本能寺の変1582 第38話 6光秀と信長 3上洛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第38話 6光秀と信長 3上洛
戦いは、終わった。
信長は、五畿内を手に入れた。
信長は、芥川山城に軍勢を納めた。
片付いた、との判断である。
御本陣芥川の城へ御人数打ち納れられ、
五畿内隣国、皆以て御下知に任せらる。
(『信長公記』)
義昭も、芥川山城に入った。
信長と義昭は、同陣した。
二日、戊寅(つちのえとら)、天晴、
武家以下、芥川に御陣取りと云々、
近日、御上洛有るべきの由これあり、
池田・日向守(三好長逸)等降参と云々、
(「言継卿記」)
松永久秀は、芥川山城へ向かった。
久秀にとって、これ以上の幸運はない。
二日、
一、松少(弾正少弼)は、公方へ御礼として、
今日にて、八幡山まで越され了んぬ、
(「多聞院日記」)
近隣の諸大名も、続々とやってきた。
信長と義昭に、忠誠を誓う。
そこには、池田勝正の姿もあった。
四日、庚申、天晴、午時小雨、
昨日、竹内三位入道・両畠山・松永弾正忠・池田筑後守等、
武家・織田等に、芥川に於て、御礼申さるゝと云々
(「言継卿記」)
久秀は、天下の大名物九十九髪を献上した。
久秀には、大いなる下心があった。
松永弾正は、我朝無双のつくもがみ(唐物茶入)進上申され、
信長は、多くの人たちから挨拶を受けた。
来訪者、引きも切らず。
今井宗久、是れ又、隠れなき名物、松島の壺(葉茶壷)、
幷(ならび)に、紹鴎茄子(じょうおうなすび)を進献。
往昔(おうじゃく)、判官殿(義経)、一谷、鉄皆がガケ(鉄拐山=鵯越ひよ
どりごえ)召されし時の御鎧(よろい)を進上申す者もこれ在り。
(『信長公記』)
信長は、久秀の大和支配を認知した。
義昭は、面白くなかった。
「兄の仇」
しかし、信長の具申。
承認する他なかった。
斯くして、久秀は大和一国を手に入れた。
五日、
一、松少、昨日、上意(義昭)幷びに織尾(信長)へ礼これ在り、
和州一国は、久秀進退たるべしと云々、
(「多聞院日記」)
信長は、芥川山城に十四日間滞在した。
まだまだ、流動的だった。
「大和」、「山城」、「摂津」、「河内」、「和泉」。
信長は、周辺の様子を窺った。
異国・本朝の珍物を捧げ、信長へ御礼申し上ぐべしと、
芥川に十四日御逗留の間、門前市をなす事なり。
(『信長公記』)
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