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【本質観取】「飽きる」とは何か?
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今回も哲学者、教育学者である苫野一徳さんのゼミに参加し、そこで本質観取に取り組んでみました。
テーマは「飽きる」とは何か?
「飽きる」という現象は私たちの日常生活でよく経験することです。この「飽きる」という感覚の本質を理解することで、私たちは飽きないための方法を見出すことができるのではないかと思いました。
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私の経験では、何かに飽きるという現象は、心が完全には満たされないという感覚と密接に関係しているように感じます。常に何かが足りないような、満たされない隙間のような感覚が残るのです。
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例えば、私は甘いものが大好きですが、毎日ケーキを食べ続けたら必ず飽きてしまうでしょう。この単純な例の中にも、「飽きる」という現象の本質的な契機が含まれているように思います。
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日本の秋は「食欲の秋」「スポーツの秋」「芸術の秋」など、様々な楽しみ方があります。しかし、もしこの秋という季節が1年中続くとしたら、その新鮮さは失われ、やがて飽きてしまうのではないでしょうか。
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「となりのトトロ」は、何度テレビで放映されても高視聴率を記録する「飽きないアニメ」の代表例です。一方で、「アナと雪の女王」の主題歌は大ヒットした当時とは異なり、現在では「もう聞きたくない」という声もよく聞かれます。オーストラリアでも同様の反応が見られます。
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日常的な行為には異なる種類があるようです。例えば、食事や歯磨きといった基本的な生活行為は、それ自体が目的ではなく、不快感を解消する手段として機能します。このようなマイナスから0にするような行為は習慣化することで自動的になり、「飽き」の対象とはなりにくいようです。
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人間の特徴的な点は、飽きた時に全く異なる活動に移行できることです。これは動物には難しい能力です。國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」によれば、人間は複数の「環世界」(生活空間)を行き来できる特殊な存在なのです。しかし、この能力は永続的な満足をもたらすわけではなく、むしろ終わりのない「飽きと移動」のサイクルを生み出すことになります。
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現代の消費社会は、この人間の「満たされない欲求」を利用しています。新商品の購入によって一時的な満足は得られますが、それは永続的な充足とはならず、消費者は常に新しい刺激を求め続けることになります。
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「飽きる」という現象の本質の一つは、対象への意味の喪失にあると考えられます。これは物事だけでなく、人間関係においても同様です。
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興味深いことに、同じ体験を繰り返しても飽きない場合もあります。例えば、私は映画「男はつらいよ」シリーズを何度見ても飽きません。基本的なストーリー展開は同じでも、見るたびに新しい魅力や気づきが得られるからです。逆に言えば、同じものが繰り返されて、そこに新たな意味が見出せないと飽きてしまうのかもしれません。
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「飽き」と「退屈」は、異なりながらも深く関連する概念です。國分功一郎さんによれば、人類は狩猟社会から農耕社会への移行とともに暇な時間が増え、退屈を基本的な状態として経験するようになったとされています。「飽き」は特定の対象への関心の消失を意味し、「退屈」は関心の対象そのものが不在の状態を指します。そして重要なのは、「飽き」の根底には常に「退屈」が存在しているという構造です。私たちが何かに飽きるのは、その対象がもはや退屈という根本的な空虚感を何度抜け出そうとトライしても埋められなくなったからだと考えられます。
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では、この状況をどのように克服できるでしょうか。単に異なる環世界を渡り歩くのではなく、現在の自分の世界をより深く理解し、新鮮な視点で捉え直すことが重要です。知性と感性を磨き、物事への理解を深めることで、現在の環世界をより豊かなものにできるのではないでしょうか。
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哲学的な思考は、この「豊かな視点」を育むための一つの方法と言えます。特に、私たちが学んでいる現象学を日常生活に応用すると、新たな気づきが得られるかもしれません。私たちは日常の中で、物事を自動的に決めつけたり、当たり前のものとして捉えたりしがちです。これは飽きる温床になります。しかし、そういった判断を一旦保留(エポケー)して、自分の意識の中にその確信が成立してくる条件を冷静に見出していくことで、日々の出来事を新しい観点から捉え直すことができるようになるかもしれません。
また、私個人の例では、日常生活を五七五の俳句の形式でダジャレ混じりに表現するなどしていますが、これも見慣れた日常の経験に新たな意味を付与しており、退屈や飽きを克服する試みとも言えるのではないかと思いました。
つまり、「飽きる」とは特定の対象に対する興味関心が薄れ、新しい意味を発見できなくなっている状態と言えるのかもしれません。あくまでも仮の定義ですが。
野中恒宏
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