『同志少女よ、敵を撃て』 逢坂冬馬 作 #読書 #感想
第11回アガサ・クリスティー賞大賞受賞作。独ソ戦、女性だけの狙撃小隊がたどる生と死。
ソ連とドイツの戦争の話。
ソ連がウクライナを攻撃している今、複雑な気持ちで読んだ。
女性狙撃兵の存在も恥ずかしながら初めて知ったわけだが、
幼い女性たちが戦争のせいでどんどん考えを変えられていく、というか 考えを変えざるを得なくなる様子を読んでいると なんとも言えない気持ちになった。
この本は戦争の辛さ・悲惨さということ以上に、
戦争が終わったあと 生きて帰った人の孤独さを描いているようにも感じてしまった。
人を殺すことが当たり前で、それを称賛され続けた兵士たちが普通の生活に放り出されたとして、うまく生きれるはずがなかった。
人を殺した後の感情というのは戦争中は考えずに済むのかもしれない。無の境地なのかもしれない。
それでも戦争が終わった今、人を殺すことが犯罪となってしまった世界でどんなことを考えながら生きていけば良いのだろうか。
仲間は死んだ。孤独になった。誰かの命を消してしまった。代わりの命は1つとしてなかった。
最後まで悲しみ・苦しみのまま終わるわけではないけれど、
どうにもできない感情を残したまま読み終えたような気がしている。
イリーナという女性指導者(射撃がものすごく上手い)が、狙撃兵の少女5人と戦争に行く話。主人公はセラフィマ。もともと狩猟で射撃を行ったことがあった。
他の4人はアヤ、シャルロッタ、ヤーナ、オリガ。
彼らは皆、家族を軍人に殺されたという共通点を持っている。彼女らが全員生きて帰る世界など、ここにはない。
同じく猟師だったアヤがセラフィマに言ったこと。この物語の最初から最後まで重要であるセリフだ。
撃つ瞬間に無になる、というのは怖いことだ。人を殺すことに対して徐々に感情を抱かなくなる彼女たちをありありと見せつけられた。
最初の1行は、指導者イリーナが少女たちに言った一言だ。
人が目の前で死ぬのを見ても、恐怖も悲しみも感じなくなってしまう。
悲しみを抱けないという悲しみ のなかで、イリーナはすでに孤独だったのだろうか。戦争を終えて生きて帰ってしまった者に残された未来を知っていたのだろうか。
戦うか死ぬかとイリーナに聞かれて生きて戦う方を選んだセラフィマ。自分の家族の命を奪った男(軍人)に復讐すると誓ったセラフィマ。
セラフィマが人を殺すたびにおかしくなっていった描写は怖かった。何人殺したと自慢し、人を殺すときに興奮するセラフィマは、自分を失っていた。
そんなセラフィマという1人の少女を、イリーナは救おうとしていた。イリーナは 狙撃兵となる学校に通う少女たち全員に、生きがいを与えようとしていた。
このセラフィマとイリーナの関係を、イリーナ視点から読みたくなる物語であった。イリーナはセラフィマを見て何を思っていたのだろう。
セラフィマの イリーナに対する思いを残しておきたい。
セラフィマは親を侮辱し遺体を踏んだイリーナに対して、「最後はこの人を殺す」と、殺意を抱いていた。
「戦うのか、死ぬのか」と問うたイリーナへの復讐も考えていた。セラフィマは家族と一緒に死んでしまいたかったのだ。
でも最後に、彼女は気づくことができる。
(イリーナに対する思い)
女性を救うために戦うと言っていたセラフィマ。
実はイリーナも、彼女より先に彼女と同じ想いを抱いて戦っていた。
この事実だけに、救われる物語だった。