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サム・ライミ監督 『死霊のはらわた』 : 古典を鑑賞するということ

映画評:サム・ライミ監督『死霊のはらわた』1981年・アメリカ映画)

本作は、基本的には、次のような作品であることに留意した上で見るべき作品である。

『ミシガン州立大学時代に撮った映画をリメイクしたサム・ライミの商業映画初監督作。日本でも大ヒットし、スプラッターホラー映画ブームの火付け役となった。』

「映画.com」「死霊のはらわた(1981)」より)

つまり、本作に、特に愛着のある人以外は、本作が基本的に「学生ムービー」のノリの作品だと、そう思って見た方がいい。
また、スプラッターホラーというジャンルに特に興味はなく、いろいろある娯楽映画の中のひとつとして見る人は、本作が「一つのジャンルを作り上げることになる先駆的な作品」であるという「歴史的意義」を知っておくべきであろう。

そんなわけで本作を、何の「予備知識」も無く、「今の価値観」において見れば、「何だこれ? よく出来た学生映画でしかないじゃないか」ともなりかねない。

それでも本作は、それなりの予算をかけて撮られた「低予算・商業映画」なので、単なる「学生映画」ではない。つまり決して「独りよがりで退屈な作品」などではないのだ。
低予算なりに、ちゃんと作られており、「最後まで飽きずに見ることのできる作品」にはなっているのだ。

(こちらは宣伝によく使われる有名なカット)

だが、「今の目」で、言い換えれば、「当たり前のハリウッド(大作)映画」でも見るようなつもりで見たら、やはり、

(1)素人くささ
(2)低予算作品ゆえのチープさ
(3)スプラッター・ホラーとしての、ごく当たり前の(新味のない)ストーリー

という印象は否めないであろう。

(こちらのメイクは、さすがにキツい。特殊メイクとも呼び難い)

もちろん、これらの弱点は、「今の目」で見れば、という条件付きの、「今となっては」の評価であり、この作品の魅力や意義は、制作当時のものとして理解されるべきであろう。

つまり(1)については、「素人くさいからダメ」なのではなく、「歳若く経験も浅い監督が、低予算で、よくこれだけの作品を撮ったものだ」と考えるべきだろうし、「アマチュアくさい熱が感じられて、そこに特別な魅力がある」とも言える作品なのだ。

また(2)については、「低予算」ながらも、その「手作り感」が魅力的だし、そこにこそ、好きで作っている「熱」を感じることもできる。

(なんだかよくわからないが、とにかくグロな手作り)

(3)については、この作品こそが「スプラッター・ホラーの原点」であり、後の作品が、この作品に「学び」あるいは「模倣」して作ったのだから、「今の目」で見てこの作品に、「新しさ」が無いのは当然なのである。
つまり、この作品の長所は、もっと予算をかけた、後の映画の中で、すでに「消費され尽くされている」のだ。だから、そうした後続作品に馴れてしまった目で、本作に「新味が無い」と考えるのは、文字どおりの「アナクロニズム(時代錯誤)」なのである。

(背後のドアを突き破って腕が出てくる、今ではお約束のカット)

したがって、本作を公開当時に見て、その「熱と新しさ」にヤラレた人であれば、本作はいま見ても「すごい作品」であり「やっぱり面白い」と感じられるのだし、そうした評価も、まったく正当なものなのだ。

 ○ ○ ○

だが、残念ながら、私はそういう「当時のファン」ではなかった
当時、すでにこの映画は話題作になっていたから、その評判は私の耳にも届いていた。また、その後の「スプラッター映画ブーム」も同時代的に知ってはいたのだが、私の場合は、当時すでに「私の趣味ではない」とそう感じて、本作やそれ以降の「スプラッター映画」を、自覚的に見なかったのである。

そして、そんな私が「おお、ちゃんとしたエンタメ映画も撮れるんだな」と、キワモノ映画監督だと思い込んでいたサム・ライミ監督を見直したのは、マーベル映画として見た、無印の「スパイダーマン」三部作であった(ちなみに、好きなのは第2作第3作には失望させられた。)。

ともあれ、これまでにも何度か論じたことだが、私が「ホラー映画」に求めるのは、「心理的な恐怖」であり、「惻々と迫ってくる怖さ」だ。
だから私は、「びっくり箱」的な作りの「ショッカー作品」は、ホラー映画としては邪道だと思うし、まして、見るからに「即物的」な「スプラッター・ホラー」には、興味すらなかった。
首や手足がちょん切れちょん切られして、血飛沫と肉片が飛び交うような「見た目に派手な、わかりやすいホラー」には、まったく興味がなかったのである。

(怪物化した人物の目をつぶす特撮カット。血膿がどろりと出てくる)
ブニュエル監督の『アンダルシアの犬』では、眼球をカミソリで切る)

で、今回、そんな「スプラッタ・ホラー」のレジェンド作品である本作『死霊のはらわた』を見ても、やはり、この感想は変わらなかった。

たしかに「当時としては新しかったのだろう」し「低予算作品としては、かなり良くできている」と、そう評価しても、そもそも、その「見た目に派手な内容」が、趣味ではない。こんな「モロ見せ」は、私の趣味ではないのだ。

何も上品ぶって言っているのではない。
私の趣味は、言うなれば「ハードコア・ポルノ」ではなく、もっと「隠微に変態的な作品」だ、というのと同じ話なのである。
言うなればそれは、私の「江戸川乱歩」趣味だと言えば、わかる人にはわかるだろう。

例えば、乱歩の代表的な短編に「人間椅子」というのがある。この作品は、次のような内容だ。

『外交官を夫に持つ閨秀作家(女性作家のこと)の佳子は、毎朝夫の登庁を見送った後、書斎に籠もり、ファンレターに目を通してから創作にとりかかることが日課だった。ある日、「私」から1通の手紙が届く。それは「私」の犯した罪悪の告白だった。

椅子専門の家具職人である「私」は、容貌が醜いため周囲の人間から蔑まれ、貧しいためにその悔しさを紛らわす術も持たなかった。しかし、私は職人としての腕はそれなりに評価されており、度々凝った椅子の注文が舞い込んだ。

ある日、外国人専門のホテルに納品される椅子を製作していた私は出来心から、椅子の中に人間が一人入り込める空洞を作り、水と食料と共にその中に入り込んだ。自分が椅子の中に入り込んだ時に、その椅子はホテルに納品されてしまう。それ以来、私は昼は椅子の中にこもり、夜になると椅子から這い出て、盗みを働くようになった。盗みで一財産出来たころ、私は外国人の少女が自分の上に座る感触を革ごしに感じることに喜びを感じた。それ以来、私は女性の感触を革ごしに感じることに夢中になった。やがて、私は言葉がわからない外国人ではなく日本人の女性の感触を感じたいと願うようになった。

私がそんな願いを持つようになったころ、ホテルの持ち主が変わり、私が潜んでいた椅子は古道具屋に売られてしまう。古道具屋で私の椅子を買い求めたのは日本人の官吏だった。だが書斎に置かれた私の椅子にもっぱら座るのは、著作にふける若く美しい夫人であった。私は念願の日本人女性の感触に胸を躍らせ、一方的な恋情を募らせていった。次第に自分の存在を夫人に伝えたいと思うようになった私は、とうとう椅子から出て夫人に手紙を書くことにした。その夫人とは佳子のことであった。

恐怖に襲われ書斎を離れた佳子のもとに、手紙と同じ筆跡のもうひとつの封書が届く。そこには先に送った創作を批評してもらいたいと書かれていた。』

(Wikipedia「人間椅子(江戸川乱歩)」

『死霊のはらわた』の「ストーリー」を紹介する前に、別作家の、しかも小説のあらすじを紹介してしまったが、この「人間椅子」の「あらすじ」を読んでいただければ、この作品が『死霊のはらわた』のストレートなパワーとは真逆に、「間接的で隠微な妄想的作品」だということが、よくわかるはずだ。

つまり、私としては、「実際にやっちゃう」のではなく「寸止めによる、最高に高まった欲求不満」の方が、想像力を掻き立てられてられるから、ずっと「ありがたい」のである。「やっちゃったら、ありがたみが無くなってしまうでしょ」と、そんな趣味なのである。
こっちから相手を一方的に殴り倒すのではなく、何発か殴られてから、その痛みに堪えた上で、おもむろに相手を殴り倒す方が、「快感」も倍増するでしょ、というわけなのだ。

また、本作については、決まり文句的に「恐怖と笑いは紙一重」ということが言われるし、実際、ライミ監督は「笑い」の要素が好きなようなのだが、私は、そもそも「笑い」には興味が薄い。小説でも、ユーモアものはほとんど読まないくらいだから、映画でもコメディを見ようとは思わない。
したがって、「ホラー映画のおける笑い」と言っても、過激さが過ぎて、思わず観客が「笑ってしまう」ような作品ではなく、私が好きな『エルム街の悪夢』の魔人フレディのように、怖がらせる方が笑うような、そんな方向で徹底した、笑えない作風の方が好みなのである。

(標的にした青年男女の夢の中に現れて追いまわし、さんざ怖がらせてから殺すのがフレディ流)

そんなわけで、本作『死霊のはらわた』は、もともと私には「合わない」作品であり、そうとわかっていて見ても「やっぱりそうだった」という結果にしかならなかった。

しかし、だからと言って、それは「私の趣味ではなかった」というだけの話でしかなく、客観的に見て本作が不出来であったということではない。
特に、歴史的な意義を勘案すれば、本作は間違いなく「レジェンド作品」と評されてしかるべき「傑作」なのである。

一一だから、これから初めて、本作を見ようとする人には、「そのおつもりで」と、それだけは助言しておきたかったのだ。

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それにしても、前々から「合わないであろう」と思っていた私が、今頃になって、なんで本作を見たのかというと、それは、例のラヴクラフト系コズミック・ホラー映画」鑑賞プロジェクトの一環として、この機会に、「趣味には合わないだろうけど、いちおう教養として見ておくか」と、そんな気持ちからだった。
つまり、ネット記事「米誌が選出!ラブクラフト系コズミック・ホラー映画ベスト10」に紹介されていた作品で、まだ見ていなかった「9作品」を見ようと思い立って見始めた、本作は、その3本目に当たるのである。

ちなみに、先に見た2作とは、ジョン・カーペンター監督の『マウス・オブ・マッドネス』と、ポール・W・S・アンダーソン監督の『イベント・ホライゾン』 で、この2作は、期待に反して「駄作」だった。

数ある「ラヴクラフト系コズミック・ホラー映画」の中では「ベスト級」の作品なのかもしれないけれど、普通に見れば、映画としては「駄作」だったのである。

だから、正直なところ、3本目となる本作『死霊のはらわた』には、さほど期待していなかったし、結果としても「こんなところかな」という感じではあった。
しかしまあ、「低予算」というのを勘案すれば、前の2作よりは「映画としての完成度は高い」とも言えた。いかにも「既視感」ばかりのつのる、「悪慣れ」の鼻についた前の2作よりは、よほど好感が持てたのである。

(結局は友人たちを救えないというお約束。主人公が開き直らず苦悩するのもお約束)

では、そもそも、どうして「米誌が選出!ラブクラフト系コズミック・ホラー映画ベスト10」で紹介されている作品を見ようなどと思ったのかというと、これもすでに、上のレビューで書いたことだが、要は次の2点に集約される。

(1)H・P・ラヴクラフトは、その小説作品を読んだ範囲では「文体」が好みではなく、小説をそれ以上読もうとは思わなかった。だが、「クトゥルフ神話」に代表されるその「世界観」は好きなので、これをうまく映像化してくれている作品があるのであれば、それは見てみたいと思っていた。

(2)「米誌が選出!ラブクラフト系コズミック・ホラー映画ベスト10」の中に、私の大好きな映画、ジョン・カーペンター監督の『遊星からの物体X』が含まれていたので、「これが含まれているのなら、他のを見てもいいかな」と思った。

ということである。

つまり、『遊星からの物体X』への高評価にひきづられて、他の作品も見てみることにしたのだが、今のところは期待はずれ続きで、もはや多くは期待できなくなっているのだ。

だがまた、それでも、『死霊のはらわた』のような「歴史的作品」は、それそのものは楽しめなくても、「教養」として見ておくというのは決して無駄ではないだろうし、それとは別に、比較的新しい作品であれば、何かひとつくらいは、昔ではやれなかった「映像表現」を見せてくれるのではないかという期待もあるので、作品総体としての「傑作」であることは、もはや期待してはいないものの、「一点の長所」に期待して、比較的新しい作品を、あといくつかは見てみようとは思っているのである。

結局、本作『死霊のはらわた』の具体的な中身までは踏み込まなかったが、本作は「ストーリー」が問題になるような作品ではないので、そこはまあ諒とされたい。

その上で、蛇足的に、「映画.com」での「ストーリー」を、最後に引用しておくことにする。

『休暇で森にやってきた5人の男女は廃屋の地下で“死者の書”を発見。やがてテープレコーダーに録音されていた呪文によって、死霊が復活してしまう。死霊に乗り移られた者は他の者を襲撃。阿鼻叫喚の中、(※ 主人公の)アッシュは必死の抵抗を試みるが……。』



(2024年10月12日)

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