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追悼 デイヴィッド・リンチ : ぬり絵の外の暗い世界=『デイヴィッド・リンチ:アートライフ』

映画評:ジョン・グエン、リック・バーンズ、オリヴィア・ネールガード=ホルム監督『デイヴィッド・リンチ:アートライフ』2016年、アメリカ・デンマーク合作)

デイヴィッド・リンチが亡くなった。ほんの数日前のことだ(2025年1月15日)。

『ツイン・ピークス』(1990年〜91年)で、リンチの熱心なファンとなって以来、彼の作品を追っかけて、長編映画10本すべてと短編のいくつかを見てきたし、 クリスティン・マッケナとの共著で、内容的には「評伝+インタビュー」の『夢見る部屋』も読んだけれど、結局のところ、『ツイン・ピークス』ほどに満足させられることは、ついぞなかった。どこかが物足りなかったり、気に入らない部分があったりしたのだ。

もちろん、『ツイン・ピークス The Return』(2017年・以下『The Return』と表記)のDVDもすぐに購入したのだが、元の(正篇の)『ツイン・ピークス』(シーズン1&2)を再鑑賞してから見ようと、後生大事に構えているのが災いして、いまだに見ていない。

リンチは2006年の『インランド・エンパイア』以来、長編映画を撮らないままで、私としても「もう映画は撮りそうにないな」と感じていたから、それこそ『The Return』を大事に大事に後回しにしていたのだが、とうとう本当に、同作が私にとっての「リンチ最後の大作」になってしまった。

もともと『The Return』を見るのがここまで遅れたのは、私のメインの趣味は「読書」であり未読本が山ほどあって、映像作品の鑑賞に時間を取られるのを好まなかったからだ。当然、連続ドラマなど基本見なかったのだから、そんな私がレンタルビデオで見たとは言え、シリーズものである『ツイン・ピークス』にのめり込んだというのは、極めて例外的なことであった。
しかしまた、読書においてさえ「再読」をほとんどしない私が、けっこう長い『ツイン・ピークス』を再鑑賞するとなると、それなりの覚悟が必要であり、当初は「退職して時間ができたら見よう」と、そう考えていたのである。

ところが、実際に退職して時間に余裕ができると、つい気楽な気持ちで、見たことのなかったジャン=リュック・ゴダールの作品を見て、「なんだこれ?」と理解不能であったことから、ゴダールを理解するためにもと、いろいろな映画を見るようになってしまった。そのため、有り余るはずだった時間的余裕が、想定外にも無くなってしまったのだ。
まあ、映画を見るだけなら大したことはないのだが、見た映画、読んだ本の、ほぼすべてについてレビューを書き、それがそれぞれにそこそこ長いもので、しかもそれをほぼ毎日書いているとなると、時間な余裕など出来ようはずもないのである。
そんなわけで、時間的余裕ということでは、退職前とさほど変わらなくなってしまったために、『ツイン・ピークス』の再鑑賞は、またもや後回し、あるいはまたもや「勿体ないから、後に取っておく」こととなって、そうこうしているうち、ついにデイヴィッド・リンチが亡くなってしまったのだ。

とはいえ、リンチが亡くなって、ショックだとか残念だとかいった気持ちは、ほとんどない。
年齢的にもそこそこいっていたから、「ああ、亡くなったんだなあ」といったくらいの感じしかないのは、自分自身も歳をとったからだろうし、たぶん何年も前から、リンチはもう私を満足させてくれる作品は撮らないだろうと、そんなふうに諦めていたからではないだろうか。

そんなわけで、「追悼」と銘打ちながら、さほど「悼んで」いなくて申し訳ないのだけれど、大好きな『ツイン・ピークス』を撮ってくれた「恩人」として、これを書くことにした。
そこで、これもDVDを買ったまま「後回し」にしていた、リンチについてのドキュメンタリー映画である本作『デイヴィッド・リンチ:アートライフ』をこの機会に見ることにし、それで何かが書けるだろうと、そう考えたのである。

そして、本作で描かれていたのは、その幼年時代から、出世作『イレイザーヘッド』を作り始めるまでの、まだ、私たちの知るデイヴィッド・リンチ以前の、彼の姿でああった。

(『イレイザーヘッド』の頃のリンチ)

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ここまで書いたことだけ読むと、私は「作品が好きになるタイプ」だと誤解されるかもしれないが、私はハッキリと「作家」のファンになるタイプだ。だから、書く批評文は、「作品論」ではなく、「作家論」が中心となる。「この作品は、どういう作品なのか」ということよりも、「この作品の作者は、こうした内面性を持った人に違いない」ということを書くし、そこに興味が向かうタイプの人間なのだ。

だからこそ私は、『ツイン・ピークス』を見て、デイヴィッド・リンチの熱心なファンとなり、しかし、その後、他の作品を追っていく中で、不満や失望を覚えさせられることが多かったのかも知れない。
『ツイン・ピークス』は、内容的にも形式的にも完璧だったのに、他の作品の場合は、好みの「ダーク」な作品であっても、どこか作品の作りとして不満な部分があったし、ましてや『エレファントマン』『ストレイト・ストーリー』のような「白リンチ」とでも呼ぶべき作品は、当初は「ふざけているのか?」とか「いくらなんでも、世間に迎合しすぎだろう」などと感じたりもした。
だが、『夢見る部屋』を読んでみると、あれはあれで真面目に撮った作品なんだろうと思えるようになってきた。しかしまた、そんな部分(リンチのスピリチュアリズム)など求めてはいなかったので、それは決して喜ばしい「理解」ではなかったのだ。

しかし、期待したような「ダークな狂気の黒リンチ」というだけでは収まらず、奇妙にも対極的な「白リンチ」が同居しているという、一見したところの「矛盾」に、興味が惹かれる部分もあった。
ただ、これまでのところ、その両面を「整合性を持って説明するリンチ理解」には到達できないでいたのだが、本作を見て、そのあたりが少し見えてきたように思えたのは収穫であり、少し、リンチへの「共感」が戻ってきたように感じられた。

つまり、『夢見る部屋』を読んで、リンチの大真面目な「スピリチュアリズム」に、かなりウンザリさせられた部分が、本作を見ることで、「こういう人なら、それも仕方なかったのかな」と、ある程度は納得させられる部分があったのである。

それまで私は、リンチの「白リンチ」の部分が、まったく理解できなかった。だからそうしたものには、「嘘っぽい」とか「少々偽善的」といった印象があって、それが嫌だったのだが、本作『デイヴィッド・リンチ:アートライフ』で紹介されている、両親に対するリンチの過大なほどの高評価などを聞いて、「善なるもの」を求める「白リンチ」的な側面の必然性も、少し理解できるように思えたのである。

(本篇より。下左は、リンチの再婚相手との娘)

リンチは、本作の中で、自身の幼年を「小さな世界の中で、両親の愛に見守られた、幸福な時代だった」というふうに語っている。要は、自覚もできないほどに、完璧に幸福な「黄金時代」であったと。
そして、その幸福を支えたのは、前記のとおりで、まずは母親であり、そのあとは父親だった。

(左から、母、父、妹、弟、そして、デイヴィッド)

リンチは、母について「子供たちに精一杯の愛情を注いでくれた。母は、決して人を差別することはなく、自分は信仰を持っていたが、それを人に押し付けるようなこともなかった。また、控えめであり、決して自慢話をするようなタイプではなかった」というような賛辞を語っている。
また「絵を描くのが好きだった、幼い私の才能を認めたのだろう。母は決して、私にはぬり絵を与えようとはしなかった。それが才能を伸ばす妨げになることもある、ということに気づいていたからだろう。だから、私にはいつでも白紙をくれたし、弟妹にはぬり絵を与えてもいた」と、母の慧眼と自分の才能を伸ばしてくれたことに、感謝の言葉を贈ってもいる。

(リンチの幼年時代)

しかし、一家が何度か引っ越しをする中で、リンチがハイティーンにさしかかった頃だろうか、転校先の学校で、最初にできた友達は、同じ転校生仲間だったのだが、「友達になるべきではない友達だった」と、リンチは言葉を濁す。
要は、その友人たちに「不良」への道に引きずりこまれてしまい、学業をおろそかにして遊びまわるようになってしまったのだ。それで、彼に期待していた母親からは「がっかりした」というような言葉を聞かされたようなのだ。
これにはリンチ自身、母親の期待を裏切ったことに申し訳なさを感じ、心を痛めもしたのだが、にもかかわらず、彼はそうした生活を改めることができなかった。もはや、学校で学ぶことは何もかもがクダらなく、面白いことは学校の外にあると、そう感じるようになっていたのだ。

それでもリンチは、ある時、画家の息子と出会い、「そうだ、自分の進むべきはアーティストへの道だ」という閃きを得て、そちらに進んでいくことになる。これを支えてくれたのが、父親だったのだ。

リンチが言うには、いま思えば父は「根っからの善人であり、それでいて、他人にどう思われようとも気にせず、堂々と我が道を進んでいくカッコイイ男だった」ということになる。
しかしまた、リンチが家を出て一人暮らしを始めた後、ひさしぶりに父が訪問してくれた際に、その家の地下室で行っていた「ネズミの死体を腐らせる実験」を父にも見せて満足したところ、意外にも父が「お前は子供を作らないほうが良いかもしれない」と言って、リンチの頭の疑ったという話をして「そんな心配をする必要はなかったのに」とも語るのである。

このように、ほとんど「神格化」された両親の話とはまた別に、私の印象に残ったのは、リンチがまだ幼かった頃のある夕刻、いつものように表で弟たちと遊んでいると、父が家の中から「もう帰ってこい」と声をかけたのだが、そのまま遊んでいると、道路向かいの暗がりの中から、全裸の女性がよろよろと変な歩き方をして近づいてきたという、そんな「原体験」の話である。
大人の女性の裸を外で見ることなど初めてだったリンチは驚いて動けなくなり、弟の方は恐怖で泣き出したと言う。そして、その女性も道に座り込んで泣き始めたのだそうだが、リンチは「(可哀想なので)何とかしてあげたかったのだが、子供の身では何もできなかった」と、そんなふうに語るのである。

(本篇より、リンチの作品)

たぶんこれは、近所の奥さんだかがDVにでもあって、家から裸で放り出された(あるいは逃げだした)といったところだったのだろうが、リンチの語り口を聞いていると、(この時に映し出される、リンチの絵画作品のイメージも大きいが)まるで「闇の中から、正体不明の禍々しい異形が出てきた」という感じであり、だからこそ「(可哀想なので)何とかしてあげたかったのだが、子供の身では何もできなかった」という真っ当な説明が、かえって不似合いな(アンバランスな)印象であったのだ。

また、リンチが幸福な少年時代を過ごした土地を引っ越しすることになったその引っ越し当日、端っこに木の植った三角形の庭を挟んだ隣の一家にお別れを言いに行き、顔見知りの母親やそこの子供だけではなく、日頃は顔を合わせないそちらの父親までが出てきてくれたのだが、一一とそこまで話した時、リンチはいきなり言葉を詰まらせ「話せない…」と、説明を断念したりするのだ。つまり、そこにも、何か「暗くて禍々しい障害があった」ということなのだろう。

さて、ここまで紹介してきた「愛する両親とその両親への裏切り体験」。そして、二つの「禍々しいものとの対峙」のエピソードから、私が感じたのは、リンチには、当たり前の人間が持っている「灰色(グレー)」の部分が無いに等しい、ということである。
つまり「白か黒か」であり、その「白と黒が、接して存在している」というような「世界観」だ。

(自宅アトリエでの、晩年のリンチ)

私たちは普通、世の中には「白と黒が混ざり合って存在しており、真っ白、真っ黒も稀にはあるけれど、多くの部分(99%)は、薄汚れた白だったり、真っ黒ではない黒だったりする」と、そんなふうに「リアル」に感じているのではないだろうか。
だから、他人に「完璧な善人」や「完璧な悪人」を期待しない。「おおよそ良い人」や「おおよそ嫌な人」ということはあるけれど、「真っ白」とか「真っ黒」とは思わない。
それは自分の親についてだって同じで、「もちろん良いところもあるけれども、嫌なところもある」というのが、普通なのではないだろうか。

ところが、リンチの証言では「両親はともに真っ白」なのだ。
そして自分は「そんな両親を裏切ったり悲しませたり心配させたりしてしまった」という、そんな「罪悪感」を抱いている。

(昔の写真を見るリンチ)

そして、そんなことになってしまったのは、自分には「悪しきものに惹かれるところがあるからで、しかもそれを拒絶できないからである」と、そう感じているのではないだろうか。
それが、時には「悪い友達」であり、時には「暗くて嫌な街だったけれども、その一方、自分の芸術性を開花させてくれた街でもあるフェラデルフィア」だというようなことになるのではないか。

つまり、愛すべき「真っ白なもの」として取り置きしておきたいものがある反面、それとは正反対の「真っ黒な世界」に惹かれるところが自分にはあり、また、そうした「禍々しくも魅惑的なもの」は、先方から自分(リンチ)に近づいてきて、自分の中の「芸術性」を引き出してくれるものでもあるといった、いささか「矛盾した感情や指向」を、リンチは持っているようなのだ。

(本編に登場した、リンチの作品)

文句なしに肯定すべき「真っ白なもの」については、自分はそれを愛しながら裏切ってしまい、一方「禍々しい存在」だとわかっているものは、先方から近づいてくるし、自分もそれに惹かれて離れられず、それでいてそれは、自分の才能を活かしてくれるものでもある、というような、引力と斥力が激しくぶつかり合いながらも、しかし「灰色」に落ち着くことのない、そんな「世界」。
白が白、黒が黒のまま交じり合うことで、激しく軋みをあげるような、不安定な「世界観」。一一これは、「穏やかな日常世界」のすぐ隣に「狂気に彩られた暗い世界」が存在しているという、『ツイン・ピークス』の世界、そのままなのではないだろうか。

『ツイン・ピークス』

つまり、一般に「リンチらしさ」と受け取られているのは「狂気に彩られた暗い世界」の方なのだが、リンチという人は、ただそれだけの人ではなく、彼の中には、両親にそれを見たような「白の世界」への憧れがあって、それがたまに、ほとんどそれだけで作品化されてしまうと、『エレファントマン』『ストレイト・ストーリー』のような作品になるのではないだろうか。

言い換えれば、リンチの場合、その「白の世界」と「黒の世界」の両方に惹かれながら、しかしそれが、バランスの取れた「ベストミックス」になることは、ほぼなかったということなのではないか。
一一私が『ツイン・ピークス』に感じた「バランスの良さ」とは、たぶんマーク・フロストという「常識人」が外枠を作り、その中にリンチが、その「白の世界」や「黒の世界」を流し込んだ結果、狂気と矛盾を孕みながらも、「バランスの良い、形の整った作品」になった、ということなのではなかったろうか。

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こんなふうに書くと、まるで私が最大に高く評価する『ツイン・ピークス』についてさえ、その功績の一部を、リンチから奪ってマーク・フロストに分け与えるも同然で、リンチファンらしくない行いのように見えるかもしれない。

しかし、私がここでやっているのは、大好きな『ツイン・ピークス』という作品を褒めることではなく、デイヴィッド・リンチという「謎」に取り組んでいるということなのだ。「作品」ではなく、「作者という謎」に惹かれている、ということなのである。

本作『デイヴィッド・リンチ:アートライフ』のDVDのケース表紙には、

ようこそ、
リンチの
〝アタマの中〟へ一一。

という惹句が添えられているが、本稿における私の、リンチに対する「単純な賞賛」の無さというのは、私が今もなお、リンチという「謎=アタマの中」に惹かれているということであり、これはこれで、一種の愛情と呼んでも良いものなのではないかと思う。

そして、だとするならば、リンチを少しも「褒めて」はいないこの文章も、やはり「追悼文」であり得るのではないだろうか。

(『イレイザーヘッド』のセットにて)


(2025年1月19日)


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