吉村萬壱 『みんなのお墓』 : 開放と死
書評:吉村萬壱『みんなのお墓』(徳間書店)
どう評していいのか、困ってしまう作品である。
例えば本書の帯(背面)には、伊坂幸太郎による次のような推薦文が刷られている。
この推薦文は、たしかによく「吉村萬壱の作風」を捉えている。
だが、これだけでは、本作がどんな小説なのかは、さっぱりわからない。
『どこか』と書かれているように、「どこが」可笑しいのか語られていないし、伊坂自身、それをはっきりと把握できてはいないのではないだろうか。だからこそ『気にかけている』のではないか。
それがはっきりと言語化できるようなものなら、吉村萬壱の作品を気にかけて読み続ける必要などないし、その「簡単には言い表せないもの」を描こうとするところにこそ、「純文学の純文学たる所以」があるのではないだろうか。
例えば、Amazonの本書紹介ページには、次のような「内容紹介文」が掲載されている。(ゴシック強調は、原文のとおり)
本書を読んだ人なら、この内容紹介が「間違ってはいない」というのは、わかる。
たしかに「登場人物」は、こんな人たちだし、本書では「墓と変態行為」を描いて、「死と生」の関係性を描いているというのも、確かなことだろう。
だが、このように要約してしまうと、それはもはや「吉村萬壱の小説」ではなく、「よくある何か」に変貌してしまう。
この紹介文には、吉村が好んで描く「おなら」も「ゲップ」も無ければ、屋外での「排便排尿」も無い。
『裸になる快感を追い求める主婦』と「深夜の墓地で、ロングワンピースの前を全開にし、下は裸という格好でうろつき回り、墓石の角でオナニーしたり、地面にそのまま排便排尿して、汚れた尻を拭うことすらしないような露出狂の主婦」とは、明らかに別物である。
無論、「内容紹介文」の方も「嘘」を書いているわけではないのだが、意図的に「肝心な部分を書き落としている」と、そう言って良いだろう。
なぜそんなことをするのかといえば、吉村萬壱の描くものをあけすけに紹介してしまうと、普通の人は、それだけで本書を忌避してしまうと予想されるからであろう。その強烈な個性的描写にとらわれ、その不穏さを恐れて敬遠してしまうに違いないからである。
しかし、「吉村萬壱の小説」において、あるいは「純文学」において大切なのは、明示的な「メッセージ」や「テーマ」や、ましてや「面白い物語」などではなく、この、いわく言い難い「それを描く」ことなのだ。
「人はそれぞれに欠落を抱え、その欠落ゆえの闇を抱えて生きており、それを埋め合わせてくれるものは、たぶん自己破壊的なまでの死への欲動なのだ」といったようなことを「書く」のが「文学」ではないし、ましてや「純文学」ではない。
むしろ、そのようなかたちでの「定式化」を許さない「生きることの何か」を、それの周いを旋回しながら弄り、舐めまわすように描こうとするのが「純文学」なのである。その意味で「文学」とは、「描写」が命であり、「文体」が命なのだ。
そして、そうした意味において吉村萬壱は、間違いなく「純文学」作家だし、それも「稀有な」純文学者だと言って良いだろう。ただし、そうした「稀有性」というのは、おのずと「一般読者」を遠ざけてしまうことにもなる。
誰だって、自分が「おならやゲップやウンコ」をひり出す存在なのだと、わざわざ確認したくなどはない。
それが事実であり現実だとしても、そんな「現実」からは目を逸せて、「きれいな現実」だけを見ていたい。たとえそれが「現実の一部」でしかないのだとしても、それも「現実」なのだから、それで良いじゃないかと、そう考える。一一しかし、恣意的に「編集された現実」は、もはや「現実」などではない。
もちろん、吉村萬壱の小説も「恣意的に編集された現実」ではあるのだけれど、彼の編集方針は、世間のそれとは違って、明らかに自覚的なものであり、ある意味で、世間とは真逆な、「変態的なもの」だと言って良いだろう。だからこそ、彼の小説には「存在意義」がある。
これは、吉村萬壱が「私たちが目を逸せている部分を、意図的に突きつけている」ということとは、ちょっと違うように私は思う。
そういう、自覚的な「方法論」によるものではなく、吉村萬壱の「変態趣味」や「汚物趣味」は、彼にとっては「自然なもの」であり、さらには「好ましいもの」なのであって、無理をして「嫌なものを描いている」というのではないと思うのだ。
しかし、だからこそそれは「本物」だし、私たちはそれを突きつけられて「怖れ」をなし、そこから目を逸せてつつ、それを凝視せざるを得ない。
それが「嫌だから」、目を逸らせたり凝視したりするのではなく、それに「魅せられてしまう自分」が目を覚ましそうで、それが恐ろしいのだ。社会に、当たり前に、無難に順応して生きている自分の中にも眠っている、その「怪物」が、いましも目を覚ましそうに思えて、それが「怖しい」のだ。
また、それと同時に、その恐怖感が「解放のマゾヒズム」を、どこかで刺激して「怖気持ちいい」のである。
一一まるで、本書に登場する『裸になる快感を追い求める主婦』と同様に。
私たちの「秘密」に対して、墓は何も語らない。問い質しもしない。
墓は、人々の「秘密」を黙って聞き、それを封じ込めて、沈黙の中に安らぐ場所なのだ。
だが、そんな欺瞞を許したくないという気持ちもある。
だから彼らは、墓石でオナニーしたり、墓場で排便排尿したりといった、「冒涜的行為」をするのではないだろうか。
その「安らかな死に顔」の下に隠され封印された、あれやこれやを知っているから、わざわざそこへ「呼び起こし」に行っているのではないだろうか。
その意味では、そうした行為は「冒涜=汚す」行為なのではなく、むしろ「隠蔽された汚れ」に対する「許し」であり「解放」を意味するものなのではないか。
そうした、生きることの「汚れ=穢れ」の解放とは、最終的な「自由」の獲得であると同時に、やはり「怖しい」ものなのでもあろう。
私たちはたぶん、あまり自由にはなりたくないのである。
なぜなら、自由における「無防備」さは、「死」に隣接したものだと直観されるからなのであろう。
(2024年5月23日)
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