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いしいさや 『よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話』 : 神の救いと子供の涙
書評:いしいさや『よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話』(講談社)
これは親が宗教にハマっている家の子供には、多かれ少なかれあることだろう。
本書の著者の場合は、母親が「エホバの証人」の熱心な信者であり、それを娘である著者に「良かれ」と思って「説得し納得させた」上で、自分の信仰につき合わせているつもりだったようだ。
しかし、子供の立場からすれば、大人の理屈で説得されれば、まともに反論など出来るわけもないし、何より「わがまま」を言って母親を悲しませたくないという配慮から、納得したふりをしてしまう。
その結果、いったん信仰を受け入れたかぎりは、世間的にはどんなに理不尽な要求にだって従わざるを得なくなってしまい、信仰の悪しき泥沼から抜け出せなくなってしまうのである。
つまり、信仰といった人生観を決定してしまう類のものは、判断能力のない子供に強いてはならないのである。
それが「どんなに正しいことだろうと、本人の意思に反して強いることは、悪である」ということだ。
その信仰が真に正しいのであれば、子供は親の背を見て育ち、やがて自らその信仰を選ぶであろう。
もちろん、そうならない場合もあるだろうが、人には「自分の意思に従って、不幸になる権利がある」のである。
こうした問題は、何も「エホバの証人」だけの問題ではない。
「エホバの証人」を、邪教呼ばわりしているキリスト教の側でも「幼児洗礼」の是非は、いまだ解決していないのだ。
だから、これを単に「エホバの証人」の問題と、矮小化して捉えてはならないし、宗教の問題と限定して捉えてもならない。
どんな思想やイデオロギーも、独善に陥り、フェアな対話議論の回路を失ってしまえば、子供たちに同じ不幸を強いることになるのである。
このことは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』における、イワンの告発にもハッキリと示されていよう。
「そう、(※最後の審判と善男善女の復活が、現世の子供の不幸に)値しない理由っていうのは、子どもの涙が何ひとつつぐなわれていないからなのさ。あの涙はつぐなわれなくてはならないし、そうでなきゃ、調和なんてものはありえない。でも、いったい何でもってつぐなうのか。つぐなうなんてことが、ほんとうに可能なのか。(中略)
で、もしも、子どもたちの苦しみがだ、真理をあがなうのに不可欠な苦しみの総額の補充にあてられるんだったら、おれは前もって言っておく、たとえどんな真理だろうが、そんな犠牲に値しないとな。」(訳・亀山郁夫)
初出:2017年12月26日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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