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暇つぶしとしてのnoteと人生の最終ゴール
ここで私のnoteの使い方について述べておきたい。ここに書いていることは、誰かに読んでもらうためのものではない。その日その日に感じたことや思ったことを、ただ言葉の赴くままに記しているにすぎない。そのため、昨日と今日でまったく逆のことを言っていることもあるし、内容が支離滅裂に見えることもある。私は普段、応募書類や論文の指導をしている。これらは、目的があって中身がしっかりしたものでなければならない。しかし、日常的に目的に縛られた指導をしていると、その反動で自由にむちゃくちゃなことを語りたくなる。このnoteは、そんな衝動を発散させるためのものである。
このnoteは誰かに見せることを意図していないので、きちんと書いているわけではない。適当に思いつくまま入力し、AIを使ってまとめている。AIの補足や解釈も含まれており、きちんとした情報提供の意図もない。だから、もし物好きな人がこれを読んだとしても、有益な情報を期待してはいけない。あくまで私の暇つぶしであり、気まぐれの戯言にすぎない。
noteを書くことはなかなか難しい。自分だけが見る手帳のようなものだと、「こんなものを書いても自分は見返さないし、意味がないのでは?」と思ってしまい、書く気になれない。私自身、過去を振り返らない性格で、これまでに書いたものを読み返すことは一度もない。それほど過去に執着していない。それならば、なぜ発信するのかと問われれば、それは暇つぶしだからに他ならない。
私は多くの活動を「暇つぶし」として捉えている。仕事も、趣味も、生活そのものも、すべては暇つぶしだと考えている。人間は死ぬまでに平等に時間を与えられており、その時間を何とかして埋める必要がある。だから、仕事をしたり、趣味に没頭したりしている。
世の中には、人に見てもらうために写真や動画、文章を発信する人もいる。しかし私は、他人の発信物には一切興味がない。いいねを押したこともないし、他人の投稿をじっくり見ることもない。たまに私の発信に「いいね」を押してくれる人がいるが、なぜ彼らがいいねを押すのか、そもそもなぜ私の文章を読んだのか、私には理解に苦しむ。
時折、他人の発信に対して反論する人もいる。実はこの「反論」こそが、最大の暇つぶしなのかもしれない。誰かの意見に噛みついたり、批判的なコメントを書いたりする。すると、それに対する反応が増え、さらに反論する機会が生まれる。まるで赤ちゃんが泣きわめいて周囲の関心を引こうとするように、他者との関わりを求めるための行動としては最適である。人間の本質は、赤ちゃんの頃から何も変わっていない。
この「暇つぶし」から解放されるのは、人生が終わるとき、つまり「死」のときである。私は死を「生きる最終ゴール」だと考えている。死は、暇つぶしを続けることから解放される人生のご褒美のようなものだ。逆に言えば、私たちはその究極のご褒美である死に向かって、ひたすら暇つぶしをしながら与えられた時間を埋めていくのである。