本能寺の変1582 目次小 信長の台頭 4光秀と長宗我部元親 274~276 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。日本史・信長公記。『光秀記』
目次小 信長の台頭 4光秀と長宗我部元親 274~276
*274~276は、バックナンバーです。
274 土佐、長宗我部国親が亡くなった。 「元親記」
元親、家督を継ぐ。 「元親記」
275 元親の、土佐統一は、ここから始まった。
そして、四国統一へと進展する。
その過程で、光秀との絆が生れる。
元親は、本能寺の変の重要人物の一人である。
276 この元親を、二人の弟が支えた。 「元親記」
当時、土佐は、八つの勢力に分裂していた。 「長元記」
目次 1~317
目次中 信長の台頭
1信勝謀殺 240~244
2尾張統一 245~253
3桶狭間 254~273①
3桶狭間 254~273②
3桶狭間 254~273③
3桶狭間 254~273④
4光秀と長宗我部元親 274~276
目次小 信長の台頭
1信勝謀殺 240~244
2尾張統一 245~253
3桶狭間 254~273①
3桶狭間 254~273②
3桶狭間 254~273③
3桶狭間 254~273④
4光秀と長宗我部元親 274~276
信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。
⇒ 次回へつづく
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