本能寺の変1582 【 重史 42 】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【 重史 042】 「石谷家文書」
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信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
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*加筆修正
【 重史 042】 そ第78話⑧
①尚々、頼辰へ、残らず申し達し候
②今度、御請け、兎角、今に到り、延引候
③御朱印に応じ、此の如き次第を以って、
④不慮、成し下し候はん事、了簡に及ばず候、
⑤東州、平均に属し奉り、御馬を納められ、
⑥何事も何事も、頼辰、仰せ談じらるべく候、
「石谷家文書」
石谷頼辰は、土佐にいた。
交渉は、難航していた。
そこに、急報が入った。
「武田滅亡」
結局、これが、決め手になった。
「武田効果」、である。
以下は、長宗我部元親が斎藤利三へ送った書状。
「承諾」
元親は、信長の命を受け入れた。
その時の、元親の心情を窺い知ることが出来る貴重な史料である。
だが、土佐は、僻遠の地。
残念ながら、遅すぎた。
結果、間に合わず。
信長は、すでに、動き出していた。
五月七日、「四国出陣命令」【 重史 012 】。
元親は、未だ、これを知らず。
不運である。
そして、・・・・・。
「本能寺の変」へ。
光秀にとっては、不幸な結末となる。
「 (墨引) より
利三 長宮(元親=長宗我部宮内少輔)
まいる御宿所 」
尚々、頼辰(石谷)へ、残らず申し達し候上は、
内状に及ばず候へども(書状にする必要はないと思いましたが)、
心底の通り(心中は) 、粗(あらあら=大略)、此の如く候、
御斗(はか)らひ、過ぎるべからず候(よろしく、お計らい下さい)、
追って、啓せしめ候、
我ら、身上の儀、
終始、御肝煎り(お世話になり)、
生々世々(しょうじょうせぜ=未来永劫)、
御思慮まで候(お考えいただき)、
中々、是非、筆墨に及ばず候(筆舌に尽くしがたいほどです)、
一、今度(こたび)、御請け、兎角、今に到り、延引候段、
更に、他事にあらず候、
進物、了簡無きに付いて、遅怠、
既に、早、時節、 (?)
都合、相、延び候条、此の上は、是非に及ばず候か、
但し、来秋、調法を以って申し上げ、
相、叶うべき儀も、これ有るべき哉と其の覚悟致し候、
一、一宮を始め、ゑひす山城・畑山城・うしきの城・仁宇南方、
残らず明け退(の)き申し候、
▢御朱印に応じ、此の如き次第を以って、
先ず、御披露、如何、有るべき候哉、
是れにても、御披露、成り難きと、頼辰も、仰せられ候条、
弥(いよいよ)、残る所無く存じ候、
所詮、時剋到来迄に候か、
併(しか)しながら、多年、粉骨を抽んじ、毛頭、造意無きところ、
不慮、成し下し候はん事、
了簡に及ばず候(納得できないことです)、
一、此の上にも、▢上意、御別儀なき段、堅固候はゞ、
御礼は、申し上ぐべく候、
如何候へども、海部・大西両城の儀は、相、抱え候はて叶わず候、
是れは、阿・讃競望のためには、一向にあらず候、
ただ、当国の門に、此の両城は、抱え候はて、叶わず候、
哀々、御成敗候へばとて、了簡なく候、
一、東州、平均に属し奉り、御馬を納められ、
貴所、以って、御帰陣、目出たく候、
一、何事も何事も、頼辰、仰せ談じらるべく候、
御分別、肝要に候、
万慶、後音を期し候、
恐々謹言、
五月廿一日 元親(花押)
利三
御宿所
【引用】そ第78話⑧
⇒ 次へつづく
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