ウィリアム・フリードキン監督 『恐怖の報酬』 : 名作のリメイク大作
映画評:ウィリアム・フリードキン監督『恐怖の報酬』(1977年・アメリカ映画)
昨年来、よく行く単館系の映画館「第七藝術劇場」で、ウィリアム・フリードキン監督作品『恐怖の報酬』の「オリジナル完全版」をやるというので観てきた。
『恐怖の報酬』が、名高い名作だというのは知っていてが、詳しいことは知らなかった。子供の頃にモノクロテレビで視たような気もして、トラックを運転する薄汚れたオジサンのイメージが浮かんでくるのだが、本当の記憶か、後からイメージされただけのものなのかは、定かではない。
まあ、それはともかく、私はフリードキン監督の『エクソシスト』の大ファンなので、フリードキン作品ということなら、ぜひ観たいと思ったのである。
しかしながら、観に行こうと決めた後に、本作が「リメイク版」であることを知った。
オリジナルは、1953年に公開されたフランス映画、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督による『恐怖の報酬』である。
そんなわけで、もしかすると、私は子供の頃に、クルーゾー版の『恐怖の報酬』(以下「クルーゾー版」と記す)をテレビで視ているかもしれないのだが、いずれにしろ、ストーリーなどは、もはや記憶にない。何か危険物を運ぶというのは知っているが、これも後付けの知識のような気がする。
そんなわけで、今回、フリードキン監督によるリメイク版『恐怖の報酬』(以下「本作」または「フリードキン版」と記す)を観ても、オリジナル版と、どこがどのように違っているのか、あるいはそのままなのかはわからなかったため、鑑賞後に、そのあたりについてはネット検索で知識を仕入れたという次第である。
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まず、「クルーゾー版」についての知識を得る前、「フリードキン版」を観た直後の感想なのだが、正直なところ、少々期待はずれだった。悪くはないが、「名作」というほどではないのではないか。
「クルーゾー版」は「名作」だったのかも知れないが、「フリードキン版」は「大作」の印象が強い。つまり、非常に贅沢に作られていて、その点では見どころに溢れてはいるものの、いささか長すぎて、洗練や凝縮といった「完成度」の高さが感じられなかったのだ。わたし的には『エクソシスト』に比べると、かなり物足りなかったのである。
「フリードキン版」の「オリジナル完全版」は、2時間2分(2時間1分)の長尺である。しかも、
という、金と時間のかかった大作で、なるほど贅沢な作りの映画だというのは、すぐにわかる。
これは、『フレンチ・コネクション』や『エクソシスト』を世界的に大ヒットさせたフリードキン監督が、この作品を是非とも撮りたいということで申し入れたもので、それに2大メジャー・スタジオが出資したということのようである。
ただし、本作が2時間超の「大作」になったのは、オリジナル版である「クルーゾー版」自体が、2時間28分の超大作で、フリードキンは、それをリメイクしようとしたため、おのずと長くなったのだ。
ただ、この、いかにも力の入ったリメイク版は、興行的には失敗作になってしまった。『製作費2000万ドルに対して全米配収が900万ドルしか得られなかった』(全同)のである。
また、そのために、全米公開後、世界へ配給されたのは、1時間31分に切り詰められた「インターナショナル版」であった。
ラスト以外、どのあたりが切り詰められたのか、正確なところは知らないが、私が「オリジナル完全版」を観た感じでは、4人の主人公が、某途上国に集まってくるまでの経緯を紹介した部分が、かなり切られたのではないかと思われる。この4人の海外逃亡の原因についての事情描写が、いささか丁寧すぎて、全体としてのバランスが悪いように思うのだ。
そして、私がこのように感じるのはたぶん、むかし観た超大作戦争映画『遠すぎた橋』(リチャード・アッテンボロー監督、1977年)の悪印象があるからだろう。
この映画は、オールスターキャストで作られた作品なのだが、人気俳優それぞれに、それなりの見せ場を作ったせいで、全体としては散漫な、緊張感を欠く作品となっていたのである。
ただ、「フリードキン版」で、物語前半の「4人が集まってくるまで」(後半は「ニトロのトラック輸送」)が、長くなってしまったのは、たぶん「クルーゾー版」への敬意からであろうと思われる。
みずからリメイク版を企画したフリードキンは、当然のことながら「クルーゾー版」と、同監督への深い敬意を抱いていたので、登場人物の設定変更や、オリジナルエピソードを加えはしても、「クルーゾー版」が重視した「人間を描く」という核心部分に手を加えるつもりはなかったということなのであろう。だから「フリードキン版」もまた、「クルーゾー版」と同様、物語前半の「4人が集まってくるまで」が、かなり丁寧に描かれているのだが、しかし、それが映画的に成功しているかというと、私にはそこまで高くは評価できなかった。この「フリードキン版」の中心は、あくまでも後半の「ニトロのトラック輸送」におけるサスペンスであって、主人公4人の、そこに至る事情説明を、これほど丁寧にやる必要があったとは感じられなかったのだ。
では、「人間を描く」ことを重視した「クルーゾー版」の方は、その部分でどうであったのか。それは、そちらを観ていない私には判断できない。
ただ、「クルーゾー版」と「フルードキン版」を比較した、尾崎一男によるコラム「極限の緊張サスペンスに込めたクルーゾ監督の狙いと、それを継受した1977年リメイク版との関係性を紐解く〜『恐怖の報酬(1953)』」によれば、そのあたりの事情を窺わせる、次のような記述があった。
つまり、「クルーゾー版」には、大戦後10年を経て、ソ連と共に相対立する「2大強国」となり、世界各地で「やりたい放題」をやっていた、アメリカへの批判が、「虐げられた人たちへの同情」とともに描かれていたのである。
「1955年」と言えば、1950年から1953年までの「朝鮮戦争」と、1954年から1975年までの「ベトナム戦争」という具合に、ソ連との世界覇権争いである「東西冷戦」を背景に、両者の「代理戦争」がおこなわれ、それへの反発が世界的に広まっていた時代なのだ。
また、フランスは、戦争終盤で連合国のアメリカ軍に解放されたとはいえ、一度はナチスドイツの軍門に下った国であり、他国に蹂躙されることの屈辱も知っていれば、そもそも民衆革命たる「フランス革命」の国なのだから、フランスの知識人が、アメリカとソ連という、両大国のやりたい放題に、理念的に反発したのも、当然のことだったのである。
ところが、残念なことに、1977年に作られた「フリードキン版」には、そうした反米感情は感じられなかった。
アメリカ映画なのだから当然だと言ってしまえばそれまでなのだが、ベトナム戦争がすでに終わっていたということも大きかったのではないだろうか。
ベトナム戦争下の1970年にアメリカで制作された、ロバート・アルトマン監督の『M★A★S★H マッシュ』は、「朝鮮戦争」を描いて、自国アメリカを皮肉った「反戦映画」だったのだけれど、この時代とて、自国の批判の「反戦映画」を撮るのは、決して容易なことではなかった。20世紀フォックス社が、『M★A★S★H マッシュ』と同時進行で制作していた他の戦争映画は、低予算の『M★A★S★H マッシュ』とは真逆の大作映画で、いかにも「戦意高揚」を意図したような2本、『トラ・トラ・トラ!』(監督・リチャード・フライシャー、舛田利雄、深作欣二)と『パットン大戦車軍団』(フランクリン・J・シャフナー監督)だった。
1970年代前半まで、つまりベトナム戦争が終結するまでは、アメリカ国内でも「ベトナム反戦運動」が盛り上がり、のちに「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれることになる「反体制的な作品」が撮られはした。しかしそれも、ベトナム戦争が終結すると、そうした気分は急速に失われて、世間の空気は享楽的な方向へ流れてしまったというから、本作、フリードキン版『恐怖の報酬』に、アメリカ批判的な部分が感じられないのも、そうした時代の空気を反映しているのかも知れない(ちなみに、同年制作の映画として、ジョージ・ルーカス監督の『スター・ウォーズ』第1作がある)。
ここで、あらためて「フリードキン版」の「あらすじ」を紹介しておこう。
ここで注目すべきは、主人公たちが海外逃亡の果てにたどり着いたその国が『ジャングルに囲まれた南米のとある独裁国』と、曖昧、つまり「匿名」的に設定されている点だ。前に引用したとおり、原作小説では、その国は『南米グァテマラ』だと、はっきり書かれていたのにだ(正確には、そう書かれていたと、指摘されていた)。
どういうことかと言えば、「東西冷戦」下、中南米諸国の社会主義化を恐れるアメリカの謀略により、多くの国で「軍事クーデター」により、軍事独裁政権が樹立され、「アメリカの属国」になっていった、という歴史的事実の存在だ。
グアマテラは、『南米』ではなく「中米」なのだが、要は「中南米=ラテンアメリカ」であり、中南米の多くの国が、多かれ少なかれ同様のアメリカの謀略にさらされていた。
例えば、グアマテラの東方、カリブ海に浮かぶキューバは、エルネスト・“チェ”・ゲバラやフィデル・カストロらによる反米独立革命闘争で有名だ。
あるいは、アメリカにより仕掛けられた軍事クーデターによる軍事政権によって、多くのリベラルな市民が暗殺され、ごく最近、そうした人々がどうされたのか、国家として解明に取り組むと宣言して話題になったチリも、有名である。
つまり、「フリードキン版」に描かれる、舞台となる「某国」とは、明らかに「アメリカによって樹立された軍事独裁国家」を暗示しているのである。具体的には、どこの国かが示されておらず、事情を知らない者が今の感覚で観れば「アフリカあたりの独裁国家?」くらいに見えてしまうが、そうではないのだ。
しかし、フリードキンの「抵抗」はここまでで、所詮は「アメリカの巨大資本」によって作られた「娯楽大作」だからこそ、そこからは「反米感情と、虐げられた人々への同情」の部分が、大きく脱色されてしまった(その点では、会社からの鑑賞を避けて自由に作るために、あえて低予算を選んだロバート・アルトマン監督の『M★A★S★H マッシュ』とは、真逆の作品だとも言えるだろう)。
そして、この肝心の部分を抜きにして「人間を描く」ことをしても、それが「クルーゾー版」的な切実さを持たないものになったというのは、むしろ当然の結果だったのではないだろうか。
結局「フリードキン版」は、「クルーゾー版」へオマージュを捧げながらも、このような事情によって、中途半端に「オリジナルに忠実」な作品とならざるを得なかったのであろう。
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そんなわけで、「フリードキン版」は、4人の主人公の設定を変え、「個人的な事情」に関する描写を、次のように強化している。
また、後半部の「ニトロのトラック輸送」の部分では、
と、「クルーゾー版」には無かったディテールが付け加えられており、たしかに「手に汗握るサスペンス」を盛り上げている。一一だが、そうした「サスペンス」というのは、古びるものなのだ。当時としては斬新であり、オリジナルのアイデアであっても、今となっては「どこかで見たような」ものとして、消費されてしまっているのである。
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そんなわけで、本作、フリードキン版『恐怖の報酬』は、決して「凡作」ではない。いかにも「大作」らしい見せ場が随所にあって、その意味では十分に楽しめる作品となってはいるのだが、しかし「傑作」かと言えば、そこまで高くは評価し得ない。
その理由は、本作が、いかにも「ハリウッドの娯楽大作」ではあっても、「傑作」と呼ばれる作品だけが持つ「芯」のようなものを欠いていたからではないかと、私にはそう感じられたのである。
(2023年9月23日)
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