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渡辺靖 『白人ナショナリズム アメリカを揺るがす「文化的反動」』 : 瓦解した優越感と〈被害者意識〉

書評:渡辺靖『白人ナショナリズム アメリカを揺るがす「文化的反動」』(中公新書 )

先日、ニック・ランドの『暗黒の啓蒙書』を読んだところなので、その背景をなす、近年における「白人ナショナリズム」の台頭について、勉強させてもらった。

結局のところ、現在の西欧において「白人主義」が勃興するのは、ごく自然のことだ。
もちろんその理由は、白人たちが長らく近代文明をリードし、その指導的立場に就いてきたのだが、今やその地位が崩壊しつつあるためである。

人間というものは、自分が他人より優れているという「自負」を持ち、それ相応に「恵まれた立場」が保証されていれば、精神的にも余裕があるので、他者に対して寛容になれるのはもちろん、情け深くさえなれる。

しかし、白人が、この世界において「指導的立場」にあったとは言っても、それは「すべての白人が、個々に優れていた」ということでは、無論ない。「白人種」から多くの優れた人物が(その恵まれた環境に支えられて)輩出され、その成果によって「白人の優越感」は強固なものとして形成されてきたのだが、それは「すべての白人が優れていた」ということを意味するわけではなかったのだ。

だが、多くの「白人」は、自分が「白人」であること、「白人」という分類グループに所属しているというだけで、その「属性」に誇りを持ち、優越感を持ったのである。しかし、それが基本的に「幻想」でしかないのは、言うまでもない。
「日本人」のなかにも「賢い人もいれば、愚か者もいる」「清廉潔白な人もいれば、卑怯未練な人間もいる」ように、「白人」の中にだって、「黒人」の中にだって、「キリスト教徒」の中にだって、様々な意味において「ピンからキリまでいる」というのは、当然の話なのだ。

しかし、「白人」の場合、世界をリードしてきた歴史が長いため、必然的に「白人=優れた人種」という「錯覚」を、多くの白人が持ってしまった。
もちろん、その「優越感」が、他者に対する「寛容や情け深さ」として表れているうちはいいのだが、もともと個々においては「根拠に乏しい優越感」でしかなかったものとしての「幻想」が瓦解してしまうと、それは一転、これまで保証されてきた「優越」を「侵害された」という「被害者意識(被害妄想)」になりやすい。

「優越感」について「根拠のある」個人なら、仮に「優越的な立場」を失おうと、「白人としての誇りに賭けて、泣き言など言えない」と考えたり、「実力で、立場を取り戻せばいいだけ」だと、「真に誇り高い自意識=揺るぎのない優越感」を保つこともできるだろうが、「根拠のない優越感」を担いでいただけの多くの「白人」が、その「無根拠な優越的立場」を失えば、それを回復することは、現実的にも論理的にもほぼ不可能だと言えるだろう。
もともと、彼らは「下駄を履かせてもらった白人=過大評価されてきた白人」であり、今日では「人種的公平」と「実力主義」の故に、その「下駄が取り払われただけ」なのだ。

つまり、「無根拠に与えられていた高下駄」という「不当特権」を失うことに、彼らが文句を言える筋合いではないし、その高下駄のおかげで得た、様々な利権(不当利権)を失うのもしかたがない。

だが、それを「無根拠に与えられていた高下駄」だと自覚できるほどの「客観的自己認識」が持てるのは「ごく一部の明晰な白人」であって、それ以外の多くは、その「既得権」を「天然のもの」あるいは「神からの賜物」として「当然自明の所有物」だと考えてしまう。
だから、その「高下駄」が奪われたり、あろうことか「アフォーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)」によって「高下駄のよって得た各種余録(不当利権)」まで奪われるとなれば、彼らの「主観的」には、ゼロ地点に引き下ろされたどころか、マイナス地点まで引き摺り落とされたと感じて、「被害者意識」をつのらさずにはいられないのである。

しかしこれは、縷々説明したきたとおり、基本的には「ごく一部の白人」だけが持って然るべき「妥当な優越感とその実力的特権」を、「その他の白人全員」までもが、誤って「自分(たち)のもの」だと理解(勘違い)したための「自己誤認」だと言えよう。

もちろん、実力もないし相応の努力もしていないのに、自分が「白人」だというだけで「特別な誇り」を持つのであれば、それ相応の「誇り高い生き方」を、求められずとも貫いてしかるべきである。
「武士は喰わねど高楊枝」と同様に、「白人は、社会的に落ちぶれても、精神の貴族性だけは失わない」という態度を保てるのであれば、それが「やせ我慢の美学」だとしても、多くの人から「尊敬の念」を集めることもできよう。
しかし、そんなことが出来るのもまた「ごく一部の優れた白人」に過ぎないというのは、論を待たない。「優れた白人の名誉」に「ただ乗り(フリー・ライド)」していただけの「その他多くの白人」に、そんなことなど出来るわけがない。

無論、これは「白人」に限った話ではない。
「黒人」だって「黄色人」だって、まったく同じで、「一部の優れた人たち」の「誇り高き物語(歴史と伝統)」にフリー・ライドした人たちというのは、どんな「人種」にも、どんな「国」にも大勢おり、むしろそうした「無自覚なフリー・ライダーの勘違い」が、「愛国心」や「人種的誇り」という「幻想」を形作ってきたのだとも言えるだろう。

本書でも紹介されているとおり、現在の「白人ナショナリスト」の場合、露骨に「非白人」を劣ったものとして攻撃するのではなく、むしろ「(自分たち)白人の権利が侵害されているのだから、それを回復したいだけであり、当然それはなされて然るべきだ」といった、柔らかい物言いをする者が増えているという。
無論これは、「本音」なのではなく、そういう言い方をした方が、広範な支持を得やすいという「政治的な戦略的配慮」からであるのは言うまでもない。だからこそ、それらは「顔見せ時の物言い」であって、「匿名時の物言い」は、じつに下劣なものになりがちで、それは「日本のネトウヨ」も「アメリカのオルトライト(新世代右翼)」も大差ないのである。

だから、例えば彼らが「黒人は出ていけ、ピスパニックは出ていけ」ではなく「人種別の州をつくれば、無用のトラブルも無くなり、お互いの為になる」と言って主張する「エスノステート」といった考え方は、ニック・ランドが語る、白人が生き残るための「外部」に対応する具体案ではあるが、本書著者も指摘するとおり、ほとんど現実味がない。と言うか、私に言わせれば、それは完全に「ユートピア(頭の中の理想郷)」でしかない。

ニック・ランド『暗黒の啓蒙書』のレビューで、私は次のように指摘したが、これは「エスノステート」にも完全に当て嵌まるだろう。

『しかし仮に、彼の言う「切り離された外部」が、この「地球上」に確保できたとしても、その先にもまた、彼(※ ニック・ランド)が言うところの〈カテドラル〉が形成されるのは、まず間違いない。ただ、そこでは、彼らの方が〈カテドラル〉を形成するのだ。
つまり彼らは、切り離された1000人のエリート社会の中から生まれた10人の劣等者(ゾンビ)を排除して、990人のエリート社会を確保するだろう。しかし、その990人の中からまた9人ほどの劣等者が、きっと生まれてくることだろう。
畢竟「知的・経済的エリートだけの世界」を作ったところで、やはりその場合にもまた「相対的な劣等者」は自ずと生まれ、またそんな人たちを排除するという同様の方法で「外部」を目指すしかなくなる。そして、その理屈で「社会的足手まとい」をどんどん切り捨てていった果てに存在するのは、結局「そして誰もいなくなった」世界でしかないはずなのだ。』

つまり、「白人だけの州」が実現できたとしても、そのなかでも「落ちこぼれの白人」たちは、必ず「邪魔者」として排除されることになるのだ(あるいは、楽園の中の「奴隷階級」に落とされる)。
「自分たちだけの楽園」を求めて「他者(異なる者)」存在を拒絶するような「楽園」とは、結局のところ「ごく一部のエリートのための楽園」でしかなく、「大半の平凡な白人にとってのディストピア(悪夢郷)」でしかなくなるのである。

実際、ニック・ランドは「迫害された多くの白人を包摂する外部」などといったものを、本気で信じているわけではない。彼はただ、彼のような「エリート」に対し、「実力相応の王侯的待遇」を保証してくれない、この「平等と民主主義」の社会を、その「加速主義」によって破壊したいだけなのだ。
破壊したあとに、「実力主義の王侯的世界」を実現したいだけで、「白人ナショナリスト」たちの大半は、そのための「使い捨ての道具」でしかないのである。

だから、「白人ナショナリスト」の問題は、私たち「非白人」や「平等と民主主義」を支持する人間のためだけではなく、彼ら「大半の白人」のためにも、真剣に考えるべき喫緊の問題であるということを、私たちはきちんと理解する必要があるだろう。
私たちの大半は「特別に優れた人間」ではない。いや、より正しく言えば「すべての人が、それぞれにいろんな弱点を持った、同じ弱い人間」なのだという「原点」を、私たちはここでもういちど再確認し、「彼らもいれば、我らもまたいる」世界の構築を、困難でも模索していくしかないのである。

書評:2020年6月20日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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