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期待水準の問題:高村薫・武内崇・ネット言論

旧稿再録:初出「アレクセイの花園」2005年3月17日】

※ 再録時註:すでに再録ずみの、『ローレライ』論「高村薫」論になどに関連する文章)

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今日は、いくつかの話題について書かせていただこう。

(1) 高村薫の『晴子情歌』(新潮社)を読了した。
拙論「見えない情炎――高村薫論」にも書いたとおり、この作品は、高村薫の今後を占う、画期的な作品だったのだが、なかなか評価のむずかしい作品でもあった。

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まず言えることは、『レディー・ジョーカー』までの高村作品を支持してきた多くの若い女性ファンは、この作品で示された「高村薫の新しい方向性」には満足しないだろうし、その意味で、そちらへ進んでいくかぎり、高村薫は二度とベストセラー作家にはなれないだろう、ということである。

『晴子情歌』は、決して悪い作品ではないものの、力作のわりには傑出したところがなく、「うまい」とは評価できても「すごい」とは評価できない、良くも悪くも「今の高村薫」をそのまま体現した作品だと言えよう。

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(※ 2019年刊行の対談書)

編集者の松田哲夫は、本書の刊行当時、『読売新聞』(2002.6.23)の「評判記」のコーナーで、本書を取り上げ、こう結んでいる。
『ところで、ある編集者が、「帯コピー、僕だったら『子宮の昭和史』にする」と話していた。なるほど、そうかも知れない。』
一一私にも、この印象は、わかるような気がする。

本作は、主人公・晴子の、息子彰之へ宛てた手紙のパートと、彰之の視点に近いところから、彰之と晴子を三人称で描いたパートが、交互に配される構成となっているのだが、本書の世界を覆って(支配して)いるのは、間違いなく「晴子という女の時間」なのだ。
そしてそれは、「激動の昭和史」を背景としてなぞりながら、どこか暗い場所から始まって暗い場所へと帰っていく、「一人の女の一生」であり「人間の一生」の物語。一一そんな印象なのである。

息子彰之は、長文の手紙で自身の来し方を語る母について、あれこれ考えを巡らせるのだが、単純そうに見える晴子という女にも、どこか他人の理解をスルリとすり抜けてしまう捕らえどころのなさがあり、結局、本書の結びとなる彰之の言葉は『俺はひとりだ。母もひとりだ。一一お母さん。』ということになる。

そんな本作からは、人間の一生というものが、どこか暗いところから始まり、その過程で多くの人と交わりを結びながらも、結局はお互いが別個のひとりひとりとして並走して、やがてはひとりひとりそれぞれに暗い場所に帰っていく一一そんなもののように描かれており、これはこれで、人間の一生のある側面を、的確に描き出したもののように感じられはした。

ただ、引っ掛かるのは、高村自身、自分をモデルにしたと公言する晴子が、大変に「自由闊達で、(男性にとって)魅力的な女性」として描かれている点である。
私の受けた印象から忌憚なく言えば、晴子というのは、高村の願望が強く反映されたキャラクター(=斯くありたかった「私」)であり、この物語を書きながら高村は「もうひとつの望ましい人生」を追体験していたのではないか。一一そのように感じられた。

これまでの高村作品は、自分のなかの抑圧された部分(ルサンチマン)を、男性キャラクターに仮託することで、それを屈折的に解放し、それが物語の推進する「暗く固い」力強い息吹きとなっていたという印象があった。
ところが、『晴子情歌』では、高村の願望が、ほぼストレートな形で「女性キャラクター」に置き換えられた結果、これまで見られた力が、どこかで削がれてしまったかのような印象を受けるのだ。言うなれば、『晴子情歌』からは、作家高村薫の「ハングリー精神」の減退が感じられたのである。

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なるほど高村薫は力量のある作家だから、それなりに「人間」を描いていくことは可能であろう。
しかし、拙論でも書いたとおり『作者個人を上まわる価値を有する著作こそ、優れているといわれていい。』(榎並重行『危ない格言』)という意味では、『晴子情歌』は、これまでの作品にあった何かを失っており、その意味で「期待はずれ」だと言えるのである。


(2) 笠井潔の講談社文庫版『ヴァンパイヤー戦争』第9巻が刊行された。
表紙は、TYPE-MOONの武内崇による、長い金髪の女性のイラスト。やや気の強そうな笑みを浮かべた、裸の女性の腰上の立ち姿で、正面に向かい差し招くように両手を突き出している。

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帯には、
『甘美な抱擁が世界を救うのか。/運命の男と女。/炎の狼の化身と地球霊の化身。/ようやくめぐり合った二人に/過酷な試練が!』
とあるので、この女性はキキ(地球霊の化身)かとも思われるが、正確なところわからない(口絵のキキの髪は、肩までだから)。

それにしても、元マンガ部員としてちょっと無視しかねるのは、この表紙絵の人体デッサンの不確かさである。
絵柄が今風であることを差し引いたとしても、首から肩にかけてのラインのぎこちなさ、差し出された両腕の遠近感の無さ、両腕に差し挟まれる両の乳房の形状、両手の立体感の無さ、腹から腰にかけてのラインのぎこちなさ…。
彩色の美しさで、絵として見られはするものの、ディフォルメされた絵柄とはいえ、もうすこし何とかならなかったのか。
まあ、売れるか売れないかという観点からすれば、デッサン力の有無など、些末な問題なのではあるが……。


(3) さて次は、先日(3/9)書いた、映画『ローレライ』評「『ローレライ』一一果たし得なかった「神殺し」の物語」に文章を引用させていただいた、ブログ『骨董と偶像』の管理人framy氏との、その後のやりとりについてである。

あちらでのやり取りを、私が、こちらでも独自に記録して発表しようとしたことから、framy氏との間で若干のトラブルとなり、先日(3/14)「一歩踏み込んだ先の光景」としてこちらに引用紹介した部分までは、なんとか転載のご許可をいただけたものの、それ以降のやり取りについては、転載のご許可をいただけなかった。

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り取りの詳細は、前記リンクで、直接あちらをご覧いただくとして、一一なぜ、framy氏が、そこまで頑なに「転載」を拒んだのか? それが私には、とても興味深かった。

で、私の理解というか、見解をご紹介すると、一一結局のところframy氏は『視聴者=特権的な批評者=享受者、の立場』に徹したかった、ということなのではないだろうか。
つまり、自分一人で他人の作品についてあれこれ書き語っている分には、自分は『視聴者=特権的な批評者=享受者、の立場』でいられるが、傍に比較対照物が置かれた瞬間、今度は自分が「批評され・評価される対象」になってしまいまうと、そのことに気づいた。だから、そんなものは「できるかぎり人目に曝したくない」と、そう考えたのではないだろうか。

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