フランシスコに 神の祝福あれ : ロバート・ドレイパー 『ビジュアル 新生バチカン 教皇フランシスコの挑戦』
書評:ロバート・ドレイパー『ビジュアル 新生バチカン 教皇フランシスコの挑戦』(日経ナショナルジオグラフィック社)
アメリカのCNNが「アカデミー賞受賞作、聖職者の虐待描くもバチカン紙は評価」(CNN.co.jp 2016年3月3日(木)17時23分配信)と題するニュースを配信した。その冒頭部は次のとおりである。
これを読んだ多くのカトリックは「ああ、フランシス教皇の率いる、今のバチカンだからこそ、こういう映画を積極的に評価したんだろうな」と気づいたことだろう。
保守的で権威主義的だったが世間的には人気の高かったヨハネ・パウロ2世の時代には、こうした問題は抑え込まれていたが、次の保守的だが学者気質で政治力に乏しいベネディクト16世の時代になって、こうした各種の問題がいっきに表面化して、同教皇を異例の生前退位に到らせる。
このようなカトリック教会の危機的状況をうけて教皇となったのが、本書『ビジュアル 新生バチカン 教皇フランシスコの挑戦』の主人公で、現教皇のフランシスコである。
どちらかと言えば地味な彼は、教皇になった後、その庶民的な親しみやすさを纏いながらも、バチカンの旧弊で権威主義的な体質の改善に大胆に取り組んだ。その苦労は、外部の者の想像を絶するものであろうが、それでも彼の勇気ある行動が、カトリック教会への人々の親しみと信頼を取り戻すために大きく貢献しているというのは間違いのない事実だろう。
バチカンの歴史は、改革と反動の繰り返しであり、フランシスコの努力がこの先、彼を継いだ教皇たちによってどのような道を辿るかは、予想のかぎりではない。
しかし、自身もまた間違いを犯す一人の人間であることを謙遜に認めつつ、いま現に貧しい者によりそって行動する彼の姿は、必ずやカトリック教会の歴史に、ひとつの希望の光として遺されることだろう。
他のレビューを見てもらえばわかるように、私はキリスト教の信者ではないし、特にカトリックには批判的な人間だが、写真と文章によって本書に描き出されたフランシスコの姿には、感動の涙さえ禁じ得ない。
たぶん我々非クリスチャンも、宗教指導者というものの理想として、フランシスコの示したような、温かくて強い、そんな姿を心のそこで期待しているのだろう。
フランシスコの健康と活躍の長からんことを心から祈りたい。
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【関連論文】(初出:mix日記・2017.10.07i)
イエスに不忠実なキリスト教徒という背理と現実
「偽善的信者より無神論者の方がまし」、ローマ法王フランシスコがミサで言及
2017年2月24日 / 14:04 (ロイター通信 )
この見出しでは、まるでフランシスコ法王がこう言ったかのように見えるが、そうではない。
カトリックには、よそからこのように非難されても抗弁はできない現実があるのを、カトリックの役務者は無論、一般信徒も直視し、これを悔いて改めなければならない。信仰とは、信じていますと口にしさえすれば、それで救われるなどということではない。
一一このような、非常に厳しい原則論を、まっすぐに説いたのである。
記事原文を紹介しておこう。
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[バチカン市 23日 ロイター]
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すこし解説しておこう。
キリスト教の世界では、カトリックの聖職者は無論、一般信徒にも「偽善者」が多いと揶揄批判されてきた。
この多いというのは、何と比べて多いという意味なのかは、なかなか難しい。
例えば、プロテスタントに比べて多いかどうかは定かではない。非信仰者あるいは無神論者よりも多いか否か、そんなことわかるはずもない。
だが、主体的なカトリックであるならば、カトリック信者は、当然のことながら「二枚舌」を弄する「二重生活」であって良いなどと認められようはずがない。
神の前に告白し誓ったことを、一言一句違えて良かろうはずがない。
もちろん、人間は弱いから、いくら頑張っても、誓ったことのすべてを実行することはできないだろう。つまり、心ならずも神を裏切ったり背いたりすることもあるだろう。
しかし、そんなこと神は百も承知なさっており、最後は、そういう人間的な弱さを認めて、許して下さる。
しかし、だからと言って、臆面もなく、自分の欲望のままに、二枚舌を使って神まで謀ろうとするような者を、神がただ許すはずもない。
最後は救われるだろうが、それは心から救われたいと思い知らされてから、ということになるだろう。神は無限の愛において、峻厳でもある。救うために、時に残酷ですらある。
だからこそ、カトリック信者は、何があろうとも、最後は神が救ってくださるのだという事実を信じて、神の前に謙遜に生き、神のしもべとして、人々に奉仕しなければならないのである。
フランシスコの言いたかったことは、そんなことだったのだと、無神論者の私にだってわかる。
信仰とは、文字どおり命がけの選択であり行為である。
また、そう信じるからこそ、そう簡単に神の実在を信じるわけにもいかないので、私はいまだ無神論者なのだ。
だから、口では『自分が熱心なカトリック信者で、いつもミサに行き、いろいろな団体にも所属している』などと自慢して言いながら、現実には『従業員に適切な賃金を支払っていないとか、他人を搾取しているとか、汚い仕事をしている』などといった者たちは、その二枚舌で神を欺きおおせるなどと思っている人間、およそ『キリスト教徒的でないと言うべき人』である。
そんな「神に不実なカトリック信者=信じていない信者」に比べれば、「神を信じられないという事実に誠実に生きる無神論者」の方が、まだしも人間として「誠実」なのは間違いない。
フランシスコは就任以来、カトリック教会の旧弊や欺瞞を改革し続けている、リベラルな法皇である。
しかし、そんなフランシスコを「リベラルの仮面を被った保守主義者」だと非難する人もいるらしい。
どういう人が何を思ってこのような非難をするのか詳らかではないけれど、フランシスコが近代以降のヒューマニズムや自然科学的知見よりも、聖書に記されたイエス・キリストの教えを優先する人だというのは確かであり、そのことをして保守主義者だと言うのであれば、それは御門違いというものあろう。
フランシスコもまた、まずはカトリックの熱心な信者であり、その点においては非信仰者のリベラルとは、もともと根本的に違っているというのは、自明の前提なのである。
彼は、リベラルな思想の持ち主だから、カトリック教会の改革を行ったのではなく、カトリックの信者として、教会を保守するために、あるいは教会をあるべき姿に戻すために、命をも賭けた改革を行っているのである。
それを、非信仰者の価値観と同一視したなら、それは誤解以外の何ものでもないのは明らかだろう。
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ちなみに、カトリックと限定はしないまでも、現実のキリスト教徒が、私たちのイメージに反して、いかに俗物が多く、信仰に薄い者の少なくないかを知るための事例を、ここで紹介しておこう。
非クリスチャンとしてキリスト教の教義と実態を勉強してみて、まず驚かされるのは、聖書を通読していない一般信者がけっこういる、という事実である。
生まれた時から周囲も自分もクリスチャンであるというような国の信者ならば、さほど熱心ではない人が多くても不思議ではない。
しかし、カトリックとプロテスタント各教派をぜんぶ引っ括めても、全人口の1パーセントにも満たないという日本のクリスチャンにおいてすら、聖書の通読をしたことがない信者が少なくないのだ。
その証拠に、大型書店のキリスト教書コーナーへ行けば、必ず何冊かの『マンガで読む聖書』『マンガ聖書物語』『絵画で見る聖書』といった類いの本が常時完備されている。
これらの本は、信者の子弟向けであったり、キリスト教に多少興味がある非信者のためのものでもあろうが、そんな希少奇特な人だけを当てにしたものではない。
現に聖書を通読したことのない信者が結構いるという状況下で、信者として、教会で神父や牧師から聖書の断片を聞かされるだけでは、聖書が具体的にどういう書物なのか、さっぱりわからないのだが、しかし、あの分厚い聖書を読む自信はないので、マンガで済ませてしまおう、という信者も少なくないはずだ。
大きな声では言えないけれど、ぜんぜん知らないよりはマシだし、無知な非信者になら知ったかぶりも出来るのだ。
驚くべきことに、その昔、神の権威を独占しようとした教会は、一般信者が聖書を読むことを、基本的に禁じていた。
もともと旧約聖書はヘブライ語で書かれたユダヤ教の文書集であり、新約聖書の文書群も、古代ギリシャ語で書かれたものだか、それらが合冊編集されてギリシャ語に翻訳され、さらにラテン語に翻訳されるという過程のなかで、キリスト教は発展してきた。
にもかかわらず、全教会の首座を主張するローマ教会は、ラテン語聖書が唯一正統な聖書だと決めて、庶民が日常生活で使っていた各国語に翻訳することを禁じたのである。
しかし、活版印刷が発明され書物が大量生産できるようになると、聖書を求める声は当然大きくなり、ついに宗教改革の大立者であるルターによりドイツ語訳の聖書が刊行されるなどした(ルター以前にも同様の事例はあったが、弾圧圧殺された)。しかし、それ以降の長い年月を経たのち、現代にいたって、カトリック教会(ローマ教会)は、やっと聖書の翻訳を認めたのである。
では、なぜカトリック教会は、聖書の翻訳を禁じたのか。
本音は、聖書の言葉と権威の独占である。
一般信徒が聖書を読んでいなければ、どんなに聖書に反したことであろうとも「こう書いてあるから従いなさい」と言われれば、信徒はそれを信じるしかないからだ。
しかし、建前では「翻訳は、聖書の聖なる言葉を歪める行為であり、異端者の陰謀である」といったものだった。
たしかに翻訳は多少なりとも、原文の意味を歪めてしまいはするだろう。しかし、それならば、ギリシャ語訳やラテン語訳はどうなのか。
そこは、正統なる者によっての正統なる翻訳だから、神の言葉を髪の毛一筋も歪めていない、などと臆面もなく主張するだけなのだ。
そんな独善と横暴の結果として、聖書のどこにも書かれていない「煉獄」などというものが発明され、教会のカネ集めに利用され、悪名高き「免罪符(贖宥状)」が濫発され、それがルターらの批判を招き、教会がカトリックとプロテスタントに分裂するという、あってはならない事態を招いたのである(ちなみに、正確にはプロテスタントは分派ではなく、破門された人たちとその信者である)。
で、ずいぶん回り道をしたが、ここで話は『マンガで読む聖書』に戻る。
翻訳でさえ、正確なニュアンスが伝わらないからと禁じられた聖書の内容が、いったいマンガでどれだけ正確に伝わるであろう。
原作小説とドラマ、あるいは、原作マンガとアニメの違いを思い出してみるといい。
たしかに、筋立てはだいたい同じだが、表現形式が違えば、もはやそれらは「別作品」である。ニュアンスがどうこう言う以前に、基本的には別作品なのだ。
だから『マンガで読む聖書』を読んで、聖書の「あらすじ」を知ったところで、そんなもの、聖書を読んだことにはならないのだが、それでもまだ、自分なりに知りたいと思うだけマシ、というのが、日本のクリスチャンの少なからぬ部分の実態なのである。
そして、そんな人が、私はクリスチャンですと、すました顔をしていられるのだ。
また、これとは真逆で、神父や牧師のような専門教育を受けてはいないけれども、自分で聖書を読むだけでなく、専門的な神学書なども読んで、神学に一家言あるような、マニアックな一般信徒もいて、これはこれでまた、キリスト教信徒として恥ずべき人も少なくない。
その実例として、mixiの各種キリスト教系コミュニティで交わされている内輪の議論を覗いてみるといい。
かなりの確率で、神学的知識のひけらかしによる、鼻持ちならない自慢話を見かけることが出来る。
また、そんな知識を鼻にかけての、知ったかぶりの他教派批判はもとより、無教養な一般信者批判なども行なわれていて、およそそこには、イエスの説いた「謙遜」の徳など欠けらも見られはしない。
このようなクリスチャンの現実を知る者にとっては、フランシスコの厳しい信者批判も当然のこととと大いに同意賞賛できる。
また、こんなフランシスコだからこそ、我が身を危険にさらしてまで、歴代法王が考えもしなかった「マフィアの破門」などということが出来たのである。
ともあれ、キリスト教を信仰をするのなら、聖書の言葉に忠実に生きるべきである。
それが出来ないのであれば、二流の無神論者になるがいい。
ただしそこでは、中身のない、衒学趣味の神学的知識など、なお一層、何の役にも立たないのではあるが。
初出:2016年3月5日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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