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岩井俊二監督 『スワロウテイル』 : うち捨てられた人々への愛と憧れ
本作は「評価の分かれる作品だ」と評されることが多いようだ。「Wikipedia」にそうあるし、「映画.com」のカスタマーレビューでも、そう書いている人がいる。
では、どうして「評価が分かれる」のかといえば、私の見たところでは「話がわかりにくく、登場人物にも感情移入がしにくい」といったことがあるだろう(なお、岩井俊二の映像美を褒めるだけなら、それが理解できていない者でも、識者の口真似で褒めることはできる)。
私も、本作を見ている最中は、いまいち「入れない」映画で、ちょっと困ってしまったのだが、見終えた後になって「悪い映画ではなかったな」と感じるようになった。
どういう部分でそう感じたのかといえば、それは本作『スワロウテイル』が、「虐げられた人たちへの愛と共感の込められた作品」だと、そう感じられたからだ。
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本作が「わかりにくい」理由は、まず「群像劇」であること。ひとつのグループを中心にした世界が描かれてはいるものの、一人の主人公を追っていく通常の物語のような、わかりやすい「起承転結」は無い。わかりやすい、パッピーエンドでもバッドエンドでもない。
また、焦点の当てられる人物が少しずつズラされていくかたちで、主な主人公として5人弱の人物が描かれるのだが、彼(女)らの「性格」が、いずれもわかりにくい。平たく言うと、何を考えているのかがわかりにくく、類型的ではない。彼(女)らは、自分が何を考えているのかを自ら語ることはしないし、彼(女)らの内面がわかりやすく描写されることもないのだ。
だから、観客は、それらの主人公たちに感情移入しずらいし、そのせいで「感動」もしにくいのである。
物語への「感動」というのは、多くの場合、登場人物への「共感」が前提となる。つまり、「わかるわかる」という部分がなければならないし、だから主人公に対して「悲しいよね」「つらいよね」「嬉しいよね」といったかたちで、観客の感情が共鳴共感し、おおむねそれが「感動」と呼ばれる。
一一だが、本作の主人公たちには、そういう「お易い共感」を拒否しているようなところがある。
そう。彼(女)らは、自分たちの喜びや悲しみ、そして愛を、他の人に「理解」してもらおうとか、ましてや「承認」してもらおうなどとは思っていない。
ただ、自分が、嬉しいかったり、悲しかったり、つらかったりすることが大事なのであって、それを見も知らぬ他人に理解してもらおうなどとは考えていない人たちなのだ。だから「説明」しようとはせず、ただ、その時々の感情をごく自然に表出するだけ。だから、わかりにくい。
本作の「あらすじ」は、次のとおりである。
『「円」が世界で一番強かった時代。一攫千金を求めて日本にやってきた外国人達は、(※ 自分たちが住み着いたその)街を「円都(イェン・タウン)」と呼び、日本人達は住み着いた違法労働者達を「円盗(イェン・タウン)」と呼んで卑しんだ。
円都の娼婦を母に持つ少女は、唯一の肉親である母を亡くす。彼女は行き場がなくし、母の同僚の娼婦達にたらい回しにされる中、娼婦グリコの元に引き取られる。胸に蝶のタトゥーを彫り美しい歌を歌うグリコは、それまで名前がなかった彼女に「アゲハ」の名前を与える。グリコもまた、「円」を夢見て上海から日本にやってきた円盗だった。
アゲハはグリコの紹介でランが営む何でも屋「あおぞら」で働きはじめる。ある雨の夜、アゲハはグリコの客の須藤に強姦されそうになるが、(※ 「あおぞら」の同僚の黒人)アーロウが須藤を窓の外に投げ飛ばす(※ 正しくは、アーロウのパンチで吹っ飛んだ首藤が、窓を突き破って、階下の道路に落ちてしまう。そして)。須藤は(※ 通りがかった)コンクリートミキサー車にひかれて死亡。グリコたちは須藤の遺体を山に埋めるが、須藤の体内からカセットテープが出てくる。テープには(※ フランク・シナトラの歌う)「マイウェイ」が録音されていたが、ランの調べで1万円札の磁気データが保存されていることが判明。グリコたちは千円札に磁気データをプリントし、両替機にかけて大金を手にする。
フェイホン、グリコ、アゲハはイェンタウンを出てダウンタウンでライブハウス「YEN TOWN CLUB」を開業。フェイホンはグリコのバックバンドを募集し、グリコをステージで歌わせる。ライブハウスは繁盛し、グリコはレコード会社にスカウトされる。グリコは日本人として「YEN TOWN BAND」でデビューし、たちまちスターとなるが、フェイホンは不法滞在で収監されてしまう。アゲハは弁当を作ってフェイホンの元に通い、グリコの活躍を語る。ライブハウスは人手に渡る。
須藤の事件を目撃していた(※ 売春婦仲間の)レイコが(※ グリコがスターになった後、そのネタをスキャンダルとして)雑誌記者の鈴木野に密告する(※ 売る)。(※ カセットテープの行方を追って)須藤を探す(新興の中国人マフィアグループ)上海流氓が(※ カセットテープを持っているだろう)グリコを狙う。(※ 一方)アゲハは(※ 同年代の仲間の少年)ホァンたちが(※ たまたま)入手したドラッグを(※ 本物が否かを確認するために、自分に)注射して意識を失い、偶然(※ 通りがかり、ホァンたちに助けを求められた)上海流氓のボスのリョウ・リャンキに助けられ、阿片街の病院で命拾いする。リャンキは日本で生き別れた妹(※ が、人気歌手になったグリコだと、その病院に貼られていたポスターで知り、そ)のグリコのことを語る。後日、アゲハはこの病院でアゲハ蝶のタトゥーを(※ グリコと同じように、胸に)入れる。
グリコと鈴木野は「あおぞら」に逃げ込むが上海流氓に囲まれる。ランの策略で追っ手は壊滅。アゲハはライブハウスを取り戻すため再び偽札を作るが、物件を買い戻すことはできなかった。フェイホンは偽札使用の現行犯で逮捕され激しい尋問の翌日、拘置所で死亡する。
アゲハはフェイホンの遺体を引き取る。ランはグリコやアゲハの立ち会う中、フェイホンを火葬(※ 野焼き)する。アゲハは偽札で交換した札束を火の中に投げ入れる。
(※ 後日)リャンキは車の中から(※ 通りがかった)アゲハを見つけ(※ 元気にしてるか、と)声をかける。アゲハは「マイウェイ」のカセットテープを渡してその場を去る。』
(Wikipedia『スワロウテイル』)
見てのとおりで、本作の主たる主人公である、フェイホン(三上博史)、グリコ(CHARA)、アゲハ(伊藤歩)の3人は「違法労働者」であり、言うなれば、多かれ少なかれ「犯罪者」である。
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フェイホンは主に窃盗と詐欺、グリコは売春、アゲハは、フェイホンやランたちの、かなりいかがわしい仕事を手伝っている。
また、本作の準主役的な人物として無視できないのが、中国人マフィア「上海流氓」の若きリーダーであるリョウ・リャンキ(江口洋介)で、彼は金儲けのためなら競合する日本のヤクザたちを平気で殺せる、冷徹な「犯罪者」である。
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さらに、出番こそ多くはないが、フェイホンたちの仲間で、無口ながら強烈な存在感を示す「謎の男」ラン(渡部篤郎)も、仲間のシェンメイ(山口智子)と、なにやら慣れた様子で、スナイパーとして暗殺を敢行しようとしているシーンが描かれたり、カセットテープに隠された1万円札の磁気データを、それと解析してしまうなど、まともな世界の住人でないことがわかるように描かれていて、「Wikipedia」では、本作の小説版の描写と合わせて『とある諜報組織に所属する殺し屋』だと紹介している。
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つまり、彼らはいずれも、多かれ少なかれ「犯罪者=法の外に生きる人間=アウトロー」なのである。
だから、彼らは、私たち「法の内側で生きる人間」に、自身のことを語ろうとはしない。説明して、仮に「わかるよ」と言われたところで、では、私たちが彼らと同じような「境遇」に生きる気など端からないのを、彼(女)らはよく知っているからだ。
私たちは、あくまでもその、「地位と安全」が法的に守られた「観客席」から、彼らに「感動」をもらおうとしているだけなのだ。だから彼らは、そんな「お見物衆」から、言葉だけの理解を得ようとは思わない。
「私がこうなってしまったのは、このように虐げられた人生を送ってきたからだ」などと説明する気はない。それで「わかるよ。可哀想に」などと言われ、涙を流されて、「消費」されることなど、まっぴら御免なのである。
だから、彼らは「自らを語らない」し、語らないでも分かり合える、似たような境遇の者どうしで助け合いながら生きている。そこだけが、彼らが「自然」でいられる場所であり、偽善を強いられることのない場所だからなのだ。
さて、本作の冒頭は、空撮による「灰色の街」の風景が映されて、そこに「あらすじ」の冒頭にある、
『「円」が世界で一番強かった時代。一攫千金を求めて日本にやってきた外国人達は、街を「円都(イェン・タウン)」と呼び、日本人達は住み着いた違法労働者達を「円盗(イェン・タウン)」と呼んで卑しんだ。』
という(もう少し詳しい)ナレーションが、女性の声で重ねられる。
ここを見て、大阪に生まれ、そのまま今も大阪在住の私は、当然のことながら、大阪にある「在日朝鮮人たちの街」や、戦後の「アパッチ族」のことを、直ちに思い出した。
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「在日朝鮮人たちの街」というと、私がすぐに思い出すのは、大阪市生野区に所在する「鶴橋」だ。ここには在日の人たちが多く居住しており、私が若い頃には、(警察の)先輩たちに連れられて、この街に多数存在する焼肉屋に行ったりした。
鶴橋の焼肉とキムチは、「本場」のものとして、安いし美味いということだったのであろう(今のように、リーズナブルな焼肉のチェーン店など無かった)。
そうした中で、今も忘れられない思い出がある。
それは、在日の人が経営する、鶴橋の、とあるしもた屋風の焼肉屋の座敷で、先輩たちと焼肉宴会をした際、その店では、今では当たり前の紙製エプロンをつけるのではなく、新聞紙の真ん中に穴を開けて、それを頭からスッポリかぶって、エプロン代わりにした、という思い出だ。
そして、その時、参加した先輩の中に、当時四〇代前半くらいだったろうか、ちょっと常識に欠ける変わり者がいて、その先輩が、焼肉宴会を終えた際に、店の女将である在日のおばさんに対して、「うちでな、犬を飼うてんねんけど、そいつに食わせたいから、いらんようになった骨とかアラみたいなもん、もらわれへんか」などと言い出したこと。
焼肉の中には、いわゆる「ホルモン」が含まれているとは言っても、それでも骨など、商品として客に提供できない部分はあるだろう。だが、焼肉屋に行って、そういう捨てる部分を「捨てるのなら、くれ」などというのは、いかにもケチな話だし、何より失礼な話だ。
店の女将である在日のおばさんも、いかにも迷惑そうに、在日一世らしい朝鮮語訛りで「うちには、そんなものはないよ」と拒絶していた。
常識を欠いたこの先輩ならば、もしかすると日本人が経営する焼肉屋でも、同じようなことを言い出しかねなかったのではあるが、しかし、先輩のこうした無作法な物言いの中には、幾ばくかの「差別」意識があったというのも、否めないところであった。「朝鮮人のオバハンに対してなら」言ってもかまわないという甘えと傲慢が、幾らかは確かにあったと感じられたのだ。
それで、一緒にその店に行っていた同僚たちは、私も含めて恥ずかしくなり、その先輩よりも古株の先輩たちは「そんなもんあるか。よそで買え。もう帰るぞ」などと、口々にそう言って、その先輩の失礼な言葉を打ち消したのである。
一方の「アパッチ族」のことを知っているのは、今では相応の年齢に達した大阪人か、年配の読書家に限られるのかも知れない。
『アパッチ族
戦後、(※ 大阪砲兵工廠の)焼跡地は不発弾が多く危険だという理由で放置され、約20年近く更地のままとなっていた。
昭和30年から昭和34年にかけて、夜間になると川を越えて(※ 旧大阪砲兵工廠の)敷地内に不法侵入し、鉄くずを回収しては持ち去って売却する在日韓国人、在日朝鮮人らがいた。彼らと警察の攻防を新聞は「アパッチ族」と書き立てた。「アパッチ族」の呼称は、彼らが警察、守衛らから身を守るための合図が当時封切されていたアパッチ族の映画での所作に似ていたためである。朝日新聞夕刊は「アパッチ族」と題した連載ルポルタージュを昭和33年7月31日から同年8月2日に掲載した。警察、守衛との攻防で多数の犠牲者を出したことと、法律的には窃盗団であることから、世間からの賛同も集められず、昭和34年8月にアパッチ族は解散となった。本田良寛はアパッチ族解散に尽力している。
開高健が1959年(昭和34年)発表した小説『日本三文オペラ』は、当時のアパッチ族たちの生活を描いたもので、有名になった。小松左京も1964年(昭和39年)に発表した初めての長編SF小説『日本アパッチ族』で、当時まで残っていた跡地をイメージし社会と隔離した地、「追放区」として登場させている。実際にアパッチ族の一員であった在日朝鮮人作家の梁石日も1994年出版の自著『夜を賭けて』に当時の自身の経験を元に書いている。2009年9月に世田谷パブリックシアターで初演された映画『ワルシャワの鼻』(生瀬勝久作/出演、明石家さんま主演)も、このアパッチ族を描いたものである。』
(Wikipedia「大阪砲兵工廠」)
私は、ここで紹介されているいずれの作品も鑑賞していないので、それらの中身については確たることは言えないのだが、ただ、若い頃に、小松左京のSF小説を読もうとして、小松のデビュー作が『日本アパッチ族』という妙なタイトルであることを知り、「これはどういう作品なのだろう」と、ちょっと調べたことがあった。その結果、大阪の戦後風俗に取材した作品で、いちおうSF仕立てにはなっているけれども、SFSFした作品ではなさそうだと判断して、そのまま読まずに今日に至っている。
さて、ここで話を戻すと、私は『スワロウテイル』の冒頭を見て、上のような思い出と記憶のある、大阪の在日朝鮮人の街を思い出した。
『スワロウテイル』では、「(南北)朝鮮人」ではなく「中国人」ということになっているし、場所もたぶん「非関西」で、「関東圏」と見て間違いないだろう。
この「円盗(イェン・タウン)」たちは、一攫千金の夢を見て日本にやってきたというのだから、時代は「アパッチ族」の活躍した「戦後」ではなく、「バブル経済」後だと考えて、まず間違いないだろう。
そして、岩井俊二監督は宮城県出身で、横浜の大学を卒業して、そのまま首都圏で仕事をしていた人だ。つまり、関西人ではないから、「大阪」にも「在日朝鮮人」にも、特別なこだわりは無いと見ていいだろう。
だから、「円盗(イェン・タウン)」を関東圏の「中国人スラム」として設定したのではないか。その方が、むしろ監督自身には、リアリティがあったのではないだろうか。
一一このように考えてくると、岩井俊二監督が、この「アパッチ族」にも似た設定の物語を、なぜ「戦後」も遠くなった「今(1996年)頃」に作ろうと思いついたのか、その意図もわかるような気がする。
つまり、私が思うに本作は「バブル経済に踊った日本人へのアンチテーゼ」だったのではないだろうか。
私はこれまで、岩井俊二監督の作品を、本作を含めれば3本見ている。
最初に見たのは、本作の5年後の2001年作品『リリイ・シュシュのすべて』であり、その次に見たのが、本作の前年1995年の作品『Love Letter』だ。
最初に『リリイ・シュシュのすべて』を見て、私は「岩井俊二って、たしかに映像はオシャレだけど、こんな暗い話を撮る人だったのか。意外だな」という印象だったので、その次に『Love Letter』を見たときには「えっ、岩井俊二って、こんなトレンディドラマみたいな映画も撮っていたのか」と、意外の感に打たれた。
だが、この両作の間に、本作『スワロウテイル』を置いてみると、「バブル景気からバブル崩壊を経て、出口の見えない経済的低迷」へという、日本社会の軌跡をなぞっていると、そう考えることができよう。
そして、岩井俊二監督自身が、「バブル期」に映像作家としての自身のキャリアを確立した人だったからこそ、その時期が過ぎたときに「あれは何だったのか。あれで良かったのか」という思いが湧いてきて、本作『スワロウテイル』のような作品が、「反省的」に生み出されたと、そういうことなのではないだろうか。一一「人間にとって、本当に大切なものとは何か」と、そう自他に問うたのではないか。
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無論、その答は、「経済的な豊かさ」でもなければ、それによって支えられた「法令遵守の真面目さ」でもない。
そうしたものが失われてもなお、失ってはいけないものを、憧れを込めて描いたのが本作『スワロウテイル』であり、本作に登場する、多かれ少なかれ「犯罪者」とならなければ生きられなかった人たちの姿なのではないか。
先に私は、
『本作の準主役的な人物として無視できないのが、中国人マフィアの「上海流氓」の若きリーダーであるリョウ・リャンキ(江口洋介)で、彼は金儲けのためなら競合する日本のヤクザたちを平気で殺せる、冷徹な「犯罪者」である。』
と紹介したが、彼は「冷徹な犯罪者」である反面、アゲハを救ったように、困っている弱者に救いの手を差し伸べることを躊躇しない人物であったことも描かれる。
とうてい「善人」とは言えないとしても、殺人も辞さない犯罪者だからというだけで、簡単に「悪人」と決めつけてしまうわけにもいかない「人間らしさ」を持った人物として、彼は描かれているのだ。
一一そして、そんな彼に比べ、バブルの頃に、間接的ではあれ「貧しい人たちから地上げで奪った土地に高級マンションなどを建てたり、またそこで贅沢な生活をする」といったことをしておきながら、それでも「私は法令を遵守する、善良な日本人です」などと平気で考えている、自分の手を汚さなかった人たちの方が、どれほど「冷血」であろう。
バブル景気がついに還らぬものとなった時、多くの日本人が少しは反省したように、岩井俊二もまた、バブルに踊った日本人の一人であった自分を反省する(かえりみる)ようにして、本作『スワロウテイル』を撮り、「人間にとって大切なもの」を、憧れを込めて描いたのではないか。
したがって、ここで描かれている「憧れの人たち」は、当然、私たちではない。
私たちが、簡単に「共感」したり「理解」できたりするような存在ではないのだ。
まただからこそ、岩井俊二監督は、彼らの「内面」を、私たちにも「わかるように」は描かなかったのではないか。
それは、そう簡単に「理解できるものではないもの」としての、「理想」として描いたのではないだろうか。
つまり、本作『スワロウテイル』が「わかりにくい」というのは、「恵まれた日本人が失ったもの」を描いたからではないか。
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では、今や「貧しくなった日本人」は、彼らのことを理解できるようになったのだろうか?
少なくとも、岩井俊二監督自身は、そのようには感じなかったからこそ、弱い者がさらに弱い者を叩く、そんな現実から逃避しようとする日本人少年の物語『リリイ・シュシュのすべて』を撮ったのではないだろうか。
そして、そんな『リリイ・シュシュのすべて』の時代から、さらに20年以上を経た、今の私たち日本人は、どれだけ、どう変わったのだろう。
また、それを見つめる岩井俊二監督は、「日本人の今」をどう見ているのだろうか。
あるいは彼は、変わりゆく日本人を、その後もずっと、見つめ続けることができたのであろうか。
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(2025年1月29日)
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