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今村夏子 『こちらあみ子』 : コミュニケーションの不思議

書評:今村夏子『こちらあみ子』(ちくま文庫)

現時点での最新作『むらさきのスカートの女』を読んで、とても面白かったので、第一作品集『こちらあみ子』に戻って読んでみた。
本作には、表題中編のデビュー作「こちらあみ子」と、同じく中編の「ピクニック」、短編の「チズさん」の、3編が収められている。

「こちらあみ子」は、発達障害のある少女あみ子と、その家族や同級生たちとの日常を、あみ子の視点から描いた作品。
あみ子は当たり前のことをしているつもりなのだが、結果としては、多くの場合「善意の人たち」である周囲の人たちを、傷つけたり苛立たせたりしてしまう様子が描かれる。
問題は、あみ子がそのことにまったく気づかないでマイペースに生きてしまうところなのだが、無論、あみ子に悪意のあることではないからこそ、ことは厄介になってしまう。

「ピクニック」は、ローラーシューズを履いた女の子たちがダンスをしたり食事を運んだりするのが売りの店に入ってきた、ひとまわり年上に新人である七瀬さんと、語り手のルミたち歳下の先輩の交流の物語。
七瀬さんは、年上でありながら、先輩たちに非常に丁寧で献身的に接するため、ルミたちからも愛される存在になるのだが、彼女はある売り出し中のお笑いタレントと付き合っていると言う。ルミたちは、七瀬さんの話を素直にうけとめて、彼女を応援するのだが、七瀬さんの後に入った若い女の子が、先輩に対する礼儀を欠き、特に七瀬さんのことをバカにしたような態度をするため、ルミたちはその新人に注意をするのだが、その新人はルミたちに、七瀬がタレントと付き合っているなんて話は嘘に決まっているし、それを真に受けて応援しているルミたちは人が良すぎる、と反論するのであった。そうこうするうちに、七瀬がつきあっているはずのタレントが、アイドルとの結婚を発表し、七瀬が職場に姿を見せなくなってしまう。

「チズさん」は、認知症が入っているらしい独居老人であるチズさんの家をたびたび訪問して、チズさんの生活をサポートしているらしい女性の一人称小説。
ある日、語り手の女性がチズさんの家で、いつものようにチズさんの面倒を見ていると、突然、チズさんの子供家族が訪れ、語り手の女性はなぜか、その家族に見つからないようにあわてて身を隠すのだ。

このように紹介すると、なんだがまともなコミュニケーションが成立していない、ちょっと暗い小説のような印象を与えるかもしれないが、そうではない。
と言うのも、今村夏子の小説の主人公たちは「常識」に欠けるところはあるものの、自分のものの見方に自信を持っており、それを朗らかに生きる、とても魅力的なキャラクターの持ち主ばかりだからだ。
あみ子は無論、ルミも七瀬も「チズさん」の語り手の女性も。

彼女たちが、躊躇なく信じている他者とのコミュニケーションは、第三者的には「独り善がり」で「一方通行」なものの組み合わせでしかないのかもしれない。だからこそ「ピクニック」の新人の女の子は、そんな「嘘」や「嘘を鵜呑みにしてのつきあい」に苛立ちを隠せなかったのだろう。彼女には、それが「偽のコミュニケーション」だと思えたのである。
その意味では、あみ子のコミュニケーションも完全に一方通行であり、「チズさん」の語り手のそれも同様であって、およそこれらの作品に中には「双方がお互いに理解しあってのコミュニケーション」というものが登場しない。
だからこそ、どこか非現実めいた不思議な感触をあたえるのだが、しかし、「双方がお互いに理解しあってのコミュニケーション」なんてものが、本当に「当たり前」なのか? いや、そもそも、そんなものは実在するのだろうか?

私たちは普段、完全ではないにしろ「双方がお互いに理解しあってのコミュニケーション」ということをしている、つもりになっている。
しかし、考えてみれば、私が相手を本当に正しく理解しているのかどうかは、いささか疑わしいし、逆に相手が私を正しく理解してくれているというのも疑わしい。
お互いに、付き合うのに支障がない程度の理解はあるだろうが、しかし、本当にどれだけ理解しあって、私たちは人づきあいをしているのだろうか。

そのように考えてみると、もしかすると私たちの人づきあいは、じつのところ「こちらあみ子」「ピクニック」「チズさん」に描かれたコミュニケーションと、ほとんど違いはないのではないだろうか。

だが、しかし、それが「いけないこと」なのだろうか、とも思えてしまう。
「双方がお互いに理解しあってのコミュニケーション」というのは、なるほど「完全」ではあるものの、どこか窮屈な印象を与えもする。そもそも他人が自分の裏表ぜんぶを理解するなんて、あまり嬉しいことではない。
ならば、あみ子やルミや七瀬や、あるいは「チズさん」の語り手が体現したような、他者への「肯定的な誤解」や「肯定的幻想」に裏づけられたコミュニケーションというのは、ある意味で、完全に正しいのではないだろうか? むしろ、これこそが「正しいコミュニケーション」であるからこそ、私たちは彼女たちに肯定的になれるのではないだろうか。

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【補記】(2019.07.12)

以下にご紹介するのは、現時点で既巻の今村作品5冊を、すべて読んだ段階で書かれた「今村夏子論」である。
つまり、個々の作品論ではなく「作家論」として書かれたものなので、それまでに書かれた作品論としてのレビューの巻末に収録させていただいた。
なお、下の書籍タイトルは、上から刊行順で、末尾に付して数字は、私が読んだ順番である。

『こちらあみ子』(2)
『あひる』(4)
『星の子』(3)
『父と私の桜尾通り商店街』(5)
『むらさきのスカートの女』(1)

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 あなただって変な人:今村夏子論(拡張版)
  一一 Amazonレビュー:今村夏子『父と私の桜尾通り商店街』

本書『父と私の桜尾通り商店街』には、表題作の他「白いセーター」「ルルちゃん」「ひょうたんの精」「せとのママの誕生日」「モグラハウスの扉」が収められている。

現時点での最新作である『むらさきのスカートの女』から読み始めて、『こちらあみ子』『星の子』『あひる』と読んできて、現在刊行されている本としては最後に残った本書『父と私の桜尾通り商店街』を読了した現時点では、本書が最も完成度の高い1冊だと思う。

今村夏子の作風については『あひる』を読んだ段階で、「ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論」を書いたので、本書については、その読みが外れていなかったかどうかを確認しながら読んだのだが、どうやら私の読みは、大筋で外れてはいなかったようである。

おなじことを繰り返すのも何なので、先に前記の『あひる』についてのレビュー「ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論」を紹介してから、後で本書『父と私の桜尾通り商店街』について書くことにする。

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 ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論
  一一 Amazonレビュー:今村夏子『あひる』

今村作品は『むらさきのスカートの女』『こちらあみ子』『星の子』に続いて4冊目だが、今村夏子の実像が、かなり見えてきたように思う。

本作には、表題作「あひる」のほかに「おばあちゃんの家」「森の兄妹」が収録されているが、他の長編や作品集にくらべると、やや児童文学的な柔らかさが強いように思う。
しかし、独特の「不穏さが漂う」といった点は、他の作品と変わりはないので、本質的な違いはどこにもないと言って良いだろう。

さて、4冊目にして私が読み取った「今村作品の本質」とは、今村が描くのは「どこか不穏さをかもす、しかし優しい日常」といった「上っ面」ではなく、「日常に存在する不穏さに、過剰なドラマ性を見てしまう偏見を突いてくる、その批評性」ということである。

例えば『星の子』は、新興宗教の信者家族を描いており、それゆえの周囲との軋轢葛藤も多少はあって、その点で「危うさ」や「不穏さ」が漂うのだが、しかし、物語は最後まで、よくある「破局」も「どんでん返し」もなく、「そのまま」の日常が続いてしまう。

これは、本作品集の「あひる」「おばあちゃんの家」も同じで、これらの作品の語り手家族も、なにやら熱心に「神さまを拝んでいる」ようだが、それで大きな破綻がおとずれるわけではなく、物語はありふれた日常的生活の中に収まってしまう。
「おばあちゃんの家」のおばあちゃんは、認知症のせいか、最後は性格が変わってしまうが、悪い方に変わるわけではない。単に活発になるだけだ。
また「森の兄妹」に登場するおばあさんも、すこし怪しげではあるが、結局はただの子供好きなおばあさんに過ぎない。

そして、これは『むらさきのスカートの女』や『こちらあみ子』でも同じだ。
これらの作品では、直接「宗教」が描かれるわけではないけれど、いわゆる「変人」や「知的障害者」といった「普通から外れた人たち」が描かれて、多少は周囲の「普通」に波風を立てはするものの、それで決定的な「破局」や「どんでん返し」的なものがおとずれるわけではなく、最後は「日常」に回帰してしまう。

つまり、今村の描く「日常」とは、私たちの考える「影の差さない日常」などではなく、「ときどき影が差す(ものである)日常」なのだ。

私たちは、普通に生きていれば、ときどきその生活に「不穏な影」がさすものなのだが、それはたいがい「不幸の予兆」などではなく、たんなる思い過ごしで、いつのまにか何事もなく過ぎ去ってしまうものだ、ということを知っているのではないだろうか。

それなのに、私たちは「小説」などのフィクションのなかで「不穏な影」がさすと、それを、何か不幸がおとずれる「サイン=合図」であり「伏線」だと思いこんでしまう。そのような「物語的紋切り型」に馴らされてしまって、小説というものに「偏見」を持ってしまっているのだ。

つまり、今村夏子は、そうした「偏見の虚構性」を、物語において突いているのである。「その発想は、馴れによる偏見に過ぎないよ。予感はあくまでも予感であって、的中する予言でなんかないんだ」という批評であり、これはきわめて「純文学的な試み」だと言えるだろう。

私たちは「新興宗教」というと「うさんくさい」とか「何か裏があるのではないか」などと、紋切り型の発想で偏見を持ってしまうが、言うまでもなく新興宗教にもいろいろあって、それは人間に白人もいれば黒人もいるとか、日本人にもネトウヨもいればパヨクもいるしノンポリもいる、といったことと同じである。

しかし、私たちは「密室殺人が起これば、そこにトリックがある」などといったような「パターン」で物語を見てしまう。たしかにこれは「効率的」な読み方ではあろうものの、慎重さには欠けて、きわめて「先入観に無自覚」であり「偏見」的だと言ってもいい。

今村夏子は、こうした私たちの「物語的偏見」を、「反・物語」によって逆照射して見せているのではないだろうか。「こっちの方が、当たり前(普通)なんですよ」と。

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私は、上のレビューで、今村の小説を「反・物語」と表現した。これは、「小説のお約束」を意識的に裏切ってみせる、批評性を込めた小説、のことである。

よく言われるように、今村の作品は「不穏」と「優しさ」が同居している「不思議な世界」なのだが、この「不思議さ」は、小説的に「ありがちなパターン」にはハマらない、むしろ本来ならば相性が悪いとさえ考えられている「不穏」と「優しさ」が同居させられている点においてこそ、良い意味で読者は「予想」を裏切られ、その意外性を楽しむことができるのだ。つまり、平たく言えば「ありきたりの小説」ではないのである。

しかし、上に紹介した「今村夏子論」でも指摘したとおり、そうした「面白さ」は、読者の側が「小説」ばかりではなく、「人間」に対しても「偏見」を持っていればこそ、なのだ。

「普通の(まともな)人間」とはどういうものであり、「普通の(まともな)正義」とは、「普通の(まともな)人間関係」とはどういうものかといったことについて、決まりきった「常識」としての偏見に縛られて、そこから外れたものを「おかしなもの」「狂ったもの」「間違ったもの」と、深く考えることもなく決めつけてしまっているからこそ、そうしたものの裏をかいてくる今村夏子の作品は、「不思議」な作品であり、それでいて読者にひと時の「自由」を与えてくれるのである。
「あなただって、べつに普通である必要はないんだよ」と。

例えば、「白いセーター」の語り手は、いたってまともな女性のようだが、こまっしゃくれた子供にひどい目にあわされたあげく、最後は、ちょっと「おかしな人」になってしまう。
なぜに「嫌な思い出」のしみ込んだセーターを後生大事にしまい込み、それをときどき持ち出しては匂いを嗅いだりするのだろう。これは「普通」なら、倒錯的な行動なのだけれども、しかし、嫌な思い出によってこそ、つかめる「リアルな世界」というものもあろう。わたしたちは「きれいごととしての普通」のなかでだけ生きているわけではないのだ。

「ルルちゃん」では、語り手が知り合った、「普通」に魅力的で、しかし虐げられた子供に対する情の濃い女性が登場する。この女性は、常識的には非常に真っ当な人だし、やや過剰とも思える(ある意味では、イワン・カラマーゾフ的な)「虐げられた子供たちへの愛情」についても、本人は十分に自覚的なので、決して「異常」呼ばわりするのは妥当ではないだろう。
そして、その女性が、自分の力では救えない「虐げられた子供たち」への代替的愛情表現として、人形のルルちゃんを抱きしめるという行為も、決して異常なものとか言えない。
しかし、ルルちゃんの立場に立てば、それは迷惑なものにしか感じられないだろう。だからこそ、語り手は、ルルちゃんをその女性から「盗んだ」のではなく、「救出」したのである。それが語り手の「普通」感覚なのだ。

「ひょうたんの精」は、「普通」に読めば、幻想小説か「幻想にとり憑かれた女性」の物語ということになるだろうが、他人にはそうとしか思えなくても、彼女自身はそれを少しも不都合には感じておらず、その世界観を納得して生きているのだから、彼女の世界観が否定されねばならない謂れはどこにもない。
彼女は何も「間違って」いないし、狂ってさえいない。あえて言うなら、すべての人は、程度の差こそあれ、それぞれの幻想世界に生きているからである。

「せとのママの誕生日」も、「スナックせと」に集った、元従業員の女性たちがそれぞれに語る「ほとんどあり得ない奇妙な思い出」が、「矛盾なく」交錯する世界である。
「せとのママ」がいるかぎり、彼女たちの物語は、決して否定されることはなく、むしろ他には代えがたい独自性を持つ「大切な思い出」として、そのまま存在し得るのである。

モグラハウスの扉」も、モグラさんという道路工事作業員の語った「物語」を生きる女性と、その女性とその女性の信じる世界を共有しようとする語り手の物語であり、彼女たちの間には、何の矛盾も不都合もない。

「父と私の桜尾通り商店街」にいたると、語り手が掴んで離さない「物語」は、現実の方を変えていこうとさえする勢いだ。

こうした「物語」から伝わってくるのは、私たちの持つ「普通」「常識」といった物語は、「周囲の顔色を窺い、周囲の世界観を内面化した、借り物」でしかない、ということなのではないだろうか。

たしかに無難に生きるのであれば、その方がいいのかも知れないけれど、しかしそれは、自ら進んで「凡庸な世界」を選ぶことでもある。
もしも私たちが、もっと「自分らしい世界」を生きたいと思うのであれば、「周囲の(無難な)世界」を弾き返すくらいの強度を「自分の世界」に与えなければならない。無論、それが出来るのは、「世間を目」を怖れない特別な「強者」たちであって、彼女らは、決して「敗者」などではないのである。

初出:2019年6月27日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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