Kashmir 『てるみな 5』 : 日常のなかの異界へ
書評:Kashmir『てるみな 東京猫耳巡礼記(5)』(楽園コミックス・白泉社)
前の第4巻の刊行が2021年5月だったから、じつに3年ぶりの刊行である。
しかし、「「楽園」web 増刊」への、年に3本平均の不定期連載とは言え、『楽園 Le Paradis』本誌に別作品『ぱらのま』を連載している作者としては、ちょうど良いくらいの執筆ペースなのではないだろうか。
昔の「マンガ週刊誌連載」のような、異常な執筆ペースで、読み切り作品の連載などできるわけもなく、作品の品質を保つには、月に1本程度がちょうど良いのではないかと思うからだ。
さて、そんな待望の「第5巻」も、とても楽しく読めたし、ある意味では、これまでで最も楽しめたかもしれない。
何が違うのかというと、昔に比べ本巻はあきらかに「明るい」のだ。
本作『てるみな』は、猫耳少女が電車に乗って、さまざまな「異界」を降り立つエピソードを描いた「鉄オタ的幻想譚」だ。
で、そこに描かれる、毎回工夫の凝らされた「異界」は、以前は、もっと「暗く妖しい」ものが多かったように思う。わかりやすく(?)例えて言うなら、『ウルトラQ』的な世界であり、ラヴクラフトの「クトゥルフ神話」の世界をペースにした作品などもあった。
私自身、これまでにいろんなレビューの中で書いてきたように、「現実世界から暗く妖しい異界へ」というお話が大好きなので、『てるみな』は第1巻以来ずっと、そんな私のツボにハマった作品だったのである。
ところが、歳のせいもあってか、そうした初期の「ダークでヘビー」な作風よりも、かなりライトになったとはいえ、どこか「ホッとする懐かしさ」を感じさせる、本巻所収の近作の方が、むしろ素直に楽しめるようになってきたように思うのだ。
また、作者のKashmirにも、そうした傾向の変化が見られる。
本巻に寄せられた、現時点で2本の「Amazonカスタマーレビュー」でも、そのあたりが指摘されており、また そこで賛否が分れてもいる。
両氏のおっしゃるとおりだと思う。
「Amazon Customer」氏の『今回も』という形容は微妙なところだが、『理不尽な設定と程よいダーク感』というのは、私の今の印象とまったく同じである。
一方、「sutakora」氏のご指摘どおり、『初期の頃はかなりおどろおどろしい風景と怖さのイマジネーションがぎゅうぎゅうに詰め込まれておりそれが好きだった』人には、そうした「濃い」要素が『全体の一割程度にとどまっている』本巻は『物足りない』と感じられるだろうし、その点で『並行したシリーズの「ぱらのま」にちょっと不思議が付け足された感じ』という評価になるのも理解できるし、間違ってもない。
けれども、「sutakora」氏とは対照的な「Amazon Customer」氏のおっしゃる『一気に読むと疲れますw』というのも、決して間違いではない。
なぜなら、昔に比べて作風がライトになったとは言え、今でも一作一作工夫の凝らされた「粒揃い」の作品集なのだから、一気読みすれば、少々「疲れ」ないこともないからである。薄くなったのは「暗い妖しさ」であって、「中身」が薄くなったわけではないからだ。
したがって、両氏のご意見は、決して矛盾するものではなく、要は「好み」の問題に過ぎないのだと、私は思う。
さらに言えば、これも良し悪しの問題ではなく、一般的な傾向としては、体力のある若い人は初期の「濃口(味つけの濃いもの)」を、体力のない人や高齢者は「薄口(味つけの薄目なもの)」となった本巻の方を「好む」のではないだろうか。
いずれにしろ、「濃口」が好きか「薄口」が好きかは、善悪優劣の問題ではなく、好みの問題にすぎないのだ。
「Kashmir」の「好み」が変わってきていることについては、3年前の第4巻のレビューで、すでに指摘していた。
ここでは「生の感覚」という表現をしているが、もう少し平たく言えば「現実的な生活感覚」ということにもなろう。
要するに、その作風において「Kashmir」は、昔は「異界へ出ていこうとする(脱現実)傾向」が強かったのに対し、今は「日常の中に異界を見つける」という方向へ変わってきているように見えるのだ。
昔は「日常とは無味乾燥なもの」と感じられていたから、そんな「日常の外の異界へ」ということになったのだが、今では、日常の中にこそ「リアルな異界」を見つけることができるようになった、というようなことなのではないだろうか。
なにしろ、現実問題として、「外部としての異界」などというものに達することは、まず不可能であり、昔の「ドラッグカルチャー」のように薬物に手を染めるか、さもなくは発狂するしかないだろう。
したがって、年相応に知恵がついてくれば、「日常世界なんて、つまらない!」と、焦って「否定的に決めつける」のではなく、落ち着いて、日常を「仔細に観察する」ことで、そこに「小さな異界」の開口部を、つまり「活路」を見出そうとするようになるのではないだろうか。そういう方向性だって、十分あり得るのだ。
そして、そうした方向性で描く、典型的なマンガ家が、鬼才「panpanya」である。
その「panpanya」は、「Kashmir」と同じ『楽園』誌の作家だし、「panpanya」を特集した批評誌『ユリイカ』(2024年1月号)には「Kashmir」も寄稿していて、アマチュア時代の「panpanya」に、すでに注目していたこともわかる。
つまり、両者は共に、大まかに言って、「非日常の異界から日常のなかの異界へ」あるいは「外の異界から内の異界へ」という「傾向」を示しており、それは多分「時代の要請」なのではないかと、そう考えることもできよう。
私は『てるみな』第4巻のレビューで、上に引用した部分に続いて、次のように書いていた。
そう指摘した上で、大雑把に言えば、それまでの「現実には豊かだが、退屈な日常」の時代の「現実逃避」から、「現実に生きにくくなり、退屈だなどと言っていられなくなった」今の時代へと変化した、その必然性として、現実の中に「楽園を見つける」という方向に変わってきたのではないかと、そう指摘したのである。
例えて言えば、昔は「現実逃避」するために「派手な海外旅行」や「世界中をさすらう貧乏旅行」なんて贅沢なことをしたけれど、今はそんな大袈裟なことはできないから、「ベランダの鉢植えの中」に「楽園」を見つけたり、「長らく歩いたことのなかった、小学校への通学路」を辿ってみることで、その変哲もない道筋の中に「楽園」を見出したりと、そういったふうになってきたのではないか、ということだ。
無論、こうした傾向を「貧しくなったから、手近なところで安く済ませるようになった、敗北主義的な貧乏臭さ」だと否定することは可能だろう。だが逆に言えば「金と力と暇に任せて、派手にジタバタすれば、それで外部(異界)が見つかるとでも言うのか?」ということにもなろう。
同様に「Kashmir」も、昔に比べれば、妙に「明るく」なって「毒が無くなった」とも言えるのだけれど、それもいちがいに否定されるべきことではあるまい。
つまり、「反俗」も良いけれど、可能なのであれば、「脱俗」や「超俗」が悪いはずもない、ということである。
昔の中国の「神仙」のように、山奥の異界に住まなくとも、都会の中に「異界」を見つけ、そこで「ほっこり」できるのなら、それも悪いことではないはずだ。
そもそも「異界」を求めてというのは、わざわざ「苦しむために」それを探した、ということではないはずなのである。
「日常なかの異界」という本巻のこうした特徴は、帯の惹句に、わかりやすく表現されている。
これが「ほっこり」させる側面の象徴的表現であり、その横にはしっかりと、
とあるとおりなのだ。
死と隣り合わせだって、ほっこりできるのなら、それでいいではないか。
もはや私たちは、絶対安全の中に「楽園」を見つけるのではなく、あした死ぬかもしれないところでも「楽園」を見つけることのできる生き方を求めているのではないか。だから、やたらに「重く暗く」には、ならないのではないだろうか。
無論、必要なときには「重く暗く」なるべきであり、なれなくてはならない。
そんな「君子豹変」ができないようでは、今の世界のなかに「楽園」を見つけることは不可能だろう。ただ、いつでも「ニコニコして、いい人」というだけで済むのならそれもいいが、実際にはそれでは済まないのである。
ともあれ、猫耳少女が、けっこう「気味悪い世界(異界)」に入っていきながら、それでもそこを楽しんだ後に「帰ってくる」ように、私たちも、そのような、ある意味で「図太い楽しみ方」できるようにならなければ、今の世の中は、苦しいだけということになってしまうのではないだろうか。
だから、図太く鈍感になるのは、かならずしも悪いことではないのである。
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さて、ここまでは、本巻の収録作品について、まったく触れることができなかったので、最後にいくつか触れておこう。
まず、本巻収録の11作の中で、私がいちばん気に入ったのは、第28話の「かわら」である。
ストーリー紹介はしないが、「失われたもの、忘れ去られたもの」への著者の「切ない共感」を感じさせる、抒情的な佳品としてお薦めしたい。
あと、これは半分冗談だと思って聞いてほしいのだが一一、かねてより「大失敗確実」と言われてながら、現在も開催に向けての突貫工事が強行されている、話題の「大阪万博」(大阪維新の会・吉村洋文大阪府知事 責任監修)に関連した「ネタ」を、紹介しておこう。
第24話「水神」に登場する、下に示した「天変地異の神」が、「大阪万博」のマスコットキャラクターである、通称「コロシテくん」(正式名称・ミャクミャク)に似ている、と感じたのは、はたして私だけだろうか?
この第24話「水神」は、「「楽園」web 増刊」の「2021年5月号」に掲載されたもので、調べてみると、「大阪万博」のマスコットキャラクターが公募の結果決まったのは「2022年3月2日」である。
だから、「Kashmir」が、通称「コロシテくん」(正式名称・ミャクミャク)を揶揄して「天変地異の神」をデザインした可能性はない、と断じていいだろう。
このマスコットキャラクターは、採用決定時には、まだ「ミャクミャク」という正式名称がなかったため、ネット上で「コロシテくん」などと呼ばれていたのだ。
今では、手足の生えた人型の胴体もあれば、笑っている口もついていて、ちょっと可愛く(なった分、無難にも)なった「コロシテくん」だが、最初は「真っ赤なポンデリングに、目玉がたくさんついている」という、いかにも「グロテスクなデザイン」で、選考理由とされたとおり、尋常ではないインパクトはあるのだけれど、それにしても「なんで、こんなものを万博の顔に?(良識を疑うよ)」という否定的な意見も、決して少なくはなかった。要は「目立てば良いのか(それが維新流なのか)?」ということである。
ともあれ、その「真っ赤なポンデリングに、目玉がたくさんついている」ようなデザインが、マンガかアニメかに登場する「人間を生きたまま体内に取り込む怪物」(『デビルマン』のジンメンみたいなものか)に似ていて、その怪物に取り込まれた人たちが、死ぬこともできずに「殺してくれ〜、殺してくれ〜」というようなことを訴えるそうで、それに「似ている」というので、「真っ赤なポンデリングに、目玉がたくさんついている」ようなデザインのそれに、「コロシテくん」という「あだ名」がついたのである。
そんなわけで、通称「コロシテくん」(正式名称・ミャクミャク)が決まる前に描かれたマンガのキャラクターなのだから、「天変地異の神」との相似は、たんなる偶然なのだろう。
ところがだ、万博の会場となる夢洲は、大阪湾を「産業廃棄物」で埋め立てた人工島であり、これまでは「直接の乗りいれ経路」が無かった(隣の人工島に渡って、そこからの橋で夢洲に入った)。
そこで現在、夢洲への地下鉄の延伸工事と海底道路(?)か何かの工事が進められているのだが、それだけだと、台風が来たり、万が一にも「南海トラフ地震」が発生したら、交通が途絶して孤立してしまうのではないか、などと危惧されている。
そしてそのことを考えれば、「天変地異の神」との偶然の相似というのは、まったく洒落にならないのだ。
そもそも、この第24話「水神」も、鉄オタ猫耳少女の願いをうけて「線路のないところに線路を敷こうとする、神様たちのお話」なのである。
偶然にしては、ちょっと出来すぎ感がないでもないから、吉村洋文知事は、万難を廃するために、今からでも遅くないので、「Kashmir」の描く、巨大な白蛇の「水神」様か、その水神さまが化けた美少女を、通称「コロシテくん」(正式名称・ミャクミャク)に替えて、とは言わないが、万博の「第2マスコットキャラクター」にして、お祈り(神事)でもとり行ってはどうだろうか?
そうと決まれば、善は急げで、吉村洋文知事は、「空飛ぶタクシー(実は、ただのドローン)」に乗って、「Kashmir」のもとへ許諾を取りに行くべきだと思う。
来年の「大阪万博」が、「楽園」となるか「地獄」となるか、これは洒落にならない現実なのである。一一いや、ほんまに。
(2024年5月11日)
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