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是枝裕和監督 『怪物』 : 怪物は創られる

映画評:是枝裕和監督『怪物』

残念ながら「奇を衒った」だけの、凡作である。

本作のテーマは「怪物は創られる」ということになるのだが、結果としては、本作において、是枝裕和監督自身が、有名人好きの世間から「怪物監督」として「怪物化」されてしまっており、要は「過大評価」されてしまっているだけなのだ。

したがって、カンヌが与えた「脚本賞」とやらにも、私はまったく感心しない。

私自身、是枝裕和というリベラルで「弱者視点」に立つ人には「好意」を持っているのだが、だからと言って、必ずしも「傑作」が撮れるなどという、甘い創作感など持っていない。「人格高潔だから、良い作品が撮れる」などという、安直な考えは持っていないということだ。

カンヌ映画祭パルム・ドールを受賞して評判になった『万引き家族』は、監督の「弱者視点」と「見せ方」に新鮮さのある傑作だと思うのだが、前作の『ベイビー・ブローカー』は、人間の「優しさ」や「善意」だけが強調されすぎていて、いささか「甘い」作品だった。

では、本作はどうなのかというと、是枝監督のこうした「優しい人間観」が、どのような人間認識に裏づけられたものなのか、その「根拠」を示すような作品であったとは言えるのだが、しかし、その根拠自体が、いささか甘かったのだ。

つまり、こんなに簡単に「人間」を肯定できるのは、監督自身が「見たいものだけを見たいように見ている」からに、ほかならない。
今のネット社会に蔓延する「他者の怪物化」の、その反対である「他者の天使化」に陥っているから、「甘い」作品になっているのだ。

しかし、そうした人間観というのは、いかにも「一面的」だと言えるだろう。

かつて、テオドール・アドルノは『アウシュヴィッツの後、詩を書くことは野蛮である』と言ったけれども、是枝監督が「怪物は創られる」と言った時に、すでに「アウシュヴィッツ」は忘れられており、日本の狭い世間の中だけで「人間」が考えられてしまっていて、そこでは「凡庸な悪」という「怪物」の存在が、完全に失念されているのである。

たしかに「怪物らしい怪物」は「創られたもの」なのかもしれないが、しかし「怪物のイメージを安易に作り上げてしまう凡庸さ」というものは、本作『怪物』の前提的事実でもあり、まさにその「凡庸さ」こそが「怪物」であると考えるべきなのだから、「怪物は創られる」と言うだけでは不十分であり、「怪物を作る怪物」は、今も変わらず実在すると、そこをもっと強く訴えるべきだったのだ。本作の観客が、「我がこと」として痛みを感じられるほどに。

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【※ 本作の仕掛けを割りますので、未鑑賞の方はご注意ください】

上の「総論的評価」を読めば、勘の良い人なら、もしかすると本作がどのような「作り」の作品であるのか、おおよそのところを察することができるのではないだろうか。そしてそれは、たぶん当たっている。

『大きな湖のある郊外の町。息子を愛するシングルマザー、生徒思いの学校教師、そして無邪気な子どもたちが平穏な日常を送っている。そんなある日、学校でケンカが起きる。それはよくある子ども同士のケンカのように見えたが、当人たちの主張は食い違い、それが次第に社会やメディアをも巻き込んだ大事へと発展していく。そしてある嵐の朝、子どもたちがこつ然と姿を消してしまう。』

(映画.COM 「解説」より)

本作は、『のように見えたが、当人たちの主張は食い違い、それが次第に社会やメディアをも巻き込んだ大事へと発展していく。』とあるとおりで、要は「視点問題」を扱った作品であり、それを、ミステリー小説でいうところの「叙述トリック」によって表現した作品だと、そうまとめても良いだろう。

「Aと見えたもの(見せられたもの)」が、実は「B」でもあり、「C」でもあった。
要は、「視点の置き方(見る者の立場)」によって、「事実」は違った見え方をするものであり、そこに、「先入観」あるいは「偏見」や「思い込み」が加わることで、私たちは容易に、「普通の人」を怪物化してしまうのだ。

ある日、安藤サクラ演ずるところのシングル・マザーである「早織」は、小学生高学年の一人息子「湊」の様子がおかしいことに気づき、その様子を注視するようになる。
すると、通学用のスニーカーの片方が無くなっていたり、耳を怪我したりしていることに気づき、学校でいじめに遭っているのではないかと心配して問いただしたところ、湊は「(担任の)保利先生に殴られた」と告白する。

そこで、早織が学校へと赴いて、湊の証言を、高齢の女性校長に報告し、事実確認とその説明を求めたところ、学校側は当初「誤解があったようだが、申し訳のないことをしたと思うので、当該教師に謝罪させる」と言う。

学校側は、校長室という密室の中で、校長、教頭、前年の担任教師、そして、現在の担任の「保利」が、雁首を並べて頭を下げるが、その謝罪は、いかにも形式的なものであり、とにかく事を荒立てないようにしたいがための謝罪にしか見えず、まったく誠意が感じられなかった。

当然、早織は、そうした態度や『誤解』という言葉に引っかかって、「誤解ではなく事実なんじゃないんですか? それに、私が求めているのは、事実関係の説明であって、謝罪ではない」のだと追求するが、それまで力無く首を垂れているだけだった担任教師の保利は、あろうことか開き直ったように「湊くんがクラスメートをいじめていたから」というようなことを言い出して、あわてた教頭などによって、校長室を連れ出されてしまう。
それでも学校側は、とにかく謝罪するばかりであり、いかにも「臭いものには蓋」という態度に終始したために、早織の不信感を煽るばかりなのであった。

一一このあたりの「描写」は、現実の「いじめ問題」や「体罰問題」などで、いかにも「ありそうな話」である。

だから、私たち観客は、このシーンに、テレビでよく見かける、不祥事にともなう「謝罪会見での謝罪」の「わざとらしさ」を感じ、この作品が、「いじめ問題」や「体罰問題」に伴う「ありがちな欺瞞と不誠実」の問題を扱った、社会派の作品なのかと思ってしまう。

(佐賀北高・バスケ部監督が体罰問題の謝罪会見)

しかし、その後、不誠実に見えた担任教師の保利や校長、あるいは息子の視点などから描かれた「現実」は、早織が、そして私たち観客が、そう理解したようなものではなかった、という「現実」が示される。

つまり、担任教師の保利は、校長室での謝罪の時に見せたような「不誠実」な人間では決してなく、むしろ真面目な好青年であり、ただ、自分がやってもいない事について、十分な納得もないままに、学校を守るために「謝罪させられた」という被害者意識から、謝罪に心がこもっていなかったのだ、ということが描かれる。

また、無表情で「怪物」めいた印象を与え、怪しげな噂や行動のある校長も、そうした印象とは違った、当たり前の人間であり教師だったということが描かれる。

さらに、息子の言葉を信じて、学校に乗り込んできた早織を、学校側では「モンスターペアレント」ではないかと「怪物化」していたからこそ、先のような対応になってしまったという事情も描かれるのだ。

(保利役の永山瑛太)
(校長役の田中裕子)

この作品には、このほかに「同性愛」などの問題も絡んで、人が容易に他人を「誤解」してしまい、「怪物」化してしまうという事実を描いている。
その「思い込み」や「先入観」や「偏見」によって、私たちは、「普通の人」を、安直に「怪物化」してしまうのだ。

このようにして生み出される「怪物」とは、実際のところ多くの場合には、「虚像」にすぎなくて、「怪物化」された人の多くは「普通の人」であり、むしろ、他人を安易に怪物化してしまう私たちの方が「怪物」なのではないか。一一そんな「問題提起」をしているのが、本作なのである。

つまり、じつのところ本作が扱っているのは、「安直な決めつけ」に由来する、日本人の好きな「バッシング」の問題であり、「炎上」問題なのだ。

だからこそ、「パワハラ問題」で、さんざバッシングにあった、映画監督の河瀨直美は、本作『怪物』を絶賛して「5つ星 最高傑作」と評価することにもなったのであろう。

言い換えれば、本作『怪物』の背後には、河瀬直美をめぐる一連の「パワハラ疑惑報道」による「いじめ(袋叩き)」と呼んでも良いほどの「行き過ぎ」があったというのは、ほぼ間違いのないところだと、私は見たのだ。

なにしろ、是枝裕和監督は、これまで「芸能界のパワハラ問題」について、その現実を認めた上で「正していかなければならない」と強く語っていた立場であったからこそ、「河瀬直美をめぐるパワハラ報道」の「バッシング」には、いろいろと「思うところ」があったのは、まず間違いのないところだろう。

つまり、この作品テーマとは、印象的な『怪物、だ〜れだ?』というセリフが象徴する、「怪物探し」の危険性だとも言えるのだ。

私たちは安易に「類型化された悪役」としての「怪物」を見つけては、それを叩くことによって、自身の「正義」に酔いしれる。
しかし、そうした「半ば捏造された怪物」も、実のところ、たいがいの場合は「ただの人」なのである。

だから、私たちは「物事を一面的に見て判断する」のではなく、「当事者の視点に立ってみる」などして、「現実」を「多面的に検討すべきである」「そうすれば、類型的な偏見にとらわれる過ちも、グッと少なくなるはずだ」一一というようなメッセージが、本作には込められている。

しかしだ、当たり前の話だが、私たちは誰しも、現実を「自分の立場」からしか見られない。

もちろん、意識して「他者の視点」を取り込み、物事を「多面的」に検討するというのは必要なことだけれども、しかしそれは、そこまで含めても、やはり「私の視点」でしかない、というのも事実なのだ。

私たちは「万能の神」つまり「時空を超えた存在」ではないのだから、「自分の視点」からは決して逃れられない(一瞬ですべての側面を捉え、しかも、その事実の時間的変化もすべて把握する、ことなどできない)。

「他者の視点」を取り込むと言っても、それは「私の視点から見た、他者の視点」あるいは「私の解釈を経た、他者の視点」であって、決して「他者の視点」そのものではない。

例えば、ここに「狂気の快楽殺人鬼」という、正真正銘の「怪物」がいたとする。
彼を「怪物」と呼ぶのは容易だが、しかし、彼の「生育環境」などを考慮する、つまり「殺人鬼の視点」に立つなら、彼が「単なる怪物」ではないということがわかる、一一というのが、是枝監督の考えている「他者の視点に立つ」ということだ。

しかし、これは、本当の意味での「他者の視点」ではない。
なぜなら、殺人鬼当人は、快楽殺人自体を悪いことだとは思っておらず、むしろそれを正当化する視点に立っているはずだからだ。

つまり、真に「殺人鬼の視点」に立つならば、「快楽殺人は正しい行為である(あるいは、望ましい、許されて然るべき行為である)」ということになる。
それこそが、「殺人鬼の視点」であり、「殺人鬼の彼にも、同情すべき点があったというのは、彼の視点に立ってみればわかることだ」というのは、所詮、殺人者の「観察者」である「私の視点」でしかあり得ないのだ。

したがって、私たちは、安易に「主観的な視点だけ」で判断すべきではないけれども、しかしまた、安易に「他者の視点」に立てる、という「傲慢」に陥ってもならない。

例えば、「人を殺すことは、悪なのか?」という問いに対して、多くの人は「悪である」と答えるが、しかし、では「死刑は、所詮、合法的な殺人でしかなく、アリバイの立てられた悪である」という視点に立てる日本人が、一体どれくらいいるだろう。
あるいは、同じ意味で「正当防衛もまた、合法的な暴力であり、本質的には悪である」という視点を引き受けられる人が、どれほどいるだろうか?

一一だが、現実に、そのように考える人もいて、私たちの多くは、そうした「視点」とは折り合えないし、まして「快楽殺人鬼の視点」などとは、決して折り合う気にはなれないであろう。

そして、そのように「折り合うことのできない、他者の視点」こそが、じつは、語の本来の意味における「他者の視点」なのである。

したがって、本作『怪物』は、ミステリー小説的な「叙述トリック」によって、「ある見方が、一面的なものでしかない」ということを、わかりやすく示して、私たちの「常識的判断」が、いかに「一面的」であり、その意味で「根拠薄弱」なものでしかないのかを描いてはいるのだけれども、しかし、こうした「監督の視点」もまた、じつのところ、「一面的」な「監督の視点」でしかない。

是枝監督は、本作において「一面的な見方ではなく、多面的に物事を見るべきだ」と語っているのだけれども、この時に監督は、ある「一面的な見方」が、しばしば正しいかったという、当たり前の現実を捨象している。

それに、監督が「一面的な見方」だと判断したような「他者の視点」もまた、当人にとっては「多面的な検討を経た上での判断」であることの方が、むしろ多いのだ。
つまり、ある人が、ある事実に関して、比較的速やかに判断することができるのは、それまでの「経験の蓄積」が参照されているからなのだ。

結果として正しかったり間違ったりした「経験的視点」を、今の判断に加味しているからこそ、私たちは、比較的速やかに判断ができるし、また、現実を生きていく上では、そうした「速やかな判断」は必要なものであり、避け難いものでもある。
判断を迫られる何かに行き当たるたびに「いやいや待てよ。まずは多面的な検討をしたのちに判断しよう」などとは言っていては、生きてはいけないのである(例えば、青信号を「故障ではないか」と、いちいち疑ってはいられない)。

つまり、物語の冒頭で、息子の言葉を信じて、学校に乗り込んだ早織の判断は、決して「一面的で、誤ったもの」だったなどとは言えず、むしろ「経験的に妥当なもの」であり、事実彼女は「事実関係の説明を求めに行った」のだ。

(早織役の安藤さくら。文句なしの好演)

そして、そんな彼女が「誤解」するに至ったのは、学校側が「良かれと思って」事実を隠蔽してしまったせいであり、そのために彼女は「疑心暗鬼」にとらわれて、そこに「鬼(怪物)」を見ざるを得なかった。

そして、このことは、そのまま「この映画の構造」にも当てはまる。

観客の多くが、監督の「仕向けた」とおりに「思い込みでの判断はいけないよね」「偏見を持って、ものを見てはいけない」などと思ってしまうのは、「そのように見せているから」に他ならない。
(そして更には、「是枝裕和監督はすごい監督であり、カンヌでも絶賛されたんだから、本作『怪物』はすごい作品に決まっている」という「偏見(権威主義的な色眼鏡)」によって、多くの観客は、判断を誤ってしまった)

ともあれ、事実がどうであったかに関わりなく、本作はそのように「描いていた(創っていた、見せていた)」から、そのように見えた。

(見誤ると見誤せられるとは別物)

つまり、学校側が「良かれと思って、事実を隠していた」からこそ、早織は「いもしない怪物」を見ることになってしまったのと同様、本作の観客は、監督の「隠蔽」によって、いもしない「怪物」を見せられ、その後で「じつは怪物なんかいなかった」と「種明かし」をされることで、「怪物はいなかった」という結論に、誘導されたのである。

したがって、本作は「偏見はいけないと言いながら、観客を偏見に誘導することで、主張に説得力を持たせた作品」なのだと、そう言えるだろう。
だが、観客たちは、作品が「描いたとおり」に鑑賞したのだから、これは「偏見」とは別なもの、つまり、正しい見方に過ぎない。

だから、観客の多くは、本作が「良いことを言っている」と思いながらも、どこかで「狐につままれた」ような、要は「騙された」ような感覚を持ってしまったのではないだろうか。

しかし、その「実感」こそが、まさに正しい「判断」であり、むしろ「この作品は、何を語っているのか」といった、観客たちの「作品鑑賞における、テーマ主義的な思い込み(偏見)」が、この作品の「実態」を見誤らせたのである(あるいは「私は、一面的な見方をする愚か者ではない」という自己正当化によって、作品を好意的に見誤った)。

そして、本作の「問題点」とは、「正しい主張」をするのに、下手に「エンタメ的な欺瞞(叙述トリック)」を弄してしまった、という点にあると言えよう。

そこには、是枝裕和監督の、姑息で好ましからざる「コントロール願望」が、端なくも露呈していたのである。


(2023年6月6日)

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