「スーパーのレジ待ち」で人生が変わる？ - ハーバード大学の伝説のスピーチ
デヴィッド・フォスター・ウォレスの「This is Water」という講演動画をご存知でしょうか？
「This is Water」―この一見シンプルなタイトルの講演に、私は人生を変えるような重要なメッセージを見出しました。
講演の核心は、「水の中の魚」という比喩です。魚にとって水は当たり前すぎて、その存在を意識することはないでしょう。人間も同じように、日常の中で当たり前すぎて意識することのない重要な事柄があります。その一つが、私たちの「思考」そのものです。
ここで思ったのですが、これは、フッサールの現象学における「自然的態度の判断中止（エポケー）」という概念と深く関連するのではないでしょうか。私たちは普段、物事を「当たり前」だと思い、自動的な思考を働かせますが、その「当たり前」思考を一度括弧に入れて、新鮮な目で見直してみる必要があるのではないかと。
講演の中の具体例として取り上げられた、スーパーマーケットでの買い物シーンを考えてみましょう。仕事帰りに長いレジの列に並ぶとき、多くの人は次のように考えるかもしれません：
- 「疲れているのに、なんでこんなに混んでいるんだ」
- 「時間の無駄だ」
- 「店員の対応が冷たい」
このとき、私たちは無意識のうちに目の前の人々を「自分の時間を奪う邪魔な存在」や「サービスを提供するだけの機械的な存在」として見てしまっているのかもしれません。これは、ハイデガーが指摘する「非本来的な存在様式」に近いものです。つまり、社会の中で「みんながそうするから」「そう考えるのが当たり前だから」という形で、自分の本来性を見失った状態です。
しかし、同じ状況を違う視点で見ることもできます：
- 「みんな家族のために買い物をしている、私と同じ人間だ」
- 「この混雑は、私たちが共に生きている社会の証」
- 「店員さんも私と同じように疲れ、悩み、希望を持つ一人の人間なんだ」
これは単なる視点の転換ではありません。そこには、目の前の他者を「自分と同じ人間」として再発見する深い気づきが含まれています。レジに並ぶ人々も、レジ係の方も、みな私と同じように喜び、悲しみ、疲れ、希望を持って生きている存在なのです。これは、ハイデガーの言う「本来的な存在様式」への一歩と言えるでしょう。自分なりの意味を見出し、意識的に状況を解釈する態度です。
ウォレスが強調するのは、私たちには「見方を選択する自由」があるということです。自分中心の表面的な判断（デフォルトの思考）から一歩踏み出して、他者の視点で物事を見る。そこには、病気の家族のために買い物をしている人や、子育てに奮闘している親の姿があるかもしれません。それらの人々も、私と同じように人生の困難や喜びを抱えながら生きているのです。
この姿勢は、フッサールが説く「間主観性」の概念とも重なります。私たちの意識は常に他者との関係の中で形作られており、他者を「物」としてではなく、「自分と同じ意識を持つ主体」として理解することで、より豊かな現実理解が可能になります。
特に重要なのは、この「気づきの思考」が持つ深い社会的意義です。デフォルトの思考を超えて、相手の立場に立って考えることができるようになると、見知らぬ他者でさえも「自分と同じ人間」として認識できるようになります。この「人間性の再発見」は、戦争や暴力、差別といった問題の根底にある「他者の非人間化」を防ぐ重要な一歩となります。
この考え方は、現代の心理学者ダニエル・カーネマンの「システム1（即座の直感的判断）」と「システム2（深い熟考）」という理論とも通じます。普段は直感的な判断で生活していますが、意識的に深く考えることで、より良い人間関係や判断が可能になります。そして、この深い思考は、単なる個人の幸福だけでなく、社会全体の調和にも貢献する可能性を秘めています。
ウォレスは「私たちは誰もが何かを崇拝して生きている」と言います。お金かもしれませんし、知性や美しさかもしれません。しかし、無意識のうちに間違ったものを崇拝し続けると、気づかないうちに不自由な生き方に陥ってしまう可能性があります。これは、ハイデガーが警告した「技術への隷従」や「世人への埋没」という問題とも重なります。さらに言えば、無意識の偏見や差別意識も、こうした「誤った崇拝」の一形態かもしれません。
この講演が教えてくれるのは、当たり前すぎて見えなくなっているものに目を向け、より意識的に物事を見る力を養うことの大切さです。それは、より豊かな人間関係と、より自由な生き方への扉を開くだけでなく、より平和で包摂的な社会を作る礎にもなるかもしれません。フッサールやハイデガーが目指した「本質への還帰」という哲学的な探求も、実は私たちの日常生活のこうした場面に深く関わっているのです。
スーパーマーケットのレジ待ちという些細な日常の一コマが、実は私たちの意識変革の出発点となります。そこでの「人間性の再発見」という小さな気づきの積み重ねが、やがては世界平和への確かな一歩となるかもしれません。なぜなら、相手を「自分と同じ人間」として見ることができれば、暴力や差別、戦争といった非人間的な行為は、もはや選択肢としては成り立たなくなるからです。
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