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【読書コラム】女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない - 『自分ひとりの部屋』ヴァージニア・ウルフ(著),片山亜紀(訳)

 近々、ヴァージニア・ウルフについて話す機会があるため、資料作りの一環でその著作をあれそれ読んでいるのだけど、彼女が100年近く前に残した言葉の力強さにいちいち感服しまくっている。

 映画好きなわたしとしては、ヴァージニア・ウルフの名前を初めて知ったのは2002年公開の『めぐりあう時間たち』がきっかけだった。

 特殊メイクでニコール・キッドマンがヴァージニア・ウルフを演じ、1923年、代表作『ダロウェイ夫人』執筆当時の物語が描かれていた。そして、1951年、ジュリアン・ムーアが『ダロウェイ夫人』を愛読しているロサンゼルスの若奥様を演じ、客観的には何不自由ない生活を送っているはずなのに、満たされず、自殺を図るストーリーが同時に進行していく。さらに、2001年のニューヨーク、メリル・ストリープが『ダロウェイ夫人』の主人公の同じ名前のクラリッサという女性として登場。最初は独立していると思われていた三つの世界が徐々に重なり合っていき、一本の線でつながるカタルシスが素晴らしかった。

 中学生のとき、TSUTAYAでDVDを借りて見た。まだ文学については詳しくなかったので、この作品に出てくるヴァージニア・ウルフが実在した作家であるとはわからなかった。

 ただ、古い映画を見漁る中で、『バージニア・ウルフなんかこわくない』というタイトルを発見し、どうやらヴァージニア・ウルフはなんらかのアイコンらしいとじんわり察した。

 この映画もすごく面白かった。妻の方が財産を持っているため、夫が尻に敷かれている二組の夫婦がアルコールの勢いで言いたい放題やってしまって、取り返しのつかないところまで揉めまくるという会話劇。タイトルの『バージニア・ウルフなんかこわくない』はディズニーアニメ『3匹の子ぶた』に出てくる『オオカミなんかこわくない」の歌をもじったもの。

(ただし、版権の問題で映画だと別の曲になっていて、このギャグは成立していない)

 当時は単なるダジャレと思ったけれど、後にヴァージニア・ウルフがフェミニズムの先駆者であると知るに及び、なるほど、女性の地位が高まることで相対的に力を失った男性の不安が『バージニア・ウルフなんかこわくない』という言葉に表れているのだとわかってきた。

 この映画の原作である演劇が書かれたのは1962年。ちょうどアメリカでウーマンリブが盛り上がっていたときである。1956年にはSF作家リチャード・マシスンが『縮みゆく男』を発表している。

 環境汚染の影響で肉体が少しずつ縮んでしまう男の話で、最初は妻に助けてもらいながら生活するんだけど、世間体など男としてのプライドがボロボロになり、夫婦仲は崩壊。そんなあるとき、外に放り出されてしまって、蜘蛛やら猫やら身体が小さい故の恐怖を乗り越えながら必死に毎日を生きていく。一方、家族は夫の姿が見えなくなってしまったので、死んだのだろうと勘違い。そのまま家を出ていってしまう。置いて行かれた男は絶望するも、自らの力で生きていることに誇りを取り戻す……みたいな展開だった。

 なんというか、ウーマンリブに怯える男性の心理そのものである。縮んでしまって役に立たなくなるというのは男性自身の比喩なのはもちろん、妻との関係性が周囲の目に左右されるあたり、家父長制における結婚が一人前の男であることの証明に過ぎなかったことを明らかにしている。

 共働きが当たり前になった現代の感覚からは想像もつかないけれど、かつて、結婚はそれほどまでに女性たちを縛りつけていたのだろう。自由に振る舞うことは夫に力がないことを意味してしまう。そんな社会で夫は必要以上に妻を束縛せざるを得ない。ましてや、思いの丈を綴る小説なんて書かせてもらえるわけがなかった。

 実際、長いこと、文学は男の領域だった。ノーベル文学賞の歴代受賞者を見れば一目瞭然。1900年から始まって、80年代まで10年に1人いるかいないかだった。90年代から2010年代にかけては10年に3人の割合に向上。それでもまだまだ少ないと言える。

 ところが、2020年代、まだ5年しか経っていないというのにルイーズ・グリュック、アニー・エルノー、ハン・ガンと3人も受賞しているのは凄いことだ。

 もしかしたら、2017年、選考関係者による性的暴行が明らかになり、2018年の選考が見送られたことも関係しているのかもしれない。#MeToo運動で非難される中、これまで続いていた性別による不均衡を正そうとしているのであれば、それは歓迎すべきことである。

 ヴァージニア・ウルフが最初の小説『船出』を書いたのは1915年のこと。100年が経ち、女性も小説を当たり前のように書ける環境が名実ともに揃いつつある。そして、彼女はそのことを予言していた。

 総力戦となった第一次世界大戦後、女性の参政権が認められるなど男女平等に大きく前進した1920年代のイギリス。ヴァージニア・ウルフはケンブリッジの女子学生に向けて「女性と小説」という講演を行った。その内容を整理し、フィクションを交えて再編成したものが『自分ひとりの部屋』として1929年に刊行された。

 そこに「女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない」という有名な一節が記されている。

 小説を書くためには自立が必要。

 自立にはお金が必要。

 お金を得たら、自分ひとりの部屋を確保しなくてはいけない。家族に用事を頼まれないために、家族に書いている内容を覗かれないために。

 そうしなければ、女性による女性のための女性の小説は書けないと考えていたようだ。例えば、女性同士の友情を超えた愛情のようなものは。

 背景として、当時、女性が読む小説の多くを男性作家が書いていたという事情がある。そのため、小説の中に出てくる女性は男性の理想を反映する傾向にあり、ヴァージニア・ウルフはそのことに疑問を感じていたらしい。

 例外だったのはジェイン・オースティンの『高慢と偏見』とシャーロット・ブロンテ『ジェーン・エア』だけど、それにしたって執筆に苦労したはずと思いを寄せる。

 本来、女性だって、もっと自由に小説を書けていいはずだ。というより、小説を書く才能を持った女性はたくさんいたはずで、社会は彼女たちを殺してきたのだと予想する。

 その可能性を示唆するように、もし、シェイクスピアに妹がいたら? という仮定のストーリーを述べ始める。兄であるシェイクスピアと違って、彼女は家族から応援されることはなく、作劇の技術を磨くことはできない。兄と違って自由な外出が認められないので、お金を稼ぐことも、人脈を築くこともできない。そもそも世の中の暮らしを観察することすら不可能である。社会に出るためには地位のある男を頼るしかないけれど、すぐに妊娠させられて、演劇なんてやっている場合じゃなくなってしまう。

 シェイクスピアの妹にどれだけ才能があろうとも、女として生まれたせいで、その才能を活かす機会は与えられない。いや、試すチャンスすら手に入らない。

 だから、ヴァージニア・ウルフは未来ある女子学生にこう呼びかける。

「みなさんには、何としてでもお金を手に入れてほしいとわたしは願っています」

 そして、こう続ける。

 わたしが思うに、みなさんの力で彼女(シェイクスピアの妹)にこのチャンスを与えることが、現在可能になりつつあります。わたしは信じています。もしわたしたちがあと一世紀ほど生きたなら ー わたしは個々人の小さな別々の生のことではなく、本当の生、共通の生について語っています。あと一世紀ほど生きて、もし各々が年収五〇〇ポンドと自分の部屋を持ったなら ー 。もし共通の居室からしばし逃げ出して、人間をつねに他人との関係においてではなく<現実>との関連において眺め、空や木々それじたいをも眺めることができたなら ー 。もしミルトンの造り出した化けものの背後を、どんな人であれ視界を遮ってはいけないのですさら、その背後を眺めやることができたなら ー 。もし凭れかかる腕など現実には存在しないということ、ひとりで行かねばならないということ、わたしたちは男女の世界だけでなく<現実>世界とも関わりを持っているのだということを事実として受け入れるのなら ー 。そうすればチャンスは到来し、シェイクスピアの妹であった死せる詩人は、いままで何度も捨ててきた肉体をまとうでしょう。兄ウィリアムがすでにそうしているように、知られざる先輩たちの生から自分の先を引き出して、蘇るでしょう。

ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』片山亜紀訳,196-197頁より

 この言葉が書かれてまもなく一世紀が経とうとしている。最近の女性作家の活躍を見るに、シェイクスピアの妹は本気で蘇るような気がする。




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