斉加尚子・毎日放送映像取材班 『教育と愛国』 : 捨て去られた〈人間〉教育
書評:斉加尚子・毎日放送映像取材班『教育と愛国』( 岩波書店)
橋下徹をリーダーとする「維新の会」が、大阪の地を舞台におこなった教育改革とは、世界に打って出ることのできる、国際水準の人材(エリート)を育てるための教育である。つまり「勝者」を育てるための教育であり、「数字」として結果の出せる教育だ。
当然、そこでは「敗者」は無価値なものとして、片隅に追いやられ、やがては足手まとい扱いにされて排除される。
しかし、憲法が保証する「教育を受ける権利」とは、すべての国民に等しく保証されたものであって、ごく一部のエリートのためのものではない。
それなのに「勝てば官軍」「力が正義」だと、弱者を顧みない、新自由主義的な政治主導の成果主義教育改革が、庶民の街である大阪の地をながらく席巻し、大阪の教育現場を疲弊させている。
家庭事情を含めた生徒たちの個々の事情や個性などは、いっさい考慮されない。そうした細やかな事情など、全国一律の、あるいは世界的な統一テストの「数字」には、反映されないからである。
つまり「成績の良くない生徒」というのは、邪魔でしかないのだ。
だが、そう公言することはできないので、ではどうするか。一一 教師の関心をそうした生徒から引き離し、全体の成績アップへと向き変えさせるのである。
「テストの成績結果」で教師を評価して「成績の出せない教師は、ダメ教師」だと勤務評定し、お前を排除するぞと恫喝することで、教師たちを否応なく「成績の良くない生徒」たちから引き離すのである。
もちろん「成績の良い生徒」をさらに延ばしてやるのも教師の仕事だが、しかし「成績の良くない生徒」に「学びの喜び」を教え、生徒の可能性を開き、延ばしてやりたいと考えることこそ、教師の教師たる「思い」ではないだろうか。
少なくとも、憲法では『その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。』と明記しているのだ。「成績の良くない生徒」を放置しておいて良いなどということは、けっして許されないはずである。
しかし、橋下徹をリーダーとした「維新の会」が、今も続けているのは、こうした「教育解体」なのである。
このような維新政治によって、大阪の教育現場はじわじわと荒廃している。
意欲のある教師が、その意欲の故にもっている「教育への理想」を踏みにじる「政治の介入」によって、意欲ある教師たちは、心ならずも大阪の教育現場から去っていくことになる。
では、ここまでして、つまり「成績アップ=国内・国際競争力を付ける」ために、教師を締めつけ、子供たちを否応なく駆り立てた結果が、どうであったのか。
最新(一昨日)の新聞は、こう報じている。
もちろんこれは、元市長が「一人で責任を取る」という話ではない。
言うまでもなく、橋下徹、松井一郎の後継者である吉村洋文が、このような「教師への圧力」政策を新たに打ち出したのは、橋下の進めたの教育改革が、まったく成果を上げていないからである。
そのテコ入れとして「テスト結果を教師のボーナスに反映」という手法が再提案されたのだ。
そして「それでも大阪市の成績は上がらなかった」ということなのだが、その原因が奈辺にあるのかは、先のメールにもすでに明らかなのではないだろうか。
実際、吉村のこうしたやりかたを、次のように分析する向きもある。
そう。「橋下徹以来の、維新の会主導の教育改革」が、失敗に失敗を重ねているという事実は、(多くの府民が忘れつつある)「民間からの校長登用」問題だけではなく、「テスト成績」においても「数字」としてハッキリと出ている事実なのだ。
その明白な「失政」を、自ら反省検討することもなく、現場の教師に責任転嫁して締めつけをさらに強め、それでも結果が出ない。
だから、府知事に転じたとは言え、制度改革の指揮者であった吉村が、その失政の責任をとって自分のボーナスを返上するくらいのことは、倫理的には当たり前のことでしかなく、恥知らずにもことさら大袈裟に「ボーナス返上」などと自家喧伝するようなことではないのである。
こんな上司の下では、教師たちのモチベーションが低下するのも、当然すぎるほど当然だろう。
大阪の教育は危機に貧している。
大阪に生まれ大阪に育った者の一人として、同じ大阪の大人たちに、「維新の会は、大阪の教育を縊り殺す」と断じた上で、「無知は罪である」と言っておきたい。
最後になったが、逆風の中、勇気ある報道をつづける著者とそのクルーたちの信念と努力に、心よりの賞賛を送りたい。
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【追記】(2020.01.24)
ひさしぶりにレビュー欄を見て、びっくりした。
とても本書を読んだとは思えない、露骨な「荒らし」レビューが激増していたからである。
維新の会のファンには、こういう人が多いのか、あるいは、投稿が2019年の11月から12月に集中していることからもわかるとおり、どこかで扇動が行われた結果なのか(そう言えば、あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」展への、電凸もこの時期か?)。
いずれにしろ、とても興味深い「教育行政の闇」の一面である。
初出:2019年8月2日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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