ノーム・チョムスキー 『我々はどのような生き物なのか ソフィア・レクチャーズ』 : 巨人チョムスキーへの 〈誤解の構造〉
書評:ノーム・チョムスキー『我々はどのような生き物なのか ソフィア・レクチャーズ』(岩波書店)
本書は、
・ 上智大学における、チョムスキーの2回にわたる講義・質疑応答の記録(ソフィア・レクチャーズ)
・ 翻訳者との対話(「チョムスキー氏との対話」)
・ 翻訳者によるチョムスキー紹介(「ノーム・チョムスキーの思想について」)
をまとめたものである。
そして「ソフィア・レクチャーズ」の第1回は「言語学」に関する議論、第2回は「社会運動」に関するものだ。
本書の場合、最初に、チョムスキーが牽引しつづける言語学についての専門的議論が展開されていて、私のような門外漢は、このまま読み続けても大丈夫なのかという不安にかられたが、結論から言えば、大丈夫である。
本書は、チョムスキーの思想と仕事を総合的に扱って、とてもよく出来た入門書となっていた。
さて、その素晴らしい内容を、素人がいい加減に紹介しても、碌なことにはならないので、ここでは少し視点を変えて、チョムスキーという存在について、側面から紹介したい。
その側面的視点とは、本書でも何度か指摘される、チョムスキーに対する「誤解」の問題であり、「なぜチョムスキーはこれほど誤解されるのか」という問題点だ。これなら、「言語学」についての専門的知識は必要ないので、私にも実例に即して語ることが出来るはずだ。
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チョムスキーという人は、極めて「リアリスト」だと言えよう。
この点について、本書の翻訳者である福井直樹は「ノーム・チョムスキーの思想について」で、次のように語っている。
これは、チョムスキーの言語学においても、まったく同じことだ。
チョムスキーは、「目新しい理論」「ユニークな理論」や、いきなり「体系的な理論」を立てて世間を驚かすという「鬼面人を威す」タイプとは正反対の、「堅実なリアリスト」である。
チョムスキーが、言語を考えるとき、旧来の構造主義言語学が考えたような「言語という道具が、だんだん作られていく」などという「原因」不問(「言語は、人間の中に自然発生し、発展した」式)の言語学ではなく、「人間に言語を産めたのであれば、人間の中に言語を産む構造がなくてはならない。そして、他の動物に言語がない以上、言語を産む構造は、ある時、進化論的に人間の中に発生したものでなくてはならない」と考える。これは極めて科学的な「原因結果」の発想であり、リアリズムである。
また、その意味では、人間の言語能力は、他の動物にはない特別な能力ではあれ「他のあらゆる能力と同様の、進化論的に生み出された能力にすぎない」という考え方なのだ。
ところが、人間を、他の動物とは本質的に違う、特別な「霊長類」(神のよって霊を吹き込まれた存在)だと考える伝統に(無自覚に)縛られた人たちは、「言語」というものを、人間が「超動物」であることの証拠(「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。」ヨハネ福音書)だと考えたいものだから、進化論的な「言語」理解には、拒絶反応を起こしてしまう。
そして、自分たちの非科学性には気づかず、チョムスキーの「科学的な仮説」が、「仮説」であるが故に、「現に目の前にある言語を分析している」自分たちの方がリアリストである、などという自己錯誤に陥ってしまうのだ。
そしてこれが、本書でもチョムスキーが指摘する「方法論的二元論」の問題である。
チョムスキーは、リアリストであり、目の前の現実をそのまま認識できるので、「まだわかっていないこと」に関しては「まだわかってはいない」と言い、その上で、様々な研究成果を参照した上で「こうではないか」という、最もあり得そうな「仮説」を立て、それを提示し、その線にそって研究を進めるという、「リアリスト」として至極当たり前の研究態度を採っている。
ところが「言語」というものを神秘化したい人たちは、チョムスキーのそれのような「観察→考察→仮説→研究→観察→考察→仮説→研究」という過程にある「体系的に完成していない理論(仮説)」を、それゆえにこそ「フィクション」であると否定したがるのである。
では、そういう彼らが何をやっているのかと言えば、当然、チョムスキーとは正反対の、「観念的」で「イデオロギー」的な、現実に即さない「理論的体系化」、つまり「神学大系の構築」なのだ。
例えば、キリスト教では「なぜ世界は存在するのか」「なぜ人間は存在するのか」「なぜ悪は存在するのか」といったことについて、壮大な理論体系を構築している。それが「教義」であり「神学」と呼ばれるものだ。そしてそれらは、「現実」を見ないで、「お話(フィクション)」として理解するならば、それなりに辻褄が合っているのだけれど、そこから排除され無視されている「現実」も少なくないから、リアリストは、そうした「神学的世界観」を、「現実の合理的な説明」とは考えないのである。
しかし、「目の前にある言語」の分析だけに固執して、それを「この世界の中で」合理的に位置づけようという気のない人たちは、自分たちの「ご都合主義的に体系化された言語論」の自称「完璧さ」において、チョムスキーの「合理的仮説研究」を「フィクション」呼ばわりにしてしまう。
つまり、チョムスキーが「リアリスト」であり、「イデオロギー」や「信仰」や「趣味的理想」を排除する人であるとすれば、そういうチョムスキーが気に入らない人というのは、「イデオロギー」や「信仰」や「趣味的理想」に偏した、自身のかけた「色眼鏡」に気づかない人たちだと言えるのである。
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さて、以上のように、チョムスキーのリアリズム的「仮説」への反発の根底にあるのは、人間的なあまりにも人間的な「イデオロギー」や「信仰」や「趣味的理想」であり、そうしたことには、そうとう「頭のいい」人でも、案外自覚が持てないものなのである。
実際、科学の最先端で活躍する科学者の中にも、少なからず「神の実在」を信じている人が存在するし、そうした「矛盾」を矛盾とも思わないで、支持する人たちも大勢いる。
そしてこれが「人間の現実」なのだから、チョムスキーのリアリズム言語論が反発されるのも、ある意味では当然。チョムスキーの言語論に反発する人たちには、チョムスキーの言語に対する考え方が「人間不在=人間の特権性への無視」というふうに感じられているのであろう。
つまり、チョムスキーのリアリズム的な仮説への反発は、きわめて「人間的なもの」に発しており、決して「科学的なもの」ではない。すべては(科学に対する)「人間の(感情的な)態度」の問題なのである。
したがって、チョムスキーへの反発の動機は、こうした「イデオロギー」や「信仰」や「趣味的理想」といったものだけではなく、さらにもっと卑俗な感情に発するものも少なくない。
例えばそれは、「世界的な知の巨人」というチョムスキーの栄光に対する「妬み」である。
チョムスキー関連著作へのAmazonレビューを読んでいると、ときどき、チョムスキーの言語学理論を真っ向から否定する「無名の素人」レビュアーを見かけることがある。
そんなとき私は「この人は何者なのだろう?」「そんなにハッキリとチョムスキーを否定できるほどの根拠や理論があるのなら、それを書いて出版すれば、たちまち世界的な著名学者になれるのに」と思うのだが、そういう人にかぎって、多少なりとも知名度がある人、ではないようだ。
「この人は、チョムスキーを批判する前に、自分を疑うことをしないのか?」と疑ってしまうのだが、どうやら、そういうタイプの人は、一度立ち止まって考える、ということはしないらしい。彼らは、チョムスキーを批判するのに懸命で、自己批評にまでは手が回らないようなのである。
そして、こういう人の特徴は、「根拠提示がなく、否定的断言の連続」で、かつ「衒学趣味的」なのである。
大チョムスキーを否定するためには、「声がでかく、語調強く」「他の権威の後ろ盾」がなければならない、ということなのだろうが、これは見事に、チョムスキーの「リアリズム」と「反権威主義」とは、真逆な特性だと言えるだろう。
その意味でも、感情的に、チョムスキーに反発するのは、きわめて自然なことなのである。
例えば、私もレビューを書いた、酒井邦嘉『チョムスキーと言語脳科学』(インターナショナル新書)について、レビュアー「板風」氏は、星2つをつけた上で「「チョムスキーを超えて 普遍文法は存在しない」への反撃に書かれたか?」というタイトルのレビューを書いている。
その中で氏は、チョムスキーの言語論を、
と批判している。そして、このレビューには、35人もが「役に立った」という評価を与えているのだ。
そこで、どんなにすごい内容なのかと読んでみた結果、私の評価は、次のようなものだった。
これは、「板風」氏のレビューの「コメント欄」に書き込んだものである。(※ 「Amazonカスタマーレビュー」はコメント機能を廃止され、コメントログは失われています。)
氏からのレスがあるかどうか定かではないが、興味のある方は是非チェック願いたい。
また、別の例としては、チョムスキーの『統辞構造論 付『言語理論の論理構造』序論』(岩波文庫)には、レビュアー「木村弘一(こういち)」氏が、星1つをつけたうえで、「「脳機能=精神」と言う進化論言語学は全滅。構文論=意味論なのでゲーデルdm も没。」というタイトルのレビューで投じており、
と評価し、なにやら難しげなことを書いておられる。(※ このレビューは、削除されたのか、現在は存在しません)
そしてさらに、
という、私には理解不能な難しいことを書いて、レビューを締めくくっておられるので、どういう方かと、氏のホームページをチェックしてみると、氏は『デカルト・ニュートン派の 自然科学的 神学、とりわけ、数理 神学、を研究中。』の「作曲家」で、難しげな洋書のレビューも書いておられたので、思わず「おお、これは!」と感心させられてしまった。
ともあれ、チョムスキーのような人は、こういう「一攫千金を夢見る人」たちの標的になりやすいようで、「有名人は、大変だなあ…」と、あらためて思い知らされた次第である。
初出:2019年9月24日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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