ジュリアン・デュヴィヴィエ監督 『舞踏会の手帖』 : オムニバスという形式の精華
映画評:ジュリアン・デュヴィヴィエ監督『舞踏会の手帖』(1937年・フランス映画)
これは本当によくできた、贅沢な映画である。
私が視たDVDの箱裏には「オムニバス映画の最高峰」と書かれているが、この言葉に偽りはない。
その紹介文にもあるとおり、「オムニバス」というのは、元は「乗合馬車」という意味で、要はいろんな人が同じ乗り物に乗り合わせるのと同様に、1本の映画の中にいろんな「物語」が盛り込まれている、という形式の作品を言う。
だが、そうした意味での「短編集」形式だとは言っても、小説家の「短編集」のように、まったく無関係な作品の寄せ集めというわけではなく、映画の場合は、ある外枠物語の中に、その一部を構成するいくつかの作中物語を収めているものがほとんどだ。
例えば、「百物語」形式などがその典型で、夏の夜に友達が集まって、持ち寄った怪談を順に披露していくというようなパターンである。
この場合、「百物語」をやろうと、友達が集まってくる冒頭の部分が「外枠」の物語で、一人目の語り出す怪談が、そこに含まれるひとつ目の短編ということになる。その物語が終わると、再び「百物語」の会場に場面が戻って、語られた物語についての感想などがくちぐちに交わされたりした後、二人目の語り手が「私のはもっと怖いぞ」などと言って二つ目の物語(短編)に入るという、そんなパターンが4、5度くり返されたあと、最後はまた「百物語」の会場(現実)に戻ったところで、何らかの「オチ」がつく一一というようなものが多い。
つまり、厳密にいうならば、「オムニバス」と言っても、「テーマが統一されただけの、それぞれの関連はない短編集」に近いものもあれば、中身の短編が、全体に対するパーツとしての意味合いが大きい「外枠物語が主体の連作長編」のパターンもある。
本作『舞踏会の手帖』は、まさに後者の傑作で、作中に「短いエピソードがいくつも並ぶ」というその形式は、特異な長編を成立させるために、ぜひとも必要な条件となっており、単なる「より取り見取り」の短編集にするために、言い訳程度の「外枠」が設定されているといったものとは本質的に違った、極めて「よく計算された(設計された)作品」なのだ。
○ ○ ○
本作の「外枠物語」は、次のようなものである。
つまり、36歳になったクリスティーヌ(※ ここではWikipediaに表記に合わせた)は、夢のようだった「舞踏会の夜」に、自分に愛を囁いてくれた若者たちを訪ねることで、もう一度、人生を見つめ直そうと考え、存命で住所のわかった7人を順に訪ねてゆくのだが、その1人目が、上の「ジョルジュ・オーディエ」であったということである。
【以下、結末までバラしますので、未鑑賞の方はご注意ください】
ここから描かれる「7人との再会の物語」が、7つの「短編」ということになる。内容は、次のとおりだ。
ここでは、それぞれのエピソードがあっさりと説明されているが、実際には、それぞれに味わいのあるエピソードに仕上がっており、よくぞここまでの水準を保ったものだと感心させられる。
普通、そこそこ内容のあるエピソードにしようと思えば、作中エピソードの数を減らさなければならないので、そのぶんレパートリーに欠けるきらいのある作品になってしまうし、一方、作中エピソードの数を増やしすぎると、それぞれのエピソードが薄くなる上に、よくできたエピソードとそうでないものとの落差が目につく作品になったりもするからだ。そのあたりの塩梅が、当たり前の長編などより、よほど難しいのである。
ところが、本作の場合、多少の凸凹はあっても、全体によくできていて、どのエピソードを良いと感じるかは、観る者の「好み」にすぎないと言っても良いくらいに、趣向の凝らされた粒揃いなのだ。
これらの作中エピソードの登場する男性は、すべて戦前の名優たちが演じているというから、彼らの個性と演技が素晴らしいというのももちろんあるのだけれども、やはり、名優たちの個性を活かして、誰の顔もつぶすことのないエピソードを取り揃えてみせた、監督自身による脚本の練り込まれた完成度が、何より素晴らしいのではないだろうか。
ここで、私が個人的に好きなエピソードを、すこし詳しく紹介しておこう。2つ目の「ピエール」のエピソードである。
「ストーリー紹介」にもあるとおり、舞踏会に参加した頃の若いピエールは、弁護士を目指す文学青年だった。だが今の彼は、弁護士だった頃の知識を悪用する泥棒の親玉となっており、名前も偽名の「ジョー」と名乗っていた。
そうとも知らずに、彼の経営するキャバレーを訪ねてきたクリスティーナは、店員に「ピエールさんを呼んで」と頼むが「そんな人はいませんよ」と言われる。だが、客の相手をしていた男の横顔にピエールの面影を見つけて、クリスティーナは「あの方は?」と問うと、店員は「あれはうちの経営者のジョーです」と言うので、クリスティーナは店員に、ピエールが舞踏会の夜、彼女に囁いたヴェルレーヌの詩の一節を唱え、それを「ジョーさんに伝えてください」と頼む。
その詩を聞かされたピエールは、彼女が、むかし舞踏会で踊った少女だと、やっとのことで思い出すのだが、それまでの半生で辛酸を舐めてきた彼は、クリスティーナが突然訪ねてきた理由を「落ちぶれた女が、金を無心しにきたのだろう」と思い込んで、適当にあしらおうとするのだが、彼女がその後の事情を話して、思い出の人たちを訪ねて歩いているのだと説明すると、ピエールは彼我の落差に唖然としつつも、徐々にクリスティーヌに心を許し、昔のことを思い出して二人で語り合う。
けれども、そんな彼に店に、突如警察がやってきてピエールに同行を求める。ピエールが陰で仕組んだ犯罪が露見し、彼を連行しにきたのである。そのことにすぐに気づいた彼は、紳士的に、クリスティーヌに「あなたの前から消えるのは、ヤクザ者のジョーです。でも、ピエールは、あなたのもとに残していきます」と言って、警察に連行されていくのである。
このエピソードは、7つのエピソードの中では最も落差の大きい、ロマンティックなものだ。その、いかにも戦前のフランス映画だなといった点で、今ではとうてい観ることのできないエピソードとして、私は稀有な魅力をそこに感じたのである。
ともあれ、クリスティーヌはそんなふうにして6人の男を訪ね歩き、それぞれに「変わってしまった男たち」に失望し、7人目のファビアンの場合は、子持ちの床屋になった彼だけではなく、自分が長年、夢にまで見ていた「舞踏会の夜」自体が、じつは「記憶の中で美化され、改変されたもの」であったことを知らされてしまう。
そんな失望を抱えて旅から戻ってきたクリスティーヌに対して、夫の秘書であったブレモンが、唯一行方のわからなかった「ジェラール」の居場所がわかったと言う。彼女が、最も惹かれていた、あのジェラールだ。
しかも、ジェラールはなんと、クリスティーヌの住む館と大きな湖(コモ湖)をはさんだ対岸に、昔からずっと住んでいたというのだ。まさに「灯台下暗し」だったのである。
しかし、七度も失望を繰り返したクリスティーナなので、当初は、ジェラールに会いにいくことはしないと断るのだが、ブレモンは「会って、過去と決着をつけるべきです」と勧める。
そして、しばらくして気持ちの整理がついたクリスティーヌは、ジェラールを訪ねて対岸へと渡り、そこに建っていたジェラールの広壮な屋敷の庭に入っていく。すると、庭の噴水の縁に腰掛けてうなだれている、かつてのジェラールそっくりな少年に目を止める。クリスティーヌが少年に「ジェラールの息子さんね。お父様はいらっしゃる?」と声をかけたところ、少年は、つい先日、父のジェラールは亡くなり、この屋敷も人手に渡ることになってしまった。彼自身もここを出ていかなければならなくなったのだと言う。
さて、ここで、場面は変わって、先ほどの少年が、お屋敷の一室に立派なタキシード姿で立っており、そこへ男装風のクリスティーナがやってくると、少年は「舞踏会なんて初めてです。社交界デビューなんてドキドキだ」と顔を紅潮させ、嬉しそうにクリスティーヌに言う。するとクリスティーは、養子にした少年に、
と声をかけてやり、二人は舞踏会へと出かけていく。
そして、その部屋のテーブルの上の灰皿には、吸いかけのタバコが、ゆったりと紫煙を上げているというカットで、この物語は幕を閉じるのである。
一一つまり、このラストが意味するのは、四〇前になっても「夢見る小娘」のままのクリスティーヌだったが、その「夢」が破れて失望した後、本当に好きだった男性にも会えなかったものの、その息子と出会うことにより、自分の過去の夢だけを追う人生ではなく、他人の幸福ために生きることに生きがいを見出す大人に成長した、ということである。
そして「初めての煙草」とは、「大人になる」ことの比喩であり、最初は煙たいだけで何の魅力もない煙草だけれど、慣れればその魅力がわかってくるものだということを意味していると考えて良いだろう(ここで、煙草の害悪を持ち出す野暮は無しだ)。
「夢見る乙女」には煙草は似合わないけれども、「大人の女」には煙草が似合うし、クリスティーナも、覚悟して「大人の女」になったのだということを、吸いかけの「初めての煙草」は示していたのであろう。
斯様に、じつに「よく出来た作品」と言うほかない傑作であった。
(2024年3月13日)
○ ○ ○
○ ○ ○
・