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新しい教育の可能性を探る

私が幼い頃、好きだったアニメに「笑ゥせぇるすまん」がある。この作品は、一般的には登場人物が不幸な結末を迎えることが多い、ブラックなストーリーと評価されている。しかし、教育事業に長く携わってきた私には、あの作品が本当に「不幸」を描いているのか、疑問に感じることがある。登場人物たちは、本当に不幸になっているのだろうか。私たちは社会の基準や価値観といった色眼鏡を通して物語を見ているために、「不幸だ」と決めつけているだけなのではないだろうか。実際には、登場人物たちは自分自身の本来の姿を取り戻し、ある意味で幸せな結末を迎えているのかもしれない。

「笑ゥせぇるすまん」の主人公である喪黒福造は、人々の「心の隙間」を埋める仕事をしている。心の隙間を埋めるというのは、元々の自分、つまり「本来こうなりたかった自分」に戻ることである。そして、物語の終わりで登場人物たちは究極的にその「本来の自分」に立ち返る。そう考えると、彼らの結末はある意味でハッピーエンドと言える

ここで、私は自分のこれまでの教育経験と重ねて考えた。受験指導を20年以上続け、多くの生徒を合格へと導いてきた。東京大学や京都大学、早稲田大学、慶応大学といった難関大学の問題は、実際にはそれほど難しくない。潜在能力の高い生徒にとっては、難関大学の問題はきちんと読めば解ける「簡単な問題」である。だからこそ、彼らを合格させるのは非常に容易だ。難関大学に合格させる指導は、実際のところ、最も簡単な部類に入る。

しかし、一方で、全く別のタイプの問題も存在する。AIが解いても支離滅裂な答えしか出てこないような問題である。多くの場合、問題自体が曖昧で、考え方や解答の基準が不明瞭である。こうした問題を出題する大学に合格することが、その生徒の将来にとって本当に良いことなのか、疑問を感じる。なぜなら、そのような問題を出す大学の教授陣は、その大学の低い教育水準を示している。程度の低い問題を出す大学に、高い学費を支払って入学する価値があるのか、それよりも他の道を進んだ方が良いのではないか。

合格と不合格の選別には、単なる成績以上のものがある。合格すべき人が合格するのは当然だが、不合格になるべき人が不合格となることも、ある意味でその人にとって最適な結果である。不合格になることで別の道を見つけ、自分に合った方向へ進むチャンスが生まれる。逆に、不合格の実力しかない生徒が詐術的な受験対策で無理に合格してしまうと、その後の大学生活や社会生活で苦労する。

ここで思い出すのが、教育業界に蔓延する「受験屋」と呼ばれる人々である。彼らは小手先のテクニックを教え、生徒を一時的に合格させることを目指しているが、これが実際にはその生徒の人生を台無しにしてしまう。合格後に落ちこぼれてしまい、不安な人生を歩む生徒も少なくない。そういった背景を見ていると、教育者の役割は単に「合格させること」ではなく、時には「不合格に導くこと」も必要なのではないか。

実際、最近私は不合格にすべき生徒に適切な進路を見つけさせることの面白さに気付いた。落ちこぼれと見なされる生徒は、実は大きな潜在能力を秘めていることが多い。彼らは、社会のルールに収まりきらない独特の視点を持っており、時に社会を揺るがすようなアイデアを持っている。難関大学に合格する生徒を指導するよりも、不合格となる生徒に適切な処世術を教え、彼らが新しい道を切り開くサポートをすることに、やりがいを感じている。

合格させることだけが教育ではない。むしろ、彼らに「自分の力で生き抜く力」を養わせ、社会に適応するのではなく、社会を変革する存在になるように導く。それが私の新しい教育のあり方だと考えている。もしかしたら、この考え方が新しい教育の方向性になるかもしれない。私はこれまで教育の先頭を走り、数多くの合格者を輩出してきた。しかし、これからは合格だけを目指すのではなく、不合格になった後にどう生きていくか、その道筋を共に考え、育てる。それこそが、教育者としての新しい挑戦であり、もっともスリリングで意義深いものだと感じている。

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