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本能寺の変1582 第37話 6光秀と信長 3上洛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第37話 6光秀と信長 3上洛
義昭は、天神馬場へ進んだ。
先勢は、すでに、攻撃に取り懸かっていた。
廿九日、乙亥(きのとい)、天晴、
今日、武家御所、天神の馬場まで御進発と云々、
先勢、芥川麓を焼き、責むと云々、
其の外、河州方々放火と云々、
(「言継卿記」)
芥川山城が落ちた。
大軍勢を目の前にして、戦意を喪失したのだろう。
城兵は、暗闇に紛れて退散した。
越水城(西宮)・滝山城(神戸)も、これにつづいた。
芥川に細川六郎殿・三好日向守楯籠り、夜に入り退散。
幷(ならび)に、篠原右京亮(長房)居城、越水・滝山、是れ又退城。
信長は、義昭を奉じて芥川山城に入った。
信長は、三好長慶を強く意識していた。
上洛を決意して以来の、念願だった。
これを、打ち消した。
然る間、芥川の城へ信長供奉なされ、公方様御座を移さる。
(『信長公記』)
山科言継は、これらを克明に記録していた。
信長は、池田城へ取り懸かった。
卅日、丙子(ひのえね)、天晴、亥の刻(22時頃)より雨降る、
今日、武家、芥川へ御座を移さるゝと云々、
勝隆寺・芥川等の城、昨夕これを渡し、
郡山道場、今日これを破る、
富田、寺外これを破り、寺内調(ととの)いこれ有り、
池田へ取り懸けと云々、
(「言継卿記」)
◎信長は、池田城を攻めた。
池田氏は、三好三人衆に与していた。
十月二日に、池田の城、筑後居城へ御取りかけ、
信長は、北の山に御人数を備へられ御覧侯。
◎城中には、荒木村重がいた。
村重は、信長の一つ年下。
この時、三十四歳。
池田家の重臣であった。
心の内に、夢と野望を秘めていた。
暫し、激戦がつづく。
水野金吾内に隠れなき勇士梶川平左衛門とてこれ在り。
幷(ならび)に、御馬廻の内魚住隼人・山田半兵衛、
是れも隠れなき武篇者なり。
両人、先を争ひ、外構へに乗込み、
爰(ここ)にて、押しつおされつ、暫の闘ひに、
梶川平左衛門、骼(こしぼね)をつかれて罷り退き、討死なり。
魚住隼人も、爰にて手を負ひ、罷り退かれ、
ケ様にきびしく侯の間、互に討死数多これ在り。
終に火をかけ、町を放火侯なり。
織田軍の士気は、高い。
今度、御動座の御伴衆、末代の高名と、緒家これを存じ、
士力(しりき=士気)日々にあらたにして、
戦ふこと風の発するが如く、攻むること河の決するが如し、
とは、夫(そ)れ、是れを謂ふ歟。
◎光秀は、後に、細川藤孝・荒木村重と婚姻関係を結ぶ。
両家に、娘を嫁した。
すなわち、明智を中心とした、閨閥を構築する。
これについては、後述する。
◎池田氏、降伏。
当主は、勝正。
抵抗を止め、開城した。
池田筑後守、降参致し、人質進上の間、
(『信長公記』)
荒木村重は、なかなかの策謀家である。
雲霞の如く押し寄せる織田軍を相手にして、池田氏には最期まで戦う気
など毛頭なかった。
形だけの抵抗だったのではないか。
三好は、逃げた。
「義理は果たした」
それで、十分。
信長は、戦いの終結を急いでいた。
「調いこれ有り」
両者の思惑、一致。
「降参」
戦後処理から、見えてくる。
⇒ 次へつづく 第38話 6光秀と信長 3上洛