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木谷明『「無罪」を見抜く 裁判官・木谷明の生き方』 : 属人的な問題ではなく〈構造としての問題〉

書評:木谷明『「無罪」を見抜く 裁判官・木谷明の生き方』(岩波現代文庫)

単行本(2013年11月刊)で好評を博した本書が、このたび岩波現代文庫に入った(2020年3月)。本書が好評を博した理由は、ハッキリしている。
要は、その現役時代に、保身に走ること一切なく、勇気を持って多くの「無罪判決」を書き、言い渡し続けたリベラルな裁判官である木谷が、現役時代の体験や見聞として、「裁判所の内側」を忌憚なく語った本書は、長らく外部の目から隠されてきた「裁判所の現実」を赤裸々に紹介するものとして、稀有な「証言の書」であったからだ。

先日(2020年1月)刊行された、ノンフィクションライター岩瀬達哉による『裁判官も人である 良心と組織の狭間で』(講談社)も、本書を重要な参照文献として、さらに「裁判所の闇の奥」へと分け入った重要な研究書であり、私の場合は、岩瀬書から木谷による本書へと遡って読むかたちになったため、私の本書に対する観点は、本書単行本刊行時のレビュアーのものとは、おのずと少なからぬ違いもあるように思う。

何が違うのか。それは、本書の語り手である木谷明が、裁判所の問題を、ややもすると「裁判官個人」の問題、つまり「属人的な問題」として語りがちなのに対し、後続の岩瀬は、外部の人間として、裁判所の問題を「組織構造的な問題」だと見ている点に由来する。

例えば、木谷は次のように語っている。

『裁判官の中には、私のように突っ込んだ審理をしないでおいて、すぐに警察の言い分を信用してしまう人も少なくないのです。「被告人は嘘をいう。警察官は嘘をつかない」という単純な論理で取調べ状況に関する事実認定をしてしまう。』(文庫版 P307)

『私は、これまで多くの裁判官と付き合って、裁判官にも色んなタイプがあると思います。
 これについて私は、三分類しています。一つは「迷信型」です。つまり、捜査官はウソをつかない、被告人はウソをつく、と。頭からそういう考えに凝り固まっていて、そう思いこんでいる人です。何か被告人が弁解すると、「またあんなウソをついて」というふうに、最初から問題にしないタイプです。私は、これが三割ぐらいいるのではないか、と思います。二つめはその対極で「熟慮断行型」です。被告人のためによくよく考えて、そして最後は「疑わしきは(※ 罰せず)」の原則に忠実に自分の考えでやる、という人です。これが多めに見積もって一割いるかいないか。その中間の六割強は「優柔不断・右顧左眄型」です。この人たちは、真面目にやろうという気がない訳ではない。三割の頑固な人たちとは違うので、場合によっては、「やろう」という気持ちはあるのだけど、「本当にこれでやっていいのかな」とか迷ってしまうのです。私だって迷いますよ。迷いますけど、最後は決断します。でも、この六割の人は、「こんな事件でこういう判決をしたら物笑いになるのではないか」「警察・検察官から、ひどいことを言われるのではないか」「上級審の評判が悪くなるのではないか」などと気にして、右顧左眄しているうちに、優柔不断だから決断できなくなって検事のいう通りにしてしまう。こういうように私は今までの付き合いの範囲で感じているのです。こんなことを言うと、裁判所から睨まれますね。仲間内からも「俺はどこに入るのか」などと言われそうだね(笑)。裁判官には、こういう体質的な問題がかなりあります。』(前同 P334〜335)

要は「思い込みの激しい人がいる」とか「意志薄弱な人が多い」という批判であり、「なぜ、知的エリートであるはずの裁判官に、そんな素朴かつ誤った思い込みを持っている人が少なくないのか」とか「なぜ、右顧左眄する、主体性のない裁判官が、そんなにも多いのか」という点については、木谷は多くを語ってはいないのだ。

無論、木谷のようなベテランの裁判官で、かつ、裁判所の「組織構造的な問題」の一つある「検察追従」に抗して多くの「無罪判決」を出してきた人が、裁判所の「組織構造的な問題」に気づいていないはずはない。事実、木谷は次のように語ってもいるのだ。

『本来、(※ 自分の担当事件をどう審理するかは)各裁判官が自分で判断するべきことです。私は、その裁判官がどうして(※ 木谷がやるなら、自分もやってみようか、などという主体性を欠いた)そういう考え方をしたのか、今でも分かりません。けれども、従前はなんとなくやりにくい雰囲気があったのでしょうね。「あいつ、なんか変なことやっている」と見られかねないですから。(※ 覚醒剤使用容疑者に)無罪判決を出すことが変わったことをやっていると見られるということです。』(P318)

『(※ もしも転勤の内示を断った場合)もっと悪いところを言ってくることは確実です。(※ 転勤)先送りと言うこともあるかもしれませんが、翌年、確実にもっと悪いところが来ます。』(P300) 

『 判事には勤務評定があるのですよ。あんなことやっているとは、私は知らなかった。迂闊も迂闊です(笑)。
 「裁判官第一カード」というのがあるのですね。「第二カード」というのがあるのは私も知っていました。我々裁判官は、そのカードに自分の希望やなんかを書いて出します。それに対して、所長や長官が意見を付けるのです。「この人はもっと良いところ置いてくれ」とか、「この人は全然ダメだ」とか書いてある。ある判事は、任官した最初のうちは結構良いコースを歩いていたのですけど、途中からバタッとダメになってしまった。だけど、実際につき合ってみると、能力はあるし、そんなにずっと現在のポスト(家裁判事)にばかり居る人ではないと思ったのです。おかしいなと思って、(※ 当時、家裁所長だった私は)その人の前のカードをずっと見てみました。そうすると、ある地方にいる時に、高裁長官に滅茶苦茶に書かれている。「狷介な性格で」とか書いてありました。しかも、それが後に最高裁判事になったような有力な長官でした。一人がそういうことを書くと、後から皆同じように悪い評価をするのです。
 (中略)それから後、評価も任地もガクンと悪くなっている。かなり僻地に飛ばされていました。
 喧嘩をするような人ではないですよ。単に嫌われたのでしょう。そういうの見ていると、私なんか何を書かれているのかわからないと思いました。本当に(※ 評価の書かれた、自分のカードを)見てみたいですね。』
 (P364〜365、インタビュアーの質問は略)

見てのとおり、木谷自身、同じ裁判官とは言え、組織階級的に上の者には、絶対的な「人事権」があり、部下の処遇をいかようにもできるということくらいは知っていた。「裁判官第一カード」というものの存在は、所長になるまで知らなかったとしても、何らかのかたちで「人事評価」がなされて、格上の部署に栄転したり、格下の部署や僻地に飛ばされたりすることくらいは知っていたのだ。

だとすれば、多くの裁判官が「主体性を欠き」「右顧左眄」したり「慣習的に検察追従」するというのは、「属人的な問題」であるよりもむしろ「組織構造的な問題」であるということくらいは、当然わかっていたはずなのだ。

たしかに、木谷のような「正義と信念」の人ならば、「組織的な不合理や不正義」に対し、「個人」として抵抗することもできたであろう。そして「すべての裁判官は、そうあるべきだ」と考えがちなのも、分からないではない。

しかし、現実問題として、所詮は「裁判官も人である」のだし、だからこそ「組織内政治権力」への配慮から「主体性を欠き」「右顧左眄」する人が少なからず出てくるというのも、むしろ必然的なことなのだから、それが好ましくないと思うのであれば、問題を「属人的」なものとして限定的に語るのではなく、「組織の構造的な問題」として、その改革を訴えるべきだったのではないか。
しかし、木谷には、そうした「組織告発」的な面が、いささか薄いという印象が否めないのだ。

もちろん、木谷は、「知り合いの裁判官」も「裁判所そのもの」もキチンと批判しているから、「個人」として「勇気のあるリベラルな人」であるのは間違いない。
しかし、そんな「リベラルな裁判官の代表」である木谷をもってしても「裁判所が、組織として根本的な問題を抱えている」ということを明確に指摘した上での批判を展開することができない(できていない)というところに、日本の裁判所の抱える問題の根深さがあると、私にはそう感じられたのである。

初出:2020年3月28日「Amazonレビュー」

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