過去の自分は、いまの私の所有物ではない|物語化する/される私たち#2
「人生は物語のようなものだ。重要なのはどんなに長いかということではなく、どんなに良いかということだ。」というセネカの言葉にあるように、私たちはしばしば自分の人生を物語やストーリーという枠組みの中で捉える。
前回の記事に続き、今回は、私たちが自らの人生を物語化(ストーリー化)することによる弊害について、最果タヒの著作『十代に共感する奴は皆嘘つき』や過去の不登校児のインタビューを交えながら書いていきたい。
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人生を点と点でつなぐことは可能なのか?
例えば、偉人の伝記などを読んでみると、まるでその人があるただ一つの目的に向かって筋道だって生きているように思わされる。
ビジネスの自己啓発などで耳がタコができるほどに引用されている、2005年の米国スタンフォード大学の卒業式でのスティーブジョブス氏のスピーチでは、「You can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards.(あなたがたは未来を見通して点をつなぐことはできない。ただ過去を振り返ってつなぐことしかできない) 」と語られている。
スティーブジョブス氏のスピーチは「だから将来何らかの形で点がつながると信じて行動しよう」という風に学生に呼びかける意味を持つのだが「過去を振り返って点と点を結びつける作業」というのは、人生を物語化する作業とも言い換えることができるだろう。過去を振り返ってなんの脈絡のなかったはずの「点」をつなぎ合わせることで、すっと一つの筋道が見えて来る。そして、意味のなかったバラバラなものがさも合理的な選択の上でなされたように思えてくる。
ここまで聞くと、そこまで悪い話ではないように思える。「あのときの私があったから、今がある」と過去をポジティブな方向に捉えてこそ、わたしたちは前向きに生きることができる。ただ、過去を振り返って人生をストーリー化することは、果たして本当にいいことなのだろうか。人生をストーリー化することで、見えなくなってしまうもの、取りこぼしてしまうものがあるのではないのだろうか。
過去のきみは、きみの所有物ではない
人生をストーリー化することの弊害の一つは、「過去を自分の都合のいいように捉えてしまう」ことだ。
最果タヒの「十代に共感する奴はみんな嘘つき」のあとがきにおいて著者は、「過去のきみは、きみの所有物ではない」と潔く明言する。
わたしたちはしばしば、今より若かった頃を振り返って「あの頃は若かったね」とか「いろいろあったけど、今になって思うと全てが良い思い出」と過去を”懐かしい青春の一ページ”として捉えてしまうことがある。
私たちは辛かった記憶ですら、「あの時のわたしがあったから、今がある」というように言ったりすることで、過去を美化して、自分自身を納得させようとする。しかし筆者は、そうした過去の捉え方は自分への冒瀆であると一蹴する。
人間は時間を経るといとも簡単に考え方を変えてしまう矛盾をはらんだ生き物であることを、私たちはしばしば忘れがちである。今の自分と、高校生の時の自分、一年前の自分、一週間前の自分、一日前の自分、一時間前の自分さえも、今の自分と同じと言えるだろうか。過去の自分は現在の自分と矛盾した考えを持っているのは当たり前で、容易に同一視することは出来ない。
SNSでしばしばキャンセルカルチャー(*1)が問題となるが、過去の言動や行動を掘り起こして非難することは、「人間は一貫した考え方を持つ生き物である」という誤った前提に則っているとも言える。
「過去のきみは、きみの所有物ではない」という最果タヒの言葉は、わたしたちが簡単に「過去の自分」に意味づけ、解釈し、合理化しようとする態度を正面から否定している。
そして、そして筆者はここで「生きることそのものが、尊い」という言葉でもって、「今」の自分にある感情を重要視する。十代の感情を生々しく描いた小説のあとがきで、読者のノスタルジーに浸るような読み方を否定することで、生そのものの尊さを照らし出しているのだ。
人生をストーリー化することは、未来への足枷にもなる
「努力は報われる」といった言葉は、私たちを励まし、動機づける一方で、「つらいことに耐えたから今がある」という考えに固執すると、未来への可能性をかえって閉ざしてしまうことにもなる。
お笑いコンビ、髭男爵の山田ルイ53世さんは、中学2年生の時から6年間のひきこもりの経験を「無駄な時間だった」と振り返る。
かくいう私も小学校のときに一時期不登校になっていたことがあった。あの期間は、いま思い返せば本当に無駄な時間だったと思う。勉強するでも遊びに行くでもなく、ただ家でじっと時が過ぎるのを待っていた。「無駄な時間」というものに意味を与えようとするのは、端的に言うとわたしたちが無駄な時間を過ごすことを恐れているからだろう。だからこそ、何かと理由付けをして今の自分を納得させようとする。
「あの頃一人の時間があったから、自分を見つめなおせた」と訳知り顔でいうことは、過去の自分を、ひどく短略的に捉え、ある種過去の自分を侮辱する行為なのではないかとさえ思う。しかし他の経験においても、そうした振る舞いを、気づかぬうちにしてしまう時がある。他者の気持ちを完全には理解できないように、その当時の自分が抱いた感情というものは、後になっていまの自分が察することなど到底できないのに。
過去の自分によって今や未来の自分を規定しようとする考え方から抜け出すために有効な考え方の一つが、『嫌われる勇気』でおなじみのアドラー心理学である。フロイトの原因論では、子どものころに不登校だったから(過去の原因)、社会でうまくやっていけない(結果)といった風に物事を「原因→結果」で考える。ある種ストーリー的、因果関係がはっきりしたものの捉え方だと言えるだろう。
一方、アドラー心理学の目的論では、社会に出て他者と関係を築きたくないから(目的)、子どものころに不登校であった記憶を持ち出す(自ら選択)、といった風に「目的のために自ら選択している」と捉える。
私たちは知らず知らずのうちに、「◯◯だから◯◯である」という思い込みを信念とし、その信念を元にストーリー化された人生を自ら生きようとする。「過去の自分はこうだったから、未来の自分はこうだろう」と過去の自分と未来の自分を一続きに捉える、あるいは同一視することは、未来の自分の可能性を狭めてしまうことにもつながる。
インタビューの中で、彼はこう続ける。
「リセットしてもいい」というのは、言い換えれば過去の自分や、それを元に作られた「ストーリー」の中で生きようとしなくていい、というメッセージでもあると思う。
「ストーリー」というのは、ネガティブなことだけでなく、ポジティブな事柄にも同じようなことが言える。自分が何かで成功したからといって、今の自分と過度に結び付けると、自分の今の姿を見誤ってしまう。そして、「努力したから成功した」「あの時苦労したから今がある」といった考えは、「成功しないのは努力しないからだ」「苦労は買ってでもするべき」という風に反転し、あろうことか他者への非難や見下しにも繋がりうる。(このあたりは、公正世界の誤謬などについて書いた前回の記事や、”どうしようもない私”を赦すこと|自己愛と自己肯定感について、という記事でも触れています)
過去の自分は過去の自分と、今の自分と分離してしまう方がいい。そうでないと、いつまでも過去の「こうだった自分」にとらわれてしまう。今の自分と過去の自分を切り離すことは、一見ドライなものの考え方のように思えるかもしれないが、そうすることで、過去への執着から逃れ、より自由に未来を選び取り、生きることができるようになるはずだ。
第三回目となる次回の記事は、星野源『恋』や、クンデラ『存在の耐えられない軽さ』を引用しつつ、人生をストーリー化する目線から生活に根ざした価値観へ転換していくための考え方について書いていく。
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次回記事はこちら
https://note.com/moontone/n/ne8aa1f106f2b
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【参考記事一覧】
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