ダースレイダー×プチ鹿島 『劇場版 センキョナンデス』 : 選挙の現場は、とにかくエモい!
映画評:ダースレイダー×プチ鹿島『劇場版 センキョナンデス』
選挙が、議会制民主主義政治の根幹であるというのは、誰もが知っている。主権者たる国民が、全員で議論をするなどということができない以上、代表を選んで議論してもらい、国家の運営方針を決めていくしかないからだ。
一一ところが、日本の選挙の「投票率」は、きわめて低い。
そのために、「組織票」という「一部勢力」の票を押さえている者が、選挙では圧倒的に有利になってしまう。
自民党が、日本を金づるとしか考えていない「旧統一教会」とべったりなのも、統一教会には手弁当で(無料で)献身的に動いてくれる「信者」が、全国に多数いるからである(以下、わかりやすいように「統一教会」と記載)。
そして、これは「創価学会」を支援母体に持つ、公明党も同じことだ。
「公職選挙法」では、選挙運動員を「雇用する(有給で働かせる)」ことができない。運動員は、無料奉仕でなければならない。
金を払えば「犯罪」であり、警察はそこに目を光らせていて、私も40年間、警察官であったから、所轄署の「選挙取締本部」で仕事をしたこともある。
警察の「選挙取締本部」の捜査員が、主に目を光らしているのは何かというと、有権者への直接買収もさることながら、運動員に日当を与える「日当買収」その他の、運動員に対する「買収」行為である。
地元選挙民に金を配るという、露骨な「買収」行為はバレやすいから、さすがに多くはないが、いわば「身内」である運動員に「アルバイト代を出す」とか「飯を食わせる」といったことだと、公職選挙法を知らない者なら「そのくらいは、して当然だろう」という感じなので、どうしても、こっそりと行われがちなのだ。
しかし、そうしたことはすべて「買収」であり、「公職選挙法違反」であり、要は「犯罪」。
だから警察は、そうした、行われがちな、言い換えれば、捕まえやすい、運動員への「買収」に、特に目を光らせるのである。
(※ 選挙運動関係者による飲酒会合などを見かけたら、ぜひ所轄の警察署へご一報ください。選挙違反の疑いがあるからです)
ちなみに、なぜ「運動員を雇ってはならない」のかといえば、それは、それを許すと、金のある奴が選挙に勝つに決まっているからだ。
選挙運動の公平性を保つために、運動員を雇うことを禁止する。
その一方、純粋にボランティアとして働く人の自由は妨げられないから、運動員はボランティアに限るということになる。
したがって、前記のとおり、運動員に金を払うわけにはいかないし、それだけではなく「お礼の品を渡す」とか「供応接待をする(飯を食わす)」といったことも許されない。これらもすべて「買収」の内なのである。
しかし、選挙の運動員というのは、選挙運動期間中、専属的に従事するとすれば、これはもう生半可な気持ちでできるようなものではない。
そのため、運動員の多くは、「候補者家族」か、日頃「候補者」の世話になっている「縁故者」や「支持者」、あるいは「党員」ということになるのだが、それだって「本職」を持っている人には、なかなか仕事を休んでまでできるものではないから、「無報酬の運動員」というのは、そう簡単に集めることはできない。
そうしたことから、無報酬で動いてくれる「支援団体」の存在は、否応なく大きなものにならざるのだ。
共産党のように「思想信条」でつながっている同志が「運動員」であればいいのだが、それだと、どうしても「少数精鋭」にしかなり得ない。
実際のところ、「思想信条」というほどのものを持たない他の党では、思想的な絆で結ばれた「同志」など、おのずと限られているために、(無報酬でなければならない)「運動員」の確保は、至難の技となる。そして、こうしたところに、「統一教会問題」の根の深さもある(つまり、関係は断ち切れない)。
候補者さんとしては、ボランティアで働いてくれるのなら「この際、思想信条は問いません」ということなるのも、現実問題としては、妥協せざるを得ないところなのである。
しかし、国民が、もっともっと「選挙」に対して興味を持ち、それに積極的に参加するならば、こうした問題は、一挙に解決する。
国民個々が、それぞれの信念にしたがって、無報酬で候補者を支援する「運動員」となるからで、そうであったなら、「統一教会」のような、元来、日本の政党と結びついて良いわけのない団体と結びついたり、ましてや、国政を担う「政権与党である自民党」と結びつくことなど、あり得なかった。選挙応援の見返りとして「政策決定への影響を許す」などということもなかったはずなのである。
だから、日本国民は、もっともっと「選挙」に興味を持って、積極的に選挙に参加しなければならない。そうしないと、日本の政治は「一部の人のための政治」になってしまうし、あろうことか「日本国民以外の人のための政治」(=統一教会問題)にさえなりかねないのだ。
しかし、『日本国民は、もっともっと「選挙」に興味を持って、積極的に選挙に参加しなければならない。』と言うのは簡単だが、それをどうすれば実現できるのかといえば、私には、この難問への明確な回答はない。
私自身「選挙は、面倒くさい」という印象の方が強く、投票の行くのが精一杯で、いくら暇を持て余したとしても、積極的に「選挙」に関わろうとは思わない。他にしたいことは、いくらでもあるので、「選挙」の優先順位はきわめて低いのである。
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さて、本作『劇場版 センキョナンデス』では、出演者であり監督でもある、ダースレイダーとプチ鹿島の二人が「選挙は、祭りである」とうったえる。
なぜ、そのようにうったえるのかといえば「楽しくなければ、誰も参加しないから」で、国民の多くが私のように「選挙なんか面倒くさい(義務)」みたいに感じていたのでは、「選挙」が盛り上がり、投票率が上がることなど、絶対にないからである。
しかし、いくら「選挙は、祭りである」とうったえたところで、「祭り」としての実態がなければ、そんなものは「絵に描いた餅」でしかない。そうした「掛け声」だけでは、何ら説得力をもたず、人を動かすことはできないだろう。
そこで「いや、選挙の現場へ行ってごらんなさいよ。実際の選挙の現場は、とってもエモくて面白いんだから」と訴えるのが、本作なのだ。
選挙を「候補者というキャラクターの対戦ゲーム」ででもあるかのように見て関わるなら、それが「生身の人間」によるものだからこそ、余計に面白い。
テレビで見ているだけではわからない、候補者や運動員たちの「生身のリアリティー」、あるいは、その「人間性」や「熱量」が直接感じられるからこそ、この「ゲーム」は、「祭り」的に面白いのである。
こう書くと、「大切な選挙を、遊び半分の娯楽扱いにするとは何事か」と思う人もいるだろう。その感覚は、私自身にもあるから、大変よくわかるのだが、しかし、そうした「しかつめらしさ」が、国民の多くを「選挙」から遠ざけているという現実を、軽視してはならない。
真面目なのは結構だが、真面目なだけでは、多くの人は「重い」「しんどい」と感じて、「選挙」を遠ざけてしまうのである。
だから、まずは「祭りとしての選挙」でも「娯楽としての選挙」でもかまわない。
そのような観点から「選挙」に興味を持てば、おのずと「選挙」全体を見渡す興味を持つことにもなり、狭い「一党一派」的な見方ではなく、全体を見渡せたがゆえの客観的評価もでき、実感を持って、自分なりの「支持者」を持つこともできるようになる。
実際、「候補者」というのは、テレビなどでは「作られた顔」を見せ、「建前のきれいごと」を語るだけだが、「選挙の現場」へ行けば、ある程度は、その人柄も伝わってくる。
本作『劇場版 センキョナンデス』の、ダースレイダーやプチ鹿島がそうしたように、「候補者」に直接、声をかけ質問したりすれば、それに対する反応に、「候補者の素顔」を見ることができるだろう。
無論、そんなことは、私たち「一般有権者」には、なかなかできることではないのだが、しかし、それは本来「して良いこと」なのである(単に「応援してます!」と声をかけるだけが能ではない)。
「ヤジを飛ばす」ことも含めて、国民には、その権利(直接声をかけ、質問したり、批判したりする権利)が保障されている。だからこそ、
などということにもなるのである。
これは「不当逮捕された」という話ではない。演説者の目の届く範囲から排除された(摘み出された)だけなのだが、警察官によるその「排除行為」が、憲法違反の人権侵害(権力の濫用)であるとして、損害賠償を求めた、という話なのだ。
いまどきの若い人は(警察官も含めて)、「みんな仲良く」を強調的に教え込まれているために、「批判」ということを知らず、それを、「悪口」や「誹謗中傷」と混同してしまいがちだ。
「ヤジ」というものを、単に「聞き苦しいもの=好ましくないもの=無い方が良いもの」と感じて、排除してしまいがちなのだが、「ヤジ」も「意見表明」のひとつのかたちである、という認識を持たなければならない。
例えば、ヤジを飛ばしている人に「ヤジってばかりいないで、堂々と意見を言ったらどうだ!」と言えば、喜んで意見を並べ立てる人が続出するだろう。多くの場合、ヤジというのは、十分な発言の機会を与えられていない者が、次善の策として採用する「簡易の意見表明」なのだ。
さらに、なぜ「街頭演説」が行われるのかと言えば、直接意見を交わしうる場として、「街頭(=広場=公開の場)」であることに、意味があるからだ。
つまり、私たちは、候補者たちの「街頭演説の場」で、候補者に向かって、直接、意見表明をしても良い。議論しても良い。相手に受けて立つ気があるのなら、それは「なされて当然の場」なのである。
無論、「候補者」たちは、等身大の生身を晒している「街頭演説の場」での「対等の議論」など、できれば避けたいと思うだろう。
票が欲しいために、周囲の人々に「良い印象だけを与えたい」と思うからで、仮に議論に勝っても「大人気ない」と思われては元も子もないから、「一般人」との議論には応じず、それを敬遠するのが常なのだが、しかしだからと言って、そうした「候補者」のペースに、私たち「有権者」が「合わせなければならない義務」はない。
「候補者」が「広場に出てきて、意見表明をする」以上は、反論がなされるのも「自明の前提」。
だから、本来ならば、それはなされるべきなのだが、私たち日本国民の多くは、「候補者は意見表明する人。有権者はその意見を聞く人」だと思い込まされている。調教されているのである。
だが、「候補者」と「有権者」は、「同じ国民」であり「対等」なのだから、「意見交換」も対等に行われて当然なのだ。そして、そういう「意見交換」という主体性を担うからこそ、「選挙」は「祭り」にもなるのである。
「祭り」というのは、テレビで見ているだけでは、ぜんぜん面白くはない。
現場に出かけて「雰囲気を味わう」ことで楽しくなるし、ましてや、「御輿を担ぐ」などの「祭り」の直接参加者ともなれば、もっと盛り上がる。
「選挙は、祭りだ!」というのは、そういうことなのだ。
テレビで視ているだけでは、「選挙」への関心が薄れていくのも当然。だが、それでは、国は立ちいかない。
だから、私たち主権者は、「選挙という祭りの現場」に出るべきなのだ。そうすれば、きっと、その興味ぶかさに惹かれるはずだ。一一というのが、この映画の趣旨である。
ダースレイダーとプチ鹿島は、その範を示してくれているのだ。
とは言え、「一般人でしかない」私たちが、彼らのような「祭りへの参加」を実践するのは、心理的に、容易なことではない。だが、この映画を観に行くことくらいなら、できるはずだ。
だから、まずは、この映画を観てみよう。そして、二人のあばき出した「候補者」たちの「素顔に近い顔」を見てみよう。
そうすれば、「選挙」や「政治」というものが、「どこか遠くで、偉い人たちのやっていること」なのではない、ということが実感できるはずである。
(2023年4月4日)
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