明治人に見るリーダーシップ論 Vol.3(1/3)~ 凡人が見せた非凡な能力、アジリティについて
不確実性の高い環境変化の中にあっては、生き抜く術としてのリーダーシップが企業には必要です。ここでは明治時代を生きた明治人の振る舞いから、このリーダーシップについて学び直したいと思います。そのためにも彼らが、どのような不確実性に直面し、そしてまたどのような課題設定や課題推進を行ったのかについて、象徴的な事例を、恣意的に取り上げながら考察したいと思います。
さて、今回取り上げる明治人は、初代内閣総理大臣こと伊藤博文です。内閣制度の創設、明治憲法制定など、近代国家の建設に欠かすことができなかった人物と言われています。
他方、評判を見てみますと、伊藤は、哲学なき思想家、思想なき現実者とも言われています。生来から楽観的で、調子に乗りやすい人物、と言われていたようです。欧米を視察したときには、すでに渡航経験があることをいいことに、英語をひけらかして、周囲から呆れられた様子が見られます。
また、過去に伊藤が長州藩の過激派として活動していた頃には、暗殺事件を起こしていた経験があります(しかも暗殺の対象者を間違えている)。その意味で、暗殺行為を犯した唯一の内閣総理大臣とも言われています(酒乱で人格が変わりやすく、酔った勢いで奥さんを殺してしまったと言われる第2代内閣総理大臣の黒田清隆は除く)。
しかしながら、彼の怒涛の人生を見てみますと、浮かんでくる面があります。今回も象徴的な事例を恣意的に取り上げながら、対立する状況下において、伊藤博文はどのような課題設定と課題推進をしたのかについて見てみたいと思います。まずは伊藤博文の生い立ちからです。
1.伊藤博文の生い立ちと転機
伊藤博文は、長州の周防(現在の山口県)生まれで農家の出身です。農家の中でも低い身分だったようです。道で藩士とすれ違う場合には、たとえぬかるみの道でも、下駄を脱ぎ、相手に土下座をしなければならなかったようです。その後、伊藤は養子に出されて、百姓から武家となるものの、その位は下級武士でした。
彼の転機は、長州藩の桂小五郎の義弟であった来原良蔵という人物を介して、吉田松陰に巡り合えたことです。この吉田松陰とは、幕末期にあって熱狂的な尊王思想の中心にいた人物であり、優秀な教育者として知られています。松陰が作った松下村塾は、幕末明治の時代にあっては、桂小五郎(木戸孝允)をはじめ、高杉晋作、久坂玄瑞、山県有朋、吉田稔麿などの多様な人材を輩出したことで知られています。死亡した生徒を除けば、多くは明治政府の中枢に上り詰めています。
この松下村塾は約2年にわたって開かれた私塾ですが、松陰は、短い期間の中でさまざまな人物の評価を行っています。もちろん松陰は伊藤のことも評価しているのですが、松陰が弟子に宛てた手紙によると、伊藤には愛くるしさを感じる、としつつも、一方で才覚には劣った愚直な足軽の倅(せがれ)と見ていたようです。つまり、松陰は伊藤のことを凡人であると見立てていたのだと思います。しかし、同時に松陰は、伊藤のことを周旋家とも評していました。
2.海外と長州藩の対立状況下における課題設定と課題推進
伊藤博文は、『長州5(FIVE)』と言われる映画作品の登場人物の一人です。この作品は、1863年に長州藩の命を受けてイギリスへと派遣された5人の若者の物語です。5人の若者とは、野村弥吉、山尾庸三、遠藤謹助、井上馨、そして伊藤博文です。当時の長州藩は、熱狂的な攘夷思想の中心であった藩でした。伊藤は、もちろん攘夷論者です。ですが、他方では、敵情を知悉して海外と対等に対峙するための方法を模索していたようでした。もちろん、この当時に留学といった通念はありませんので、国禁を犯して留学をしたことになります。
伊藤は、かねてより人との交流を好んでいたことから、さまざまな情報を仕入れていたようです。事実、伊藤はこの留学において、どこからか話を聞きつけ、再三、この留学志願者として意思表示を行っていたようです。ちなみに彼らの留学先であるロンドン大学では、現在でも大学の中庭に、長州ファイブの石碑が建っていると言われています。
もともとイギリス留学の期間は3年間の予定でしたが、しかしながら、伊藤はわずか半年で帰国することになります。というのも、イギリスの『タイムズ』の記事を見て驚き、帰国することを決めたためです。伊藤が、外国の記事で目にしたものとは、すなわち、1863年の長州藩による外国船砲撃事件と、薩摩藩による薩英戦争の記事です。日本とは比べ物にならない英国の繁栄を目撃した伊藤は、すぐさま長州藩と諸外国との戦争を防ぐために帰国することになります。
わずかばかりの海外経験だったものの、伊藤は帰朝した人間として藩内では重宝されます。藩士に土下座をしていた伊藤からすれば考えられないことですが、長州藩内の要職者を相手に建言(意見提出)をすることが認められます。伊藤が意見した内容とは、すなわち、4ヵ国との戦争を回避すること、そして藩内における攘夷論を覆すことにあります。これは伊藤の課題設定であり、課題の推進であると言えます。
彼は、藩内の調整のみならず、イギリス側との交渉にあたります。対するイギリスの通訳は、外交官でもあったアーネスト・サトウ(イギリス人)です。彼が記した『一外交官の見た明治維新』には、奔走する伊藤博文の様子が見られます。ちょうど伊藤が帰朝したこの時期、1863年の長州藩からの砲撃事件を受け、イギリスは、フランス、アメリカ、オランダと共に見解を一致させ、日本側に対しての交渉、および場合によっては、有事を開始することを各国で申し合わせたタイミングでした。
アーネスト・サトウは、「不思議な偶然の一致であるが」との含みの下、「イギリス(船)へ派遣された二人の日本人が現れた」と、記述しています。この二人とは、イギリス留学していた井上馨(当時は聞多)であり、そして伊藤博文(当時は俊輔)です。サトウの作品には、伊藤が交渉役として、イギリス代表者と藩内の見解の妥当解を導くために、何度も駆け回る様子が描かれています。
しかしながら、結局、イギリス側の主張を藩内で調整することができずに交渉は決裂、その結果4ヵ国艦隊砲撃事件(馬関戦争)を迎えることになります。伊藤が船から去っていく様子を見て、アーネスト・サトウは「同情の念にたえなかった」と、表現しています。おそらくは、帰りの小船の中でうなだれた伊藤の背中が遠ざかっていく姿を、サトウが目撃したのではないかと思いますが、一方で伊藤がいかに切実に両者の交渉を行っていたのかを感じ取ることができます。
結局、4ヵ国による砲撃が開始され、結果、長州藩は4ヵ国の圧倒的な軍事力の下で敗戦します。しかし伊藤はここでも活躍することになります。この長州側で交渉の中心となったのは、稀代の革命家である長州藩の高杉晋作ですが、伊藤は高杉の通訳として活躍します。この調停の際に、平安貴族を思わせる烏帽子という細くて長い黒い帽子をかぶった高杉は、イギリス側に古事記の講釈を行った、とも言われていますが、サトウは、この交渉開始時の高杉晋作の顔つきを、「悪魔のよう」であった、と記述しています。このときの伊藤からすれば、高杉の振る舞いに内心驚くと共に、高杉の語る古事記の講釈を通訳することに奮闘したと思われます。
協定内容は、長州藩は外国船に対する非行を認めて、和睦を申し込むというものでした。もちろん膨大な賠償金も求められますが、これは幕府に支払わせるという荒業を成し遂げています。他にも、大砲の撤去や長州藩内における鳥や野菜の購入など、いくつかの条件が外国側から提示されていますが、長州藩側はこれらを素直に承認したようです。
それまで「欧州人は夷狄(イテキ)に等しい」と思っていた長州人でしたが、このような価値観の劇的な変節が藩内全域に認められたことについて、アーネスト・サトウは「これには伊藤博文の影響によることが大きい」と述べています。ただし、これは長州藩が従順であったというより、それほど海外で発達した科学の存在が、あまりにも脅威であることを、長州藩が猛烈に自覚したためであると考えられます。伊藤は、対内外の調整において何度も課題設定や課題の推進を行ったのでした。
さて、ここまでは、伊藤博文の生い立ちから海外との戦争場面における伊藤の振る舞いについて見てきました。ここからは近代国家の建設に関わる伊藤の振る舞いを見たいと思います。この時代に起こった事件を中心にしたいと思いますが、同時にまた、そもそも国家とは何で、そしてまた何のために必要だったのかを整理しながら見ていきたいと思います。が、これはまた別の機会にて。
3.執筆者プロフィール
会社名:株式会社マネジメントサービスセンター
創業:1966(昭和41)年9月
資本金:1億円 (令和 2年12月31日)
事業内容:人材開発コンサルティング・人材アセスメント