見出し画像

山本おさむ 『赤狩り THE RED RAT IN HOLLYWOOD』 : 「赤いイデオロギー」という理想

書評:山本おさむ赤狩り THE RED RAT IN HOLLYWOOD』(全10巻・ビッグコミックス)

文句なしの傑作。
1940年代半ばから70年代半ばくらいまでのハリウッド映画を、あるていど見ていないことにはピンと来ないという難点はあるけれども、映画ファンにはいろいろな意味で興味深く、文句なしにおもしろい作品である。
幸いなことに私の場合は、この時期の作品の多くを、幼い頃にテレビで見ていたのだ。

(第1巻表紙。上から2人目は『ローマの休日』の監督ウィリアム・ワイラー
その下がドルトン・トランボ。上下の男女は、本作に登場する架空の人物)

ともあれ本作は、ドキュメンタリータッチの作品を得意とする漫画家・山本おさむの代表作と考えて良いと思う。
私は以前に、山本の『聖 天才・羽生が恐れた男』(全9巻)を読んでおり、この作品は、若くして亡くなった天才棋士(将棋指し)村山聖の生涯を扱ったもので、同作も十分面白かったのだが、本作『赤狩り THE RED RAT IN HOLLYWOOD』(以下『赤狩り』と略記)の方が面白いと感じられたのは、本作の方が、素材の幅が圧倒的に広く、美味しいネタが豊富だったからではないだろうか。
しかし、両作に共通するのは「不運な者による不屈の挑戦」を描いている、という点であろう。

『聖』の主人公・村山聖は、5歳のときに腎臓の難病であるネフローゼ症候群にかかっていることが発覚し、以来、この病いと戦いながらプロ棋士となり、「天才」と呼ばれて、トップクラスのプロ棋士として活躍し、同世代の絶対王者である羽生善治を何度も苦しめた存在だったが、29歳の若さで没して、いまや伝説的な人物である。

一方、本作『赤狩り』で中心的に描かれるのは、アメリカの映画界で伝説的な存在となった、名脚本家ドルトン・トランボだ(※「ダルトン・トランボ」と表記されることもあるが、ここでは本作『赤狩り』の表記に合わせておく)。
戦後間もなく始まった、ハリウッドにおける「赤狩り」の顛末が描かれた本作には、トランボのような脚本家だけではなく、同時代の有名監督や有名俳優が続々と登場するのだが、その名に恥じない身の処し方を示す者もあれば、卑小な姿を曝け出してしまう者もあった。圧倒的な国家権力による思想弾圧という逆境に立たされた人たちの赤裸々な素顔が描かれて、映画以上にドラマチックな人間ドラマが展開されるのだ。
そして、本作後半では、物語は「ハリウッドの赤狩り」には止まらず、アメリカ政治のリベラル路線への攻撃としての「ケネディ大統領暗殺事件」や、アメリカ黒人の公民権運動への弾圧であるキング牧師暗殺事件」、さらには朝鮮戦争」「ベトナム戦争」「キューバ危機といった全世界規模にまで肥大した「赤狩り」の暴走が、トランボの目を通すかたちで描かれていく。

本作はもともと、トランボを中心に据えつつ、「赤狩り」をめぐるハリウッド人たちの「人間ドラマ」を描こうとした作品であった。
(※ 共産主義者への蔑称)」認定され、その弾圧に屈しなかったがために、ハリウッドでの仕事を干されてしまったトランボ。
それでも彼は、妻と3人の子供を食わせるために、自らの名前を捨て「名なしの脚本家」として生きなければならなかったのだが、10年もの長き逆境を乗り越えてその名誉を回復し、自分の名前を取り戻すことになる(※ 映画に、スタッフとして、その名を刻むことができるようになる)。一一本作は、当初は、そこまでを描くという構想で描き始められた作品だったのだ。

やむなく、友人の脚本家イアン・マクレラン・ハンターの名を借りて(名義貸し)で(原作)脚本を書いた『ローマの休日』ウィリアム・ワイラー監督)がアカデミー賞を受賞し、その結果、長らくハンターが同作の脚本家であり受賞者とされてきたのだが、後にはトランボが書いたものだという事実が明らかにされ、ハリウッドもそれを認め、いったんは業界追放にしたも同然のトランボに、あらためて「アカデミー賞脚本賞(原作賞)」を与えるかたちでその名誉を回復させ、トランボが公式に映画界に復帰したところで、この物語は幕を閉じる、はずだった。

(『ローマの休日』・アン王女役のオードリー・ヘプバーン

ところが、作者である山本おさむが本作のために関連資料を読み込んでいくうちに、トランボが名誉回復されてハリウッドに復帰したことを持って「めでたしめでたし」とする気にはならなくなってしまった
というのも、もともと「ハリウッドでの赤狩り」というのは、言うなれば、世間に向けた「見せしめ」であり、「赤は、アメリカでは生きていけないぞ」ということを周知徹底するためのプロパガンダであり、言うなれば「パフォーマンス」程度のことでしかなく、「ハリウッドから共産主義者を排除する」こと自体が、「反共主義者」たちの主目的ではなかったのである。
そのため、ハリウッドでの赤狩りが終息しても、外の世界では、むしろ「赤狩り」は、とてつもなく拡大していた。だから、この物語を、トランボ個人のハリウッド復帰で終えるわけにはいかなくなったのである。

(トランボの名誉回復に貢献した二人。両者は、「赤狩り」以降初めて、その作品にトランボの名を刻む冒険をした。右がその『エクソダス 栄光への脱出』の監督オットー・プレミンジャー。左が『スパルタカス』の製作・主演のカーク・ダグラス

実際、「マッカーシー旋風」という言葉まで残し、「赤狩り」主導した代表的な人物として知られる、共和党右派のジョセフ・マッカーシー上院議員が標的にしたのは、「軍人」や「公務員」といった公職者であり、彼による「赤狩り」の目的は、「アメリカの政治機構の中に入り込んでいる、赤(共産主義者)を炙り出して排除する」というところにあった。
だからマッカーシー自身は、ハリウッドの映画関係者など、もとより相手にはしておらず、「ハリウッドにおける赤狩り」は、基本的には、マッカーシーのような人間が政治の表舞台にまで出てくるためのものでしかなかった、とも言えるのだ。

(「軍内部の赤のリストを、私は持っている」と、議会で吠えるマッカーシー)

戦後の、世界的な「社会主義化」を恐れたアメリカ政府が、ハリウッドを血祭りにあげるに際して、「社会主義」を「共産主義」とあえて同一視し、「リベラル」さえ「赤同然」だと、あえて「拡大解釈」したのは、あくまでも「見せしめ」による「宣伝効果」を狙ったものだったからである。

ところが、その機会に便乗して登場したマッカーシーのような「極右」が、ハリウッドに対してそうしたような「右以外はぜんぶ赤」だというやり方で、政府内にまで、その粗野な手を無遠慮に突っ込み、無用の政治的な混乱を招きはじめると、共産主義を快く思わない政治家たちは、むしろそれを、快くは思わなかった。
なぜなら、「ハリウッドの無力な小物たち」とは違い、政治の世界には、(マフィアなども含めて)様々な立場に立つ、無視できない勢力や有力者もいて、それらと「うまくやっていく」必要があったからだ。マッカーシーのような「単細胞」の一本調子では政治はやれないと、そう考えたのである。
そのため、マッカーシーは、態よく、あっさりと排除されてしまう。身の程を知らない、変に目立つ道化は、「自由と民主主義のアメリカ」という表看板としての「正義」のイメージには、むしろ邪魔な存在になったからだ。

つまり、マッカーシーの退場と、「ハリウッドにおける赤狩りの終息」は、「赤狩り」に対する「民主主義の勝利」などではなかったのだ。

したがって、「ハリウッドの赤狩り」が一段落して、ハリウッドを追われていた人たちの名誉回復がなされたとしても、それで万々歳ということではなかった。現実には、アメリカ政府による、世界規模の「赤狩り」としての政治的謀略や戦争が、むしろ拡大していたのである。
だからこそ、「ケネディ大統領暗殺事件」や「キング牧師暗殺事件」、あるいは「朝鮮戦争」「ベトナム戦争」「キューバ危機」といったことまで描いておく必要があった。ハリウッドにおける「赤狩り」は、ただそれだけのものではないし、そこで試された、人間の「倫理」において、トランボもまた「世界」の現実と向き合わなければならなかった。トランボが『ジョニーは戦場へ行った』(1971年)を.自らの監督で映画化して訴えたのも、「赤狩り」の問題ではなく、「戦争」の問題だったのである。
だから今の私たちも、そんな「世界の歴史」と、それの延長線上にある「現在の世界」に、向き合わなければならない。

本作『赤狩り』は、「ハリウッドの一時期」に始まり、やがて、その射程を「世界の現代史」の本質にまで拡大深化させていった、そんな作品なのである。

 ○ ○ ○

とは言え、まずは本作を「ハリウッドにおける赤狩り」を描いた作品として読むべきだろうし、その点だけで十二分に面白い作品である。

本作の何が面白いのかというと、私たちは通常、映画というものを、個々の作品として「面白かった」とか「面白くなかった」とかいった評価で片づけてしまい、それらの作品を「歴史的背景の中に位置づける」などというような面倒なことはしない。いや、「しない」というのではなく、「できない」のだ。

なぜなら、それをするためには、ひとまず「いろんな映画をたくさん見ている」必要があるし、その上で世界規模の「現代史」に対する興味がなければならないからだ。
その両者が揃っていなければ「この作品は、こうした時代背景を反映していたのか」とか「こうした傾向の作品が、この時期に多く現れてきたのは、こうした歴史的背景があったからだったのか」と気づくことは不可能であり、あくまでも個々の作品を、その内容だけにおいて「良かった悪かった」と評価するしかない。
もちろん、そうした評価の仕方が間違いだとは言えないのだけれども、しかしまたそれは「一面の見方」であり「一面の現実」でしかないとも言えるだろう。

例えば、ある人物が「万引き」をしたとする。その場合、その人物がどんな属性を持つ人であろうと、「(同じ)犯罪を犯した=悪いことをした」という事実に変わりはないし、その点では、大統領が万引きしようと、子供が万引きしようと、「公平」に裁かれ、罰せられなければならない。
しかし、現実には、「金持ちや社会的に地位のある者が、遊び半分で万引きする」のと「食事にも事欠いた、飢えた子供が万引きする」のでは、その「情状」がまったく違うから、当然その判決も違ってくる。
そもそも、一人前の判断能力を有するとされる大人による犯行と、未熟な子供の犯行とを、同じように罰するのは、かえって公平性を欠くとも考えられている。これは、心神喪失者や心神耗弱者による犯行が、減刑されたり無罪になったりするということの、法的根拠にもなっている。
一一つまり、同じ行いであっても、その行為者の属性や背景などを考慮して、その行為を評価するというのは、言うなれば「当たり前」なことでもあり、そうであってこそ「正義」に適う判断だと、私たちは、普通そう考えているのである。

そこで話を「映画」に戻すと、例えば「同じ程度の同じような駄作」を、「作品A」は「作品B」の10倍の予算をかけて作っていたとしたら、人は「作品A」は「作品B」を、まったく同等に評価するのが正しい、と思えるだろうか。
資金集めを行う映画プロデューサーの意見は聞くまでもないことだが、一般の観客として「制作予算の多寡」になど基本的には関心がなく、「とにかく、結果として面白い作品なら、予算がいくらかかったかなんて、どうでもいい」と、そう考える私たちだって、やはり、同じような作品の片方が、もう一方の10倍の予算をかけて作られたと知れば、「10倍面白い作品を作れとまでは言わないけれど、少しはマシなものを作れよ」と、そう思うのではないだろうか。

それと同様、映画は、映画作品そのものとして評価すべきだというのは、一つの「正論」ではあっても、それが全てということにはならないだろう。

実際のところ、すべての作品は「時代(背景)の中から生まれてくる」のであるから、その作品が、そのような作品になったという結果に対する原因は、決して「作者の才能」だけではなく、少なからず「作者を取り巻く、その時の事情」だとか「時代背景」を反映したものなのだ。だからこそ、同じ作家による作品であっても、「必ずいつも傑作」だとか「必ず、何も見るべきところのない駄作」だということにはならないのだ。
「天才」でも、その天才が発揮できない「状況」があるし、「凡才」であっても、一生のうちには何度か、輝きを見せる(非常の力を発揮する)チャンスが巡ってくることもあるのである。

つまり、作品は作品として独立した存在なのだが、作品を作る作家は、変転する歴史的状況の中で作品を作っている、という事実もまた、決して否定できないものなのだ。
だから、作品を評価する上で、「背景を知る」ということも、そうした事実においては、非常に重要なことなのである。

(ベトナム戦争は当初「反民主主義としての赤化への抵抗」である「正義の戦争」とされていた)

そして、そのことを描いて実証してみせた傑作が本作『赤狩り』なのだ。

例えば、『ローマの休日』が歴史的な傑作であることなら、誰だって知っている。
しかし「なぜ、この作品が、特別な傑作になったのか?」という疑問に答えることは、作品を見ているだけでは、決してわからない。
「ここが素晴らしいから」とか「ここに問題がある」といった評価は、作品を見るだけでもできるが、しかし(その監督が、その出演者が)「なぜそんな素晴らしさを発揮できたのか(なぜ、他の作品では、同じことができなかったのか)?」とか「なぜ、ここで失敗したのか(なぜ、いつもはもっと上手くできていたのに、この時はそれができなかったのか)?」という問いに対する回答は、必ずしもその作品の中だけから取り出すことはできない。

なぜならば、作品自体は「時間性」を持たない「すでに閉じた・完結した存在」であり、作品それ自体が変化することはないからだ。つまり、仮にその評価が変わるとしても、それは「作品」が変化したのではなく、評価者の方(の見方)が変化したということでしかあり得ない。
だから、作品を「なぜ、いつもよりも」というかたちの「時間性」の中で問うなら、自ずと、作品の「背景」である「時間性としての歴史」というものをも考慮しないではいられないのである。

そして、本作『赤狩り』が私たちに教えてくれるのは、こうした「名作」や「失敗作」が、そのようなものとして結果するための「歴史的背景」であり、または、ある人が「立派な英雄」となり、別のある人が「卑劣な裏切り者」となる、その「背景的な状況」なのである。
「彼は、こういう人だから、こうなった」ではなく、「彼はこうした人生を歩んできて、こうした価値観を持っていたし、そしてこの時はこのような状況に置かれたから、いつもならしないことを、やってしまったのだ」とか「いつもならできないことまで、やってみせたのだ」というふうに、「生ける(時間性の)もの」として、描いてみせてくれた。

例えば私は、先日書いた、映画『怒りの葡萄』(1940年、ジョン・フォード監督)のレビューの中で、「ハリウッドでの赤狩り」問題に触れて、仲間を売り渡したことで、その悪名を今にとどめる映画監督、エリア・カザンへの注目を促した。

『なお、(※ ハリウッドでの「赤狩り」協力者である)「告発・密告者」の中に、のちのアメリカ大統領が2人含まれることと同時に、映画監督であるエリア・カザンの名があることにも、注意を促しておきたい。

なぜならカザンは、『怒りの葡萄』と同じスタインベックの小説、かの『エデンの東』(1955年)を撮った映画監督だからである。

見てのとおり、『エデンの東』は1955年の作品であり、「赤狩り」旋風終焉直後あたりの作品だが、その頃のカザンは、ハリウッドの中で、映画作家としての地位は、その実績において保証されていた人だったので、何事もなく映画を撮っていた。』

現時点でもそうだが、この段階での私は、カザンの「自伝」を読んでもいなければ、映画『エデンの東』を見てもいない。
にもかかわらず私は、「カザンによる映画仲間の売り渡し、どんな事情があっても許されるものではない」と断じて、あえてこのように書いた。

(本作『赤狩り』には、エリア・カザンの置かれた状況を加味した『エデンの東』分析も紹介されている。そこでは、主演のジェームス・ディーンは、カザンの「ある一面」を象徴しているのだ。)

もちろん、カザン自身、苦しい状況に追い込まれてもおり、止むに止まれる行動だったのではあろうが、それにしたって、同様の苦境にあって、カザンとは真逆の行動、つまり「自らを犠牲にしてでも、仲間への信義を貫いた」人だっていたのだから、やはりカザンは、どのような事情があろうと、その自ら選んだ行動の責任を引き受けるべきだと、私はそう考えたのだ。だから、あえて、カザンの名を強調したのである。

「もしかすると私自身、同じ状況に置かれたら、仲間を売ったかもしれない。カザンには、そんな事情があったのかもしれない」と、そう思いながらも、しかし私自身が「そうならないために」、そして、万が一そうなった場合には、私がカザンにそうしたような、厳しい指弾を受けることになるように、あえてカザンを「その事情」に関わりなく指弾したのだ。
カザンのようにはなりたくないからこそ、カザンを厳しく指弾することによって、私は私の「退路を断った」。カザンに対して「物分かりのよい思いやり」を示すことで、自分のための予防線的な「アリバイ工作」をしておくような、本質的な姑息さを避けたのである。

本作、『赤狩り』のユニークかつ、読者にとって大変ありがたい特徴は、作者が、各巻の巻末で、『「事実」と「フィクション」に関する作者註』を付して、本作の描写において、どこまでが「研究資料に基づく描写」か「作者の推測による描写」か「漫画(表現)化のための自覚的な作り事の描写(フィクション)」かを、具体的に説明している点であろう。

もちろん、読めば、おおよその見当はつくのだが、このようにはっきりと説明してくれていると、本作を「娯楽作品として消費するだけ」ではなく、「歴史的事実」そのものに興味のある読者には、大変ありがたいのだ。

本作の魅力は、なんといっても、「歴史上の人物」が、一人の人間として、生き生きと立ち上がってくる点にあろう。
「歴史的事実」とは、ややもすると無味乾燥な事実の羅列に見えてしまいがちだか、本作は、歴史上の人物に「親しみ」と「リアリティ」を与えてくれている。

例えば、トランボが「歴史上の偉人」ではなく、読者のそばで生きている人のように生き生きと感じられるのは、歴史を学ぶ上でも、とてもありがたい「イメージ付け」による「人間化」であると思う。
もちろん、その「イメージ」が、あまりにも作者の「主観的偏向」に染め上げられたものであっては、「歴史的事実」を知りたい読者には、かえって邪魔なものにもなりかねない。だからこそ、本作の作者が、手回しよく「ここは、この研究書の説に寄った。ここは、資料をもとにした、私の解釈。ここは、漫画的表現として、あえて誇張したり圧縮したり省略したりした部分だ」と説明してくれているのは、とてもありがたいことなのである。

ちなみに、そんな作者は、エリア・カザンという人物について「一定の理解」を示しながらも、次のように、呵責のない分析を加えている。

(エリア・カザン)

『 第2章 エデンの東へ

voL.10 死にゆく心
 カザンがHUAC(※ 下院非米活動委員会)に召喚された時の彼の内面的原理原則は①「自分の事は話すが、他人の名前はあげない」というものだった。しかしそれはHUACには通用せず、20世紀フォックスダリル・ザナックも頭を抱えた。ザナックの手引きでカザンがFBI長官フーヴァーに会ったとする研究書もあるが、カザンの自伝にはその事は出てこない。
 そこでカザンは②「自分の知る党員、元党員、シンパたちに会って了承を得られれば名前をあげる」という奇策をひねり出す。実際に三名に会い、うち二名の了承を得る。しかし、他の六名には会ってもいないし了承も得ていない。その理由は自伝を読んでも明確には書いていないが、そんな事を了承するとは思えない人物だったのだろう。そしてカザンは自ら再出頭を要請し③「二名に加えて了承か否かを打診する事もなかった六名、計八名の名前をあげる」
 ①から②への変化は転向を和らげるための苦肉の策とも言えるが②から③への変化は「外的な圧力により、あるいは自己保身のために内面的原理原則を一八〇度転換させる」という明らかな「転向」にあたるだろう。
②から③へと変化する間にカザンの中でどのような葛藤があったのか、何度も自伝を読み返したが、どうも判然としない。同じく他人の名前をあげた俳優のラリー・パークスリー・J・コッブ、監督のロバート・ロッセンなどには胸をかきむしるような苦悩の末に転向を受け入れた姿が見られるが、カザンにはそのような痕跡は見られない。
 また劇作家のリリアン・ヘルマンアーサー・ミラーは「それ(他人の名前をあげる事)は私の良心が許さない」と述べて証言を拒否したが、カザンの場合は「良心」も二段構えになっており「私に良心がないと他人に見做されるのは私のプライドが許さない」と①や②の態度を取ってみたが、結局は「苦労して手に入れた成功を手放す気にはなれない」「それは自分の気持ちに正直ではない」「私を非難する者も出てくるだろうが仕方がない」「少なくとも私は自分自身を裏切らなかった」と、言い訳を考えては自分に言いきかせるという作業を延々と繰り返している。これを同じく漫画で延々と描くわけにもいかないので、迫り来る圧力とカザンの死にゆく心を具象化するために大幅なフィクションを加えた。
 大量のポルノ雑誌が送られて来る、爆弾と思わせるような小包が届く、子供が誘拐されたと思わせるなどの(※ 脅迫に関する)エピソードはFBIやそれと類似した組織が一般人に対して使う手口を資料で調べてこちらに転用したものである。

voL.11 密告者
 カザンは逡巡を繰り返した末にHUACに再出頭して八名の名前をあげ、転向する。
 ここまでは他の転向者と大きな差異はない。しかし、ここから先がカザンの特異性と言えるだろう。他の多くの転向者は、自分は良心に背いてやむなく他人の名前をあげたと忸怩たる思いを抱えて生きていった。対してカザンという人は移民である自分をアメリカ人として周囲に認めさせ、演劇人、映画人としても認めさせてきた。それが彼にとって「この国で生きぬく」という事だった。そしてここでも驚くべき事に「密告者」となった自分をそのまま周囲に認めさせようという挙に出たのである。
 ニューヨーク・タイムズ紙に意見広告を出し、本作で書いた通り自分の密告を正当化し、居直り、密告を奨励したのだった。自伝には声明を出す事を提案したのも、文章を書いたのも妻モリーで、カザンはそれに了承を与えただけだと記してある。しかしこの事により、カザンは赤狩りの歴史に名を残す事になった。後年、アカデミー名誉賞を受賞した時、通常は全員がスタンディング・オベーションで拍手を送るのだが、この時は一部出席者が座ったまま腕組みをして抗議の意を表明し、会場は異様な雰囲気に包まれた。あんな声明を出さなければ、カザンも多くの転向者の中のひとりとして数えられるだけだっただろう。
 カザンがアメリカ共産党スターリニズムを嗅ぎとって離党したのは先見の明と言えるが、その後の赤狩りへの対応を見てくると、ハリウッド・テンが修正第一条を根拠に思想、言論全体の自由を死守しようとしたのに対し、カザンにはこうした視点はなく、ただ「共産主義は邪悪な思想だからみんなで通報しよう」としか言っていないし、結局は自分の表現さえ担保されれば他はどうでもいいという事らしい。自伝では多くの言葉を費やしているが、どうにもインテリの処世術にしか見えないのは悲しいところだ。このようにHUACに呑み込まれてしまう者は、体制が変わればスターリニズムにも呑み込まれてしまうだろうに。』
(第6巻「作者による巻末中」・P219〜221)

本作を当たり前に読んでいくと、カザンの「気持ち=心の中の考え」が描かれており、ややもすると読者は、それに説得されて「もしかすると作者は、カザンに同情的なのだろうか?」と感じてしまうほどなのだが、この「註」を読めば、そうではないことは明らかだ。
漫画の中でカザンを描く際には、あくまでも、一人の人間としてのカザンの「思い」を、彼の立場に立って考え、それなりに理解しようとして描いているから、そうなるのであって、作品の中で語られた「カザンの理屈(自己正当化)」は、あくまでもカザンの中では「一定の説得力を持つもの」ではあっても、客観的に見れば、それは所詮「自分の価値観」だけに寄った自己正当化でしかなかったと、カザンは、この「註」において、作者から厳しく処断されているのである。

実際、カザンのことを詳しくは知らなかった私も、本作を読んで、少し安心させられた部分がある。
それは、カザンが苦しい状況に置かれ、生き残るためには仕方がなかったという、本作で描かれたような事情があったとしても、やはり、だからといって、彼の場合は、あまりにも「自己正当化」が過ぎて、要は「無反省」なのである。
彼と同じように、やむをえず「友人知人の名前をあげて、裏切ってしまった人」は大勢いた。しかし、彼らの多くは、その「罪の意識」に苦しみ続けたからこそ、人は、その「反省の苦しみ」ゆえに、要は「自身を責める良心の存在」のゆえに、その人を許すこともできたのだ。

だが、カザンの場合は、その肥大した「自尊心」のゆえに、頑として「反省」すること拒んだ。だからこそ、彼だけは、死ぬまで許されることはなかった。つまりカザンの場合は、言うなれば「自ら選んだ、永遠の汚名」なのだと言えるだろう。
カザンだけが、いつまでも責められるのは、それ相応の理由があったということを、本書は明確に教えてくれたのである。

あと、本書を読んでいて、ハッとさせられたのは、私がつい先日書いたばかりの「世界観」とほぼ同じことが、本書でも語られていた点である。
私は、映画評論家・淀川長治の著書『映画とともにいつまでも』を論じたレビューの中で、次のように書いていた。

『「共産主義」というのは、柄谷行人が言うところの「統整的理念」としては、とても素晴らしいものだ。それは、「理想」として目指されて然るべきものである。

ただし、人間というのは「ひといろ」ではないから、どんなに素晴らしい「理想」、あるいは「最大公約数的な理想」であっても、それが「嫌だ」という者は、必ず現れてくる。
問題は、その場合に、そういう「例外的存在」を、どう処遇するのか、なのだ。

現実の「共産主義国家」が間違えたのもそこで、「理想」の実現のためには「理想に反する存在」としての「少数例外」は、全体のために、否定・排除されなければならない。「それが正義である」一一と、そう考えた結果、そうした「例外的な人間」は「人間社会における悪魔」化され、シベリア送りにされて、社会から抹殺されていったのだ。

つまり、「理想」というのは「目指すべきもの」ではあるけれども、「実現すべきもの」ではないのだ。
なぜならば、それは「実現できないもの」だからであり、そうであるからこそ「理想」なのである。

そして、人間という存在は、「理想」そのものではあり得ず、「現実」存在であるからこそ、そんな「人間」存在に、現実的に「理想」を強いるならば、「理想は、理想ではない何か」に変質してしまう、ということなのである。』

そして、本作『赤狩り』第4巻では、トランボの「心内語」として、次のように語られていたのである。

『それから一ヵ月後、セシル(※ トランボが刑務所で仲良くなった実在の人物で、密造酒作りを生業とする、無学な黒人の老人。トランボは、セシルに届いた娘からの手紙を読んで聞かせてやり、その返事を代筆してやったりした)は仮釈放で出て行った。おそらく、長生きはしないだろう。長く咳が続いていたし、栄養失調だった。丘陵地帯での厳しい暮らしが、彼等の命を縮めるのだ。
あれからのセシルの消息はわからない。

自由な議会制度を定め、個人の自由・言論・信教の自由を擁護するとする〝自由主義〟。私有財産の否定と共有財産の実現によって、貧富の差をなくそうとする〝共産主義〟。
人間は、観念の上では、いくらでも美しい理念をうち建てることができる。

しかし、不完全であるところの実在の人間は、その理念をついに、地上に実現する事はできないのだ。 美しい理念は、人間の邪悪なる欲望によって歪められ、汚され続け、やがて人々はそれを〝現実〟と呼ぶようになったのだろう。
どのような政治体制になろうとも、それからこぼれるも者、はじき出される者が必ず出てくる。そして、この俺自身も〝赤狩り〟によって社会からはじき出された人間のひとりだ。俺は…セシルなのだ。
名前を奪われ、シナリオを密売するしかない脚本家。愛する妻と三人の子供を養う、ただの男……

しかし俺は……死にはしない。
生きて…闘う!!
そして…あの忌まわしいブラックリストを葬り去ってやる!! 』

(第4巻・P93〜98)

この、トランボの語りを読みながら私が思ったのは、トランボのようには生きられないとしても、せめて「小さなトランボ」として死んでいきたい、ということ。
そして、「小さなカザン」として死んでいくことだけはしたくない、ということだった。

ジョイ・ローチ監督『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』より)

ちなみに、本作の作者である山本おさむは、「日本共産党」の党員である。

だが、その党員でさえ、「共産主義の理想」が、そのままのかたちで実現することなどないというのを承知しており、それでも「共産主義の理想」を掲げているのだという「事実」くらいは、本稿の読者なら、理解しておくべきだろう。

彼ら(共産党員)だとて、決して「現実が見えていない、イデオロギー馬鹿」ばかりではないのだ。
むしろ、彼らを十羽ひと絡げにして馬鹿にするような「短絡的な見方」をする者の方が、よほど「イデオロギー馬鹿」なのだという「現実」を、私たちはよくよく心得ておくべきなのである。



(2024年8月15日)

 ○ ○ ○





 ● ● ●

 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


 ○ ○ ○

 ○ ○ ○


この記事が参加している募集