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〈小さなことばたちの辞書〉に自分だけのことばを集めること、それはわたしの人生そのものとなる。

19世紀末の英国。母を亡くした幼いエズメは、『オックスフォード英語大辞典』編纂者の父とともに、編集主幹・マレー博士の自宅敷地内に建てられた写字室に通っている。ことばに魅せられ、編纂者たちが落とした「見出しカード」をこっそりポケットに入れてしまうエズメ。ある日見つけた「ボンドメイド(奴隷娘)」ということばに、マレー家のメイド・リジーを重ね、ほのかな違和感を覚える。この世には辞典に入れてもらえないことばがある──エズメは、リジーに協力してもらい、〈迷子のことば辞典〉と名付けたトランクにカードを集めはじめる。
大英語辞典草創期の19世紀末から女性参政権運動と第一次世界大戦に揺れる20世紀初頭の英国を舞台に、学問の権威に黙殺された庶民の女性たちの言葉を愚直に掬い上げ続けた一人の女性の生涯を描く歴史大河小説。

本の内容より

頭に浮かんだのは、数年前に観た映画「博士と狂人」だった。
あれも確かオックスフォード英語大辞典編纂に纏わる実話だったはず。

調べてみると、時代背景や人物は「博士と狂人」に描かれたのと同じ実在のものをベースに、辞典には載せられない(正確な出典のない)市井の人たち─主に女性たち─が使う「迷子のことば」に関心を寄せ、生涯に渡ってことばと向き合い続けた一人の女性の姿をプラスし、女性参政権や第一次世界大戦と絡めてフィクションとして描いたらしい。

地位や財力のない当時の多くの女性、“Bondmaid” ボンドメイド─はしため(端女)─たちの心の傷みや世間への諦め、怒りを掬い取ろうとする主人公のエズメの一生懸命で不器用な姿が活き活きと、時に切なく胸に響いた。

「自分はずっと〈辞典〉に繋がれたはしためだった。〈辞典〉がわたしの主なの。わたしがいなくなったあとも〈辞典〉がわたしを定義するのよ」と語ったエズメの言葉からは、彼女の強さと決意が汲み取れる。

辞書に載っている「はしため」にはない強い意志と自立心を定義した新たな“Bondmaid”の見出しカードが一枚追加されたようだった。

私が何よりも心温かく感じたのは、市井の人々のことばだ。 
卑猥だったり、罵詈雑言だったり決してお上品ではないことばに親しみを感じたのは、メイドのリジーや市場でぼろを売る老婆のメイベルらが話すのが、他でもない我が故郷北海道の方言だったからというのも大きい。

訳者の最所篤子さんは間違いなく道産子に違いない、と各所調べてみたが、どこにもそんな情報は見つけられない。

読み進めるほどに彼女たちのことばが、幼い頃から耳馴染みのあるあの人この人の声で語られているような気持ちになり、これが遠く離れたイギリスの、しかも100年以上前のストーリーだということを忘れてしまいそうだった。

「なぜ?」は「なしてさ?」
「〜じゃないの?」は「〜でないかい?」
「〜する度に」は「〜するたんびに」
「でも、だって」は「したって」

訳者あとがきで、「本物の(リアルな)ことば」を使うために最所さんにとって懐かしいことばであるご祖父母様の使う北海道弁を採用したと知ったときは、「やっぱり!」と途端に頬が緩み、心が温まるのを感じた。 

ことばは変化していくものであり、なおかつ、普遍的なものでもある。
そのことばを操る人の心が大きく投影されるのもまたことばである。
そしてまた、ことばの選択、語調、高低、イントネーション全てがその人を創り上げていく。

わたしたちがことばをつくり
ことばがわたしたちをつくる。

私は辞書に載っていることばのうち、一体何語知っているのだろう。
そして、一生をかけてこれからどれだけのことばに知り合うことができるのだろう。

エズメが迷子のことばを拾っていたように、女性たちのことばに耳を傾けていたように、受け身ではなく自らそのことばの中に飛び込む勇気を持ち続けたい。

簡単に何でも調べられる今だけど、調べ物をしようと捲っても捲ってもなかなかお目当ての単語に行き着かない間に別の単語が目に入ってほぉーっとなったり、ページを繰った指の形のままにへにょへにょとたわんだあの辞書のしなやかな紙質とにおいにうっとりしたり。

辞書の特別さというのは、指一本で何でもできる便利さを凌駕している。

実家に、看護学生時代に買った「オックスフォード英英辞典」があったはず。
まずはBondmaid から?
それともLove?Eternal?

次に帰ったときに、開いてみよう。

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