリスト教信者のすべてがメルケルのようであるわけでもないのだ。そこを忘れてはならない。
たしかに、メルケルも『神は人に作用する火なのです。この作用する火を、わたしたちも(※キリスト者の誰もが)自らの内に持っているべきだと思います。』(P189)と言うとおり、「信仰」は力を持つ。しかし、その力は必ずしも「正しい力」を持つわけではない。その信仰の故に、多くの人を死にいたらしめたという悲惨な歴史を、他宗教はもちろん、キリスト教自身が何度も刻んで来たという事実は、メルケルも指摘しているとおりである。
ならば「信仰の力」とは何か。
私はそれを「実効性のあるフィクション」であり、ある種の「増幅器」だと考える。つまり「良い力」も「悪い力」も増幅してしまう装置だ。人を人以上のものにしてしまうほどの力だ。
メルケルの場合は、信仰によってその優れた資質が増幅強化されることにより、稀有な政治家としてのメルケルになった。だが、良き資質を欠いた者が下手に信仰を持てば、悪しき部分が矯められるばかりだとは限らない、というのが、歴史の現実なのである。
本書のレビューで、メルケルを絶賛し、本書を絶賛するキリスト者は、はたしてメルケルがここで言っていることを、どれほど理解しているだろう。
信仰に自信があるのなら、外へ出ていって「他者」と関わりを持ち、忌憚のない討論をして、自身の信仰を鍛え上げ、検証できるはずだ。しかし、そうではなく、手前味噌な「身内ボメによる自画自賛(マスターベーション)」に満足して、小さな「泡」のなかで自足していないだろうか。
私は、最初に「国民の水準以上のリーダーは生まれない」という話をしたが、この「国民=日本国民」を「日本のキリスト者」と入れ替えても、なんら間違いではないと思う。
私は「無神論者」であるけれども、徹底した無神論者は下手な信仰者などより、よほど求道者であり信仰者的であろうと思う。だからこそ、このように討論的なのだ。自身の信仰に自信があるからこそ、他者(信仰者)との討論を怖れはしないのである。
プロテスタントでありながら、メルケルはカトリックにも十二分に配意している。それは西欧世界においてカトリックは無視できない存在だという政治家的判断だけではなく、キリスト教の本質を、その「形式」ではなく「精神」つまり『キリスト教的人間像』において捉えているからであろう。
また、そんなメルケルであるからこそ、やはり「人(実存)」を見ている。本書の編者フォルカー・レージングは「編者解説」で次のように書いている。
メルケルにとって、ベネディクト十六世が所詮は「とびきり頭のいい著名な神学者」でしかなかったのに対し、フランシスコは軍部独裁政権下で「人のため教会」を守り抜いた「倫理的かつ現場の人」だったのだから、政治家であるメルケルが親近感を抱くのは当然だし、そんなフランシスコが南米からヨーロッパにやってきたという事実は、メルケルにはフランシスコが「まれびと」だと感じられたことだろう。
ともあれ、日本のキリスト者は、メルケルの言うような『キリスト教的人間像』に合致した存在であろうとしているだろうか。すなわち「開かれてある」ことの勇気を、信仰の勇気を示せるだろうか。
メルケルを絶賛するだけで自足するようなキリスト者は「頭でっかちの軽信者」でしかなく、「メルケル読みのメルケル知らず」ということにはならないだろうか。
初出:2019年2月12日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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