Nagata Hideaki
ここで私のnoteの使い方について述べておきたい。ここに書いていることは、誰かに読んでもらうためのものではない。その日その日に感じたことや思ったことを、ただ言葉の赴くままに記しているにすぎない。そのため、昨日と今日でまったく逆のことを言っていることもあるし、内容が支離滅裂に見えることもある。私は普段、応募書類や論文の指導をしている。これらは、目的があって中身がしっかりしたものでなければならない。しかし、日常的に目的に縛られた指導をしていると、その反動で自由にむちゃくちゃなこと
今年も残すところあと1ヵ月となった。この2024年は、歴史的に見ても大きな転換点となる年だったと言えるだろう。後世の人々は、この年を境に「それ以前」と「それ以後」で世界が分かれたと語るに違いない。だが、その変化が必ずしも明るい未来を約束するわけではない。むしろ、これからの時代は多くの試練が待ち受ける厳しい局面に入ることになる。 沈みゆく時代をどう生きるか 運気や景気には波がある。これまでの繁栄が続いてきた分、これからは下降線を描く時期が訪れるのも自然の摂理である。こうした
最近の選挙で、民主主義の在り方が大きく変化したことを感じる。一昔前は「ワイドショー政治」と呼ばれる手法が主流であり、マスメディアを駆使して世論を操作する戦略が成功を収めていた。しかし、今やその時代は終わりを迎えつつある。SNSの登場によって、情報の流れが劇的に変わったのだ。 ワイドショー政治からゲーム型政治へ ワイドショー政治の特徴は、情報が一方的にマスメディアから提供され、民衆はそれをただ「見るだけ」の存在であったことにある。マスコミは体制の後押しをする一方で、視聴者に
最近、仕事の依頼が多く、休む間もないほど忙しい日々を送っている。充実している反面、忙しさに流され、自分の進むべき方向や信念を見失う危険性も感じている。この世の中で大切なのは、目の前の雑事に囚われず、「自分はどう生きるべきか」という大きな道筋を常に見据え続けることだ。 信念を持ち、道を進む 昔から新しいことに挑戦するのが好きで、世の中をより良くする未来志向のプロジェクトに積極的に関わってきた。その経験から、同じ信念を持つ人々と協力し、真っ直ぐ道を進むことが何よりも大切だと感
今回のアメリカ大統領選挙では、ドナルド・トランプ候補が圧勝を収めた。当初、選挙は接戦となり、結果が判明するまでにはかなりの時間がかかると予想されていたが、蓋を開ければ早々に決着がついた。多くの日本メディアや左翼勢力はカマラ・ハリス候補を推しており、ハリスが大勝するかのような報道を繰り返していた。しかし、これこそがエコーチェンバーの典型である。自分たちの都合に合う情報だけを取り上げ、同じ考えの人々の発言にばかり触れる。そうして、実際には多くの国民がトランプ支持に回っている現実を
人は「人生で最も輝いていた時は?」と問われると、多くが目標に向かってがむしゃらに突き進んでいた時期を挙げるだろう。中学の部活動で大会を目指して仲間と励んだ日々、大学合格を目指して必死に受験勉強に打ち込んだ高校時代、あるいは社会人としてプロジェクトリーダーに抜擢され、重責を果たそうと努力した日々。恋愛に心躍らせていた時期や、海外旅行で異文化に触れて受けた衝撃もその一つかもしれない。共通しているのは、いずれも内面が「ワクワク」していたということである。 たとえ同じ状況にあっても
日本が新自由主義の潮流に乗せられ、経済合理性と効率化が至上の価値観とされた時代は、我々から多くのものを奪ってきた。効率を重んじ、成果を求めるあまり、人間関係や互いの絆が薄まり、企業や組織においても無機質な競争が強いられた。多くの人が無意識に心をすり減らし、成功してもどこか虚しさを感じるような時代となっている。今、多くの人が気づき始めた。経済的な成功や合理化だけでは、本当の人間らしさや充実感を得られないのではないかと。 では、今この国には何が必要なのか?それは、かつての昭和の
かつて、ある著名な英語教師に質問をした際、彼は「その質問には答えられない」と言った。私は「英語ができるからこそ英語の先生をしているのではないですか」と尋ねたところ、「もし英語ができたなら、もっと別の仕事についていた。英語ができないから、英語ができない子に教える仕事しか選べなかった」と答えた。この答えに、生徒としては意外に感じ、その教師をダメな講師だと思ってしまうかもしれない。しかし、実際にはその教師は業界でも名の知れた、丁寧で効果的な指導をすることで有名な存在だった。 私も
アドラー心理学に基づいた「嫌われる勇気」というベストセラーがあるが、私はあえてこの本を読んでいない。アドラー心理学には以前から興味があり、さまざまな書籍やセミナーを通じてその本質を学んできた。話題になった本をきっかけにアドラー心理学に興味を持ったと見られたくないし、仮にその内容を発信した場合、パクリだと思われるのも避けたかったからである。しかし、この本が注目を集める背景には、逆説的に「多くの日本人が、他人から嫌われたくないという考えにとらわれている」事実がある。 「嫌われな
私はこれまで大学受験、就職試験、公務員試験など、多岐にわたる試験の指導を行い、プロフェッショナルとして第一線で活動してきた。その中で、多分野で超一流の結果を出し続けてきた人間はおそらく少ないだろう。20年以上も試験に向き合い続けてきた私が、最終的に辿り着いた結論がある。それは、「試験では真の人間性や能力を測ることはできない」ということである。 例えば、学校に入学するための試験では、たまたま良い点数を取った者が合格する。しかし、その人物がその後の学校生活でどれだけ充実した時間
日本の労働市場は、かつての新卒一括採用と終身雇用が特徴であったが、時代とともにその姿は変わりつつある。しかし、依然として企業側には若い人材を採用したいという希望が根強く残っているようだ。かつては、若者は低賃金で長時間働いてくれる存在と見なされていた。また、若者であれば会社独自の教育を施しやすく、自社のやり方を短期間で吸収させられると考えられていた。中途採用では、初年度から高い給与を払う必要があり、さらに既存のやり方に固執する傾向があるため、教育が難しいとされていた。 だが、
最近、私が自分に言い聞かせている教訓がある。それは、「人に期待しない、人を信用しない」ということだ。他人をゴキブリやウジ虫のような存在と捉え、彼らが自分勝手な行動をとることも、彼らの生態に基づく自然な行為であると割り切る。 どうしても私は気を抜くと、人を尊重し、信頼してしまう癖がある。「この人は素晴らしい人だ」と思い込む。しかし、現実には、そのような理想的な人はほとんど存在しない。理想を追い求めることで、現実の厳しさに幻滅してしまう。この世の中を地獄と感じるのは、期待して裏
私が幼い頃、好きだったアニメに「笑ゥせぇるすまん」がある。この作品は、一般的には登場人物が不幸な結末を迎えることが多い、ブラックなストーリーと評価されている。しかし、教育事業に長く携わってきた私には、あの作品が本当に「不幸」を描いているのか、疑問に感じることがある。登場人物たちは、本当に不幸になっているのだろうか。私たちは社会の基準や価値観といった色眼鏡を通して物語を見ているために、「不幸だ」と決めつけているだけなのではないだろうか。実際には、登場人物たちは自分自身の本来の姿
私は幼少の頃から日本という国が大好きで、その歴史を学び、この国の未来に貢献したいという思いを持って生きてきた。しかし、今強く感じるのは、日本がすでにピークを過ぎてしまったという現実だ。昭和、平成、そして令和の時代を経て、日本は様々な挑戦を乗り越えてきたが、今の日本はもはや新しい時代を切り開こうという気概を失ってしまっている。現状を維持することばかりが優先され、新たな挑戦への意欲が薄れている。 今、新しいものを生み出すという名目で何が行われているかと言えば、すでに存在している
人生を振り返ると、私は世間的に「成功者」と呼ばれる人間になったと自負できる。かつては、ホームレス同然の生活を送っていたが、今ではタワーマンションに住み、優雅な暮らしをしている。しかし、成功の秘訣は何かと問われれば、実にシンプルな答えが浮かぶ。世の中が求めることに、自分が持てる能力を最大限発揮する。これを繰り返すことで次々と仕事が入り、自然と成功へと導かれていく。ただ、ここで私はふと思う。「果たしてそれで自分は本当に幸せなのか?」と。 成功者が必ずしも幸せだとは限らない。世の
教育とビジネスの両立は非常に難しい。なぜなら、本当に優秀な人間を育てようとするならば、ビジネスとしては成り立ちにくいからだ。優秀な人間とは、自立して行動し、自分で調べ、学び、進んでいく能力を持った人間である。しかし、塾や予備校といった教育機関にとって、この「自立」という概念はある意味で矛盾を孕んでいる。優秀な生徒は最終的に塾を卒業し、自分で学び始める。一方で、塾のビジネスは生徒を長く引き留め、授業料を払い続けてもらうことに依存している。 「守破離」という概念がある。最初は先