『BLACK LIVES MATTER 黒人たちの叛乱は何を問うのか』 : 〈希望とニヒリズム〉の狭間で
書評:河出書房新社編集部編『BLACK LIVES MATTER 黒人たちの叛乱は何を問うのか』
大雑把に言えば、本書の前半3分の2は、日本人著者による「BLACK LIVES MATTER」という運動の出自とその現状の紹介、後半の3分の1は、今回の運動現場における当事者たちの「多様な声」の紹介だということになろう。
私は、アメリカでの黒人差別反対運動について、特に詳しいわけではないけれど、以前から一定の興味は持っていたので、公民権運動についての歴史書とか『マルコムX自伝』とか、モハメッド・アリの評伝といったものを、いくらかは読んできた。だから、本書前半3分の2の「日本人著者による文章」は、大筋で知っていることも多く、やや退屈ではあったものの、後半の3分の1の「運動現場における当事者たちの多様な声」の方は、現在進行中である「BLACK LIVES MATTER」という、内部的には多様な立場の混成運動体の雰囲気を伝えて、非常に興味深いものであった。
警察官による過剰に暴力的な職務執行による黒人殺害事件に端を発するデモや暴動というのは、近年何度も繰り返されてきたことなので、今回の運動の盛り上がりについて、私は当初、特に興味は持っていなかったのだが、本年9月に開催されたテニスの全英オープンで、2年ぶりの優勝を果たした大坂なおみ選手が「黒人犠牲者の名前が記されたマスク披露した」と報道されたニュースの関連で何度も耳にした「BLACK LIVES MATTER」という耳慣れない英語に引っかかり、その後、書店で本書『BLACK LIVES MATTER: 黒人たちの叛乱は何を問うのか』と『現代思想 2020年10月臨時増刊号 特集:BLACK LIVES MATTER』が続けざまに刊行されているのを目にして、「これは、思っていたより、大きな運動になっているようだな。ちょっと勉強してみるか」と、そんな気持ちで本書を手に取ったという次第である。
前述のとおり、私は、差別されている黒人の側に同情を持って、かねてよりアメリカにおける黒人の反人種差別運動に興味を持ってきたのだが、当初、今回の運動の盛り上がりを、特に目新しいものとは思っていなかった。しかし、本書を読んで認識を改めさせられたのは、ごく一般的な言い方をすると、今回の場合は「かなり過激」な側面があり、それについて自己肯定的でもある、という点であった。
これもしごく大雑把に言えば、キング牧師らによる公民権運動は、人種的平等を求める「非暴力」の運動であり、逆にその後のマルコムXらのブラックパンサー党などは、白人社会との妥協的交渉を峻拒して暴力(実力行使)も辞さない運動として発展したものの、それには黒人内部でも賛否があり、マルコムX自身もイスラム教への改宗などを経て、暴力肯定路線を捨てるなどしたため、組織的な暴力的改革路線は徐々に廃れていった。
その後、こうした抵抗運動の蓄積によって、黒人の生活環境の優先的向上政策なども採られたが、それは必ずしも充分なものとは言えず、また白人の差別感情を払拭することにもならず、その後も警察権力による黒人に対する差別的な扱いによって、たびたび死者を出しては、そのたびにデモや暴動が発生して、黒人たちの抑圧された怒りが、ガス抜き的に発散されてきた。一一と、そんな感じだったのではないだろうか。
しかし、数年前から続いてきた「BLACK LIVES MATTER」運動の場合、特に今回は、それまでのアメリカ黒人の運動という枠を超えて、多くの白人や他の有色人種からの支持や支援を得るとともに、国際的な連帯の広がりを持ち、さらにフロリダでは警察署を占拠して「解放自治区」を開くという華々しい成果まであげたため、これまでとはちょっと違う「位相」において、「BLACK LIVES MATTER」が注目されるようになったようである。
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さて、本書を読んで、「外野」の私が初めて理解したのは、反人種差別の黒人運動である「BLACK LIVES MATTER」と言っても、じつに「多様な立場」が混在している、という事実である。
キング牧師以来の流れをひく「反暴力主義=平和主義」的な、穏健な抗議運動の立場もあれば、対警察の組織的な武力闘争は無論、略奪や破壊も「革命的行為」としてその価値と必要性を積極的に認める、という過激な立場もある。そして、運動の両極をなす両者は、おのずと相手の立場を肯定的に見てはいないのだが、今回の「BLACK LIVES MATTER」を特徴づけているのは、むしろ後者の「過激な行動主義」の方であり、運動の理論家たちも、大筋においては、後者を否定的には評価せず「これまでの妥協的な失敗を乗り越えて、新たな地平を開くための可能性の萌芽」といったニュアンスで肯定的に捉えようと、いささか意識的な「努力している」ように見受けられた。
要は、「もう我慢ならない」と、ぶち切れた若者たちの「感情の力」を否定するのではなく、そのエネルギーを、なんとか「運動」の本質の中に新たに位置づけようとしているように見受けられるのだが、一一私にはそれが、いささか無理のある、「偽善」のように感じられたのである。
私はもともと割り切りの激しい人間なので、これまでの黒人差別の経緯と現状を考えれば、略奪や破壊といった「感情的な爆発としての暴力行為」も「しかたがない」と考えている。運動の理論家たちも認めるとおり、そのような破壊的なまでの強い怒りとそれに発する力をも動員しないかぎり、根深い黒人差別の現実は未来永劫なくならないだろうと、多くの黒人たちが感じるのは、当然なのだ。
しかしである、「略奪や破壊といった暴力的な行為」を認めるというのは、実際のところは「何でもあり」を認める覚悟がなくてはならない。実際、「略奪や破壊といった暴力的な行為」の被害に遭うのは、何も「差別的な白人」ばかりではないのだ。
では、「差別的な白人」でもなければ「黒人を差別しているわけでもない人」たちの財物に対する「略奪や破壊といった暴力的な行為」は、はたして正当化され得るだろうか。
無論、それは「正当化されている」はずである。
なぜなら、暴動の現場においては、その「略奪や破壊といった暴力的な行為」の対象が、誰の所有物かなど、いちいち確認している暇などないし、そんな気もない多くの人が、そうした行為を行なっているからだ。
では、「差別的な白人」でもなければ「黒人を差別しているわけでもない人」たちの財物に対する「略奪や破壊といった暴力的な行為」は、どのような理屈で、正当化できるのだろうか。
それはたぶん「差別に直接的には関与していなくても、差別を支える白人の文化社会において、富や恩恵を得、安楽な生活を享受している人たちは、基本的には無自覚な共犯者なのだ」といった理屈になるしかないだろう。だから「黒人差別に反対だと言うのなら、貴方がたも、その痛みを分ち持つべきであり、それができないのであれば、あなた方もまた、黒人を差別し、殺す側の人間なんだ」といった理屈になるだろう。
これで説得される人も、ある程度はいるだろうし、納得できない人も少なくないだろうが、理屈としては、いちおうの筋は通っている。
しかし、じつのところ「略奪や破壊といった暴力的な行為」を肯定するというのは、これに止まり得る立場ではなく、その先は、「BLACK LIVES MATTER」の理論家たちも「誤摩化さざるを得ない部分」に関わってくる。
すなわち「略奪や破壊といった暴力的な行為」を認めるのであれば、当然のことながら「殺人」も認めなければ、筋が通らないということだ。「殺されたら、殺し返せ」これこそが、「略奪や破壊といった暴力的な行為」を正当化する、根本的な論理だからである。
つまり、具体的に言えば、暴動の現場における、無差別的な「略奪や破壊といった暴力的な行為」が正当化されるのであれば、暴動の現場においては、「白人警官」を殺すだけではなく、「白人」の「成人男女」は無論「子供」を殺すのも、「仕方がない」ということにならないだろうか。いや、白人だけではない。極論すれば、他の有色人種も、運動に関わらない「黒人」も、その「無自覚な有責性を問われるべき、加害者(の側の人間)」だということにはならないか。
彼らが「黒人差別者」でなかったとしても、現在の「白人社会の中での(多少なりとも)受益者」なのであれば、そこには「無自覚な有責性」があると認められるべきだし、それが暴動の現場では、事故的かつ過剰に結果することも「致し方ないのだ」という理屈に、なりはしないだろうか。
実際のところ、黒人もいれば白人もいる、その他もいる、「この現実世界」において、完璧に平等な無差別社会など実現はせず、それは常に目指されるべき「理想」に止まるはずなのだが、その理想を目指して、黒人が「現状の被害者であり弱者」として、「致し方のない過剰な暴力」をふるってでも理想を追求し、それが「白人たちの暴力」を凌駕したとき、果たしてそこには、「平等」ではなく、単に、立場の「白黒逆転した差別社会」が生まれるだけなのではないだろうか。
私は現状においては「略奪や破壊といった暴力的な行為」も「しかたがない」と思うし、それを認めるのなら「事故的かつ理不尽な虐殺行為の発生」も「しかたがない」と思う。
しかし、それでは「黒人たちの理想とする社会」は生まれないだろう、とも思うのだ。
たしかに「ヌルい」ことを言っていては、現状を本質的に変えることなどできないだろう。だが、だからと言って「ぶち壊してしまえ(ぶち殺せ)」という「怒り」に頼っていては、「復讐」はできても、「黒人たちの理想とする社会」を作ることはできないと思うのだ。
だから、「BLACK LIVES MATTER」の理論家の少なからぬ人が「若い破壊的な力」や「解放区的な祝祭空間」や「指導者なき連帯」といった、今ある状況を肯定したいという気持ちも、よくわかるのだが、しかし、その先に「確たる展望」が開けないのも、理の当然なのだと言いたい。
そんなものは「一時的」なものであって、そんなものでは「安定的な社会」は、金輪際、築けはしないのだから、その厳しい「現実」を直視すべきだと言いたいのである。
「自分たちは、歴史の最先端にいる」とか「最良の方法を選んでいる」とか「見通しはないが、希望はある」とかいった、多くの先人たちも持ってきた「願望充足的な誤認」は、勇気を持って捨てるべきだろう。
このままでは「やがて祝祭は終り、汚辱にまみれた不本意な日常が戻ってくる」のは間違いないのだ。だから、つまらない「大人の意見」に見えようが、次のようなリアリズムを堅持することが、やはり大切なのではないだろうか。
要は、「復讐的な気晴らし」と「1ミリでも前へ進める結果主義」の「二兎」を追うというのは、気持ちはわかるが、あまりにも「自分に甘い」ということである。
黒人であれ白人であれ、人間はそんなに完全には出来ていないし、出来もしないのである。
初出:2020年10月31日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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