カントの『判断力批判』には、美的判断の根拠が見つからない。【PhilosophiArt】
こんにちは。成瀬 凌圓です。
今回は、18世紀の哲学者、イマヌエル・カントが書いた『判断力批判』を読みながら、哲学とアートのつながりを探していきます。
この本を深く理解するために、全12回に分けて読んでいます。
1冊を12本の記事に分けて読むため、読み終わるまでが長いですが、みなさんと学びを共有できればいいなと思います。
第3回となる今回はカントが考える「美的判断の普遍性」について書いていきます。
これまでの記事は下のマガジンからお読みいただけます。
前回の記事で「趣味判断(美的判断のこと)は、主観的に快の感情で判断すること」であると言うのがカントの考えでした。
ここに出てくる「快の感情」は、論理的ではなく、客観的な何かにもどづくわけではありません。ですが、あるものを見たときに、自分以外の人が「美しい」と判断することに同意する、ということはありえると思います。
(例えば、花を見て「美しい」と思う など)
主観的ではあるけれど、他人にも「快の感情」はあるのではないか?という考えが出てきます。
しかし、そのことを根拠にするにはどうすればいいのでしょうか。
論理的に説明はできないし、客観的に確認できるわけでもありません。
そこでカントは「普遍性」を考えることにしました。
趣味判断には「主観的な普遍性」がある
カントは趣味判断に必要な普遍性を「主観的な普遍性」と呼ぶことにしました。
「主観的な普遍性」を持っているということは、客観的な概念に基づいた普遍性ではないということを指します。
「主観的な普遍性」を全ての人が例外なく持っていなければならないとカントは考えたのです。
この記事を書くにあたって参考にしている『カント 『判断力批判』 入門 美しさとジェンダー』(高木駿、よはく舎、2023年)の中に、僕が「なるほど」と思った例がありました。
新しいものの見方を提示するときに、その根拠を示す必要があります。
どうしてその考えが成り立つのか、納得させなければいけないからです。
今回で言えば、「主観的な普遍性」が成り立つ根拠を示す必要があります。
しかし、趣味判断は論理的ではなく、ロジックでは説明できません。
カントはどのようにして「主観的な普遍性」を説明するのでしょうか。
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