ジョン・ボウカー『入門 神とはなにか』 : 無自覚に前提された〈神の実在〉
書評:ジョン・ボウカー『入門 神とはなにか』(知泉書館)
本書は、タイトルどおり「神とは何か」を問うた本である。しかし、最大の問題点は、著者自身が無自覚に「神の実在」を前提してしまっている点だ。
つまり本書における「神とは何か」という問いは、実質的に「神は、どのように(人々によって)理解されてきたか」という問いに格下げされてしまっており、「神の不存在」は、終始顧慮されていないのだ。
「神とは、実在するけれども、人間には十全にその実在を捉えられない存在」だとして、これまで人々によって「どのような不完全かつ多様な捉え方がなされてきたのか」ということしか本書は語っておらず、「神が十全に捉えられないのは、そもそも存在していないからだ」という可能性は、まったく考慮されていないのである。
たしかに著者は、無神論的な「神理解」に対しても、一定の理解を示している。
しかし、それは「神の不存在の可能性」を認めるものではなく、神が十全に捉えられないものである以上、神の存在証明は不可能なのであるから、神が存在しないという考え方にも一理ある(信じられない人がいても致し方ない)、という程度の評価でしかない。
実際、著者が本書で繰り広げるのは、いろんな宗教宗派による「神理解」の紹介であり、それらの「神理解」において、「神はたしかに存在すると考えて然るべきではあるものの、しかし十全には捉えられないものである」という、あらかじめ前提されていたところに、最後はもっともらしく落ち着くのである。
著者が、クリスチャンだから仕方がない、と言えばそれまでだ。
しかし、キリスト教の「神理解」が唯一正しいとは主張しないものの、「神」は存在していると前提して、その「実像」に可能なかぎり迫ろう、という著者の姿勢は、(独善的でしかあり得ないカトリックのものではなく、あくまでも)神との一対一の関係で「我が神」を求めるプロテスタントらしいものではあれ、この「本質的に不徹底な神探求」を、さほど高く評価することは出来ない。
「神の不存在の可能性」を最初から捨象し、問題を「神の実在・不存在」ではなく、「人間の探求能力の限界」へとすり替えてしまった、この自慰的かつ保身(保信)的な探求態度を高く評価することは、前提を同じくする人以外には不可能なのである。
そこで、注目すべきは、本書の翻訳者である中川正生である。
中川は、キリスト教徒でもなければ、(宗教宗派に帰依入信するという意味での、具体的な)信仰自体も持っていないようだが、中川は中川なりに「真の神」を切実に求めている、いわゆる求道者のようだ。
中川は「訳者あとがき」で、次のように正直に語っている。
これを読めば、中川の人の良さと、その限界である「神探求の不徹底さ」が、よくわかろう。
たしかに中川は、無神論や不可知論を否定してはいない。自分がそれに止まる蓋然性も否定していない。
しかし、中川のやっていることは、所詮「判断の先送りによる、信仰願望の延命」行為でしかない。
「神を信じたい。しかし、確信が持てるほどの、確たる神実在の証拠は出てきそうにない。それならば、死ぬまで、誠実に神探求をすることで、自身の知的誠実さの証明は確保でき、信仰を決断できないことへの非難を避けるアリバイともなろう」という「逃げ」の態度しか、ここにはない。
つまり「証拠不十分なら、盲信するようなことは絶対にすまい」あるいは逆に「神がいると確信できたら、証拠不十分の盲信と言われようが信じよう」というハッキリとした覚悟が、中川には無いのである。
そんな中川だからこそ、本質的な論点を回避した上で、ああでもないこうでもないといった議論に終始して「博識と知的誠実さをアピールしただけ」の本書を、翻訳出版する気にもなったのであろう。
私に言わせれば、本物の神探求者とは「神よ、存在するのであれば、有無を言わさず、私を納得させてみよ。迷える者を救う神なのであれば、迷える私を納得させて見せよ。それもできぬようなものは神ではないし、それが出来る者がいないのであれば、それは神がいないということであり、それなら、無神論や不可知論、不信心を非難する資格は、神にも何様にもないのだ」と、真剣に立ち向かう覚悟のある人間のことだと考える。
中川も言うとおり、願望充足的な、安易な盲信しかできないというのは、そもそも神に対して失礼だし、そういう者にしか信じられないような神なのであれば、それは「存在しない」ということだ。
「神」とは、そのあまりの大きさにおいて、本質的に「生かすか殺すか」しかない、人が真剣に(血みどろになって)対決すべきものなのである。
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