【旧稿再録:初出「アレクセイの花園」2005年7月10日】
(※ 再録時註:今では「出版不況」などというのは当たり前すぎて、話題にも上らないくらいだが、2005年の本稿執筆当時は、まだまだ、そうではなかった。今では当たり前の「電子書籍」は、1986年に日本電子出版協会が設立されているものの、現在、俗に「電子書籍元年」と呼ばれるのは、2010年1月にApple社が「iPad」発売してからである。したがって、2005年当時の出版界は、「活字の本の低落状況をいかに食い止めるか」について、そろそろ本気で考え始めた時期、とでも言えるかもしれない)
さて今日も、ネタに尽きない、われらが笠井潔がらみの話題だ。
なかなか興味ぶかい記事を見つけたので、ご紹介していこう。
サイト『大森望のSFページ』の6月11日付け「狂乱西葛西日記」(※ リンク切れ・https://www.asahi-net.or.jp/~kx3m-ab/olddiary.html参照)に、以下のような記載があった。
見てのとおり、この記事に示されているのは、私の状況認識を裏づける現実・現象と言えよう。
だが、私はそんなことを自慢したいのではない。なぜなら、贔屓目なしに現実を客観視しておれば、こうした出版界の現状は(たとえ業界が意図的に隠蔽していても)誰にでも見て取ることができる程度のものだからだし、また私のように公言しないまでも、こうした現状を理解している人は決して少なくはない、とも考えるからだ。
大森望は、良くも悪くも党派性をもたない「無責任男(スキゾ・キッズ)」だから、こういうことを正直に(面白がって)書くのだが、だからこそ現象面の紹介については、信頼度が高いのだとも言えるだろう。
一方、そんな大森望に、「説教」を垂れたり「歴史認識」を語ったりする、お馴染み「笠井潔・山田正紀コンビ」は、「説教」「認識」という言葉にも表れているとおり、「(自)党派イデオロギー」に染まり切った人たちであり、だからこそ大森望のような(無色の)存在が、目障りで仕方ないのであろう。
また、順序があべこべになってしまったが、この「6月11日付けの日記」の冒頭部には、こんなことが書かれている。
大森望の主旨は「不況にあえぐ出版業を、ビジネスだと割り切った場合、購買層である素人読者の目線を尊重することも必要なのではないか」というところにあり、決して『自分の狭い好みから減点式で選考する作家』(批判)というようなところにはなかっただろう。
というのも、大森望ならば、作家による選考の問題が、そんなに単純に総括できるものでない(例えば、党派問題などもある)、というくらいのことは分かっているはずだからである(つまり、この記事は、大森望の発言の一部を極端化して「面白く」脚色している)。
しかし、大森の本意はどうあれ、『客観的にきちんと読めている非作家が選ぶ方が健全』と考える風潮が、出版・読書界に出てきているとすれば、おのずと「素人の選考による、素人好みの文学賞」としての「本屋大賞」のような賞が持ち上げられる半面、「その道のプロの選考になる、玄人好みの文学賞」という「権威」で売り込もうとする「本格ミステリ大賞」などの賞が否定的に見られ旗色が悪くなる、ということも当然あろう。だからこそ、こうした発言でも、大森望の「軽さ」は、「笠井潔・山田正紀コンビ」的な「党派を背負う重さ=権威主義」からは、嫌悪の対象とならざるを得ないのである。
最近、ここ「花園」では、ポストモダン思想の評価が話題となったが、ある意味で、日本の出版界とそれを支えるための「権威装置としての文学賞」は、ポストモダン的な「脱構築」の危機に曝されている、と言えるのかも知れない。
また、そうした危機意識が、笠井潔をして次のように書かしめたのであろう(「第5回本格ミステリ大賞」の「小説部門」への投票にあたって、綾辻行人の『暗黒館の殺人』に一票を投じた理由)。
こうした「選民・権威主義」的な意見が、投票結果に反映されなかったというは、笠井潔も危惧しているとおりの危機が、「本格ミステリという(構築的)権威」に押し寄せている、一つの証左なのかも知れない。
ちなみに、これまで私やはらぴょんさん以外、笠井潔の「文壇政治家」ぶりについて、公に語る者などいないに等しかったが、だからといって、そうした認識がまったく浸透していないというわけでもないようだ。
例えば、「ミクシィ」の、「笠井潔」をテーマとしたコミュニティーの紹介文は、次のようなものであった(本日現在)。
ちなみに、私はこのコミュニティーへの登録をしなかった。
基本的に、「ミクシィ」ではどのコミュニティーにも属さないという方針があるのと、特にこのコミュニティーの場合、私が名前を列ねることで、自由な発言の妨げになってはいけない、と考えたからである。
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