【哲学読書会レポ】なぜ普遍認識が必要か? - 竹田青嗣「哲学とは何か?」
私は最近竹田青嗣氏の「哲学とは何か」という本の読書会に参加しました。この本は哲学の本質や歴史的な展開を分かりやすく解説したもので、大変興味深い議論が展開されました。
哲学は普遍的な真理や認識を追求する学問として発展してきましたが、その道のりは決して平坦ではありませんでした。20世紀には、普遍主義への批判が強まりました。例えば、ナチス・ドイツは「アーリア民族の優越性」という絶対的真理を一方的に押し付け、他者への抑圧や迫害を正当化しました。このような歴史的経験から、普遍主義への懐疑が深まり、マルクス主義という大きな思想の潮流が退いた後、ポストモダニズムの影響により、「絶対的な真理はない」とする相対主義的な考え方が主流となっていきました。
しかし、相対主義にも大きな問題があることが分かってきました。「みんな違ってみんないい」という考え方は一見寛容に見えますが、実際に重要な決断を迫られる場面で、本質に基づく共通了解がない状態では、結局のところ力による支配や抑圧に陥ってしまいます。例えば、環境問題について「それぞれの立場があっていい」と言って議論を避けていては、経済的・政治的な力を持つ者の意向が一方的に通ってしまい、真の解決には至りません。これは相対主義の持つ本質的な限界を示しています。
哲学の歴史において、神の存在は非常に大きな影響力を持っていました。しかし、ダーウィンの「種の起源」の登場により、この状況は大きく変わることになります。進化論は、神による創造ではなく、自然科学的な説明を提示したのです。これを受けて、ニーチェは「神は死んだ」という衝撃的な言葉で従来の形而上学を批判し、フッサールは、神の存在を介さずに、人間の共通了解への道筋を原理的に示した現象学という新しい哲学を展開しました。これは単なる主観的な意識の分析ではなく、人々が共に理解し合える基盤を探求する試みだったのです。
17世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパでは大陸合理論と呼ばれる哲学の潮流が生まれました。これは、数学のような論理的な思考を重視する立場で、代表的な哲学者であるスピノザは、自然と神を一体のものとする汎神論を展開しました。例えば、幾何学の定理のように、世界の真理も論理的に証明できるという考え方です。
カントは、理性的で自律的な強い個人という「マッチョな」考え方を示し、近代の人間観に大きな影響を与えました。この考え方は日本にも伝わり、教育基本法における「人格の完成」という理念にも反映されています。しかし、後にニーチェやフッサールによって、絶対的な真理や存在そのもの(本体)が否定され、完成された人格もありえないことが明らかになりました。これはつまり、すべては常に関係性の中で個々に解釈されるしかないという根本的な洞察でした。残念ながら、教育基本法制定時の日本では、このような新しい哲学の展開はまだ十分に理解されていなかったようです。
最後に、哲学は単なる本質の探求にとどまらず、実践的な問題解決にも関わるべきだという議論があります。しかし、物事の本質を理解することなしには、真の問題解決は難しいでしょう。例えば、環境問題の解決には、人間と自然の関係性についての本質的な理解が必要不可欠です。このように、本質の探求と実践的な問題解決は、車の両輪のように補完し合う関係にあるのです。このことは、現代社会が直面する複雑な課題に対して、哲学がいかに重要な役割を果たしうるかを示しています。
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